0章9節 青白い月、二十一度の言葉
夏目水季は地味な人間だ。わたしですらその存在に気付くのに半年近く要するほど、彼は影の中に上手く身を潜めて生きている。目立たないことに関して、この上なく徹底している。ともすればすれ違っても気付かないほど、彼という人間のシルエットは非常にあいまいで、その形を認識するのに手間取ってしまう。手間取っているあいだに、彼は視界からすっかり消えてしまう。実際のところ以前のわたしは、すれ違っても気付いていなかったのだろう。同じ街に住んでいることすら知らなかったのだから。
しかしわたしは、はっきりと夏目水季を認識した。認識したからといって、彼に対する印象が大きく変わったわけではない。彼は変わらず地味で、影が薄く、目立たない人だ。なのにわたしは、彼の一挙手一投足を目で追わずにはいられなかった。ひとたび視界に入れば、彼を意識せざるを得なかった。カメラの識別機能のように精密に、わたしは目に映る情報から彼の存在だけを区別してしまう。それだけ今のわたしにとって、夏目水季という人間はいくらか特別なのだ。今ならすれ違っても気付かない、なんてことはあり得ないのだろう。
だからたとえ、夜の公園で高鉄棒を利用して懸垂をする後ろ姿だけしか見えなかったとしても、わたしはそれが夏目水季だと気付いてしまう。懸垂?
「……何してるんですか、夏目くん?」
わたしは公園の入口で立ち尽くしたまま、その上下運動を三往復ほど見届けたのち、呆れたような声を作って彼に話しかける。彼は一瞬動きを止めると、ゆっくりと身体を下ろしながら鉄棒から手を離し、音を立てて着地する。そこで初めてわたしの方を向く。艶やかな熱気が彼を取り巻き、晩秋の冷気からその身を守っている。一呼吸置いてから、彼はいつも通りの抑揚のない声色を発する。
「何って……懸垂だけど」
「……それは見ればわかりますよ」
彼はわたしを無視してベンチに座り込むと、そこに置いてあったウエストポーチから水筒を取り出して、中身の水を豪快に身体の中に流し込む。心許ない白んだ灯りが、彼の喉元の突起の小気味よく跳ねる様子を丁寧に照らし出している。そのリズムが正しい時間を刻み、わたしの地面に張り付いた足元がようやく自由を得て、その空いたスペースにいざなわれるように彼の隣に座る。彼はいざなってなどいない、と言わんばかりに怪訝な表情をわたしに見せて言う。
「……なにか用でもあるの?」
「いいえ、特にありませんよ」
「……そうか」
彼は半ば諦めたようにベンチの背もたれに身体を沈め込む。彼のほとんど動かない表情は、こいつには何を言っても意味が無いんだろうな、と言っている。はい、そうですよ。わたしは夏目くんが何を言ってもここに座ります。わたしは笑顔だけでそう言う。
「毎日やってるんですか?」わたしは口に出して聞く。
「いいや、気が向いたら。ランニングと、適当な筋トレだけ」
「ふうん」少し間を置く。「いいですね。わたしもやろうかな」
「君は体育の成績もいいから、普段から運動もしてるものだと思ってたけど」
「体育の授業でちゃんと運動していれば基礎体力は十分付きますし、スポーツは要領ですから」
「それなら授業外で運動する必要もないんじゃないのか」
「それが最近、体重が少し増えてきていまして」
彼はわたしを一瞥して言う。「太ってるようには見えないな」
「そう見えなくても、事実体重は増えているんです」
「君はむしろもっと食べた方がいいように見えるけど」
「夏目くん。女の子は気にするんですよ、そういうの」
「君が気にするの?」
「しますよ、もちろん。わたしがそうありたいと思ってるんですから」
「それさ」
それさ、とだけ唐突に言葉が挟み込まれ、時間がぴたりと止まる。この瞬間だけ枯葉が擦れる音も、冷え切った風が肌を撫でる感触もどこかへ消えてしまう。彼は少し間を置き、それから顔を上げて言う。「君は自分のことを演じてるだなんて言ってるけど、人がそうありたいと願ってそうあろうとするのは、演技じゃなく普通のことなんじゃないかな」
思いがけない言葉に呆気にとられ、わたしは恐らく、目を丸くして彼を見ている。彼の視線は正面をじっと見据えながら、過去と未来を静かに行き来していて、記憶の中からかいつまんで抜き出した言葉の一つ一つを、アナグラムを解くようにゆっくりと並び替えているように見える。彼の言葉はまだ終わっていない。わたしはそれをじっと待つ。
やがて彼はウィンドブレーカーを鳴らして、ふたたびベンチの背にもたれかかる。その音がかちりと時間を動かす。すくった水をせき止めるようにももの上で指を組み、視線を動かさずにゆっくりとその言葉を口にする。
「なんというか、まるで灰色のパレットみたいだ」
「……灰色のパレット?」わたしは繰り返す。
「灰色の絵具ばかり乗ったパレット。例えば赤と青の混ざった色を紫と呼ぶし、黄色と緑が混ざれば黄緑だ。でも灰色は、どれだけ白を混ぜても、どれだけ黒を混ぜても、一般的には全部灰色と呼ばれる。確かにそれは味気ないように見えるのかもしれないけど、灰色だって無限のいろどりを持つ色で、同時に確固たる法則を持つ不変のものでもある。それだけでも成立するし、そうじゃなくても必要不可欠な色だ」
「灰色のパレット」わたしはその言葉を何度でも反芻する。灰色のパレット。「……なんだか、詩的です」
「まあなんというか……『灰色の人間』ってのは別に悪い言葉じゃない、っていうのが僕の言いたいことかな。後付けだけど」
灰色のパレット。その言葉は胸に空いた穴のどこかにすっぽりと収まるような独特な響きがある。じんわりと熱を放ちながら、紙粘土のように自在に形を変えて水漏れをせき止めるように。それは深いまどろみにも似た心地好さを覚えさせる。ひどく新鮮でありながら落ち着いた耳なじみがあり、違和感なく意識の境界をくぐり抜ける。そんな言葉が彼の口から発せられたことが何よりも驚きだった。いつだって彼は、祝福にも呪いにもなり得る大事な言葉を、なにげないそぶりで無感動に言い放ってしまう。古い納屋のさび付いた扉を多少強引に開くように。
「……夏目くんはわたしのこと、ちゃんと考えてくれているんですね」わたしはそう言ってみる。いくらかごまかしを含んだ声色で。
「考えざるを得ない、って方が正しいかな。僕らの関係は厄介で、一筋縄ではいかないから」
わたしは一つ眉を傾いで、はい、困ったものです、と言う。それからわたしたちの間に人ひとり分の冷たい沈黙が座る。わたしの耳の奥では彼の言葉が反響している。跳ね返ってはこだまして、足元までその音が巡っている。彼が水筒を開ける。ウィンドブレーカーを擦る音、液体が喉を通る音、心臓が脈打つ音、それらが遠くで響いている。枝葉の影が黒い空をガラスのように割り、不規則に揺れては風の音の訪れを報せる。まだ低い位置の年老いた月が閉じかけのふすまから覗き、青白い遊具は他人事のようにわたしたちを冷たく見守っている。目に映るもの一つ一つがわたしたちのためにあった。小さな舞台のコロスとなって、わたしたちを確実にあるべき場所へと導いていた。やがて水筒を閉じる音が、その沈黙の終点となる。
「わたしたちはもっと一緒にいるべきなんです」
わたしはうわごとのようにそう言う。当然だが、彼はわたしに興味を示さない。それはわたしも同じで、その繋がりは張り詰めた一本の細いナイロン糸のように危うく、次の瞬間には消えてしまいそうなほど希薄だ。心は雁字搦めに絡まってしまっているのに、身体は限りなく弱い磁力で付かず離れずのままでいる。わたしには彼との関わりを繋ぎとめる何かが必要だった。その一つが約束であり、もっと物理的なもので言うなら、もう一つは連絡手段だ。
「だから、連絡先を交換します」わたしは懐からスマートフォンを取り出して言う。
「提案ではないんだね」
「必要なことですから」
「悪いけど僕はあまりスマホを確認しないよ」
「じゃあ今日からこまめにチェックしてください」
「面倒なことになったな」
彼は一つため息をついて、ウエストポーチからスマートフォンを取り出し、勝手にどうぞ、と言わんばかりにわたしに差し出す。わたしはそれを受け取りアプリを操作する。その画面はひどく閑散としていて、最新の会話履歴に『東至真』の文字がある以外には、アプリ公式からの連絡が立ち並ぶだけだった。そこには徹底した彼の生きざまが映し出されていた。そしてそれがかえって『東至真』という名前を際立たせていた。
「東至くんとは普段どんな連絡してるんですか?」純粋な疑問が口をついて零れ落ちる。
「今何してるか聞いてきたり、突然意味のわからないスタンプを送ってきたりする。大体無視してる」
「ふうん。なんだか寂しがり屋な彼女みたいですね、東至くん」
「寂しがり屋な彼女ってそうなのか」
「さあ、どうでしょう」
最新の会話履歴を『染衣雪野』に塗り替えてスマートフォンを彼に返す。彼はそれを受け取り、何事もなかったかのようにウエストポーチにしまう。彼は徐に立ち上がると、指を組んで両腕を前に突き出し、ゆっくりと息を吸いながら上に持ち上げて背を伸ばす。
「これからなにか予定ありますか?」わたしは彼を見上げて言う。
「無いよ。なにも」大きく息を吐いたあと、彼は応える。
「じゃあ今から夏目くんの家に行きますね」
「それはいい。ホラー映画みたいでわくわくするね」
「人を悪霊みたいに言わないでください」
「じゃあ一から説明してくれ」
「夏目くん」わたしは確認するように繰り返す。「わたしたちはもっと一緒にいるべきなんです」
彼は少し考えてから、諭すような口調で言う。「そう言っていれば君はいずれ、一緒に風呂に入ろうだとか、一緒に寝ようだとか、そういうことを言い出す危うさがある。僕らは多分、互いに許そうと思えば、どこまでも許せてしまう。でも今後僕らの関係がどうなろうと、僕らがともに過ごした日々は決して無くなりはしないんだよ」
「仮に後悔する日が来るというなら、それは願ってもないことです。それに今更家に行くくらいなんだって言うんですか。夏目くんはすでに、わたしの部屋の敷居をまたいでいるんですよ」
もう手遅れです、とわたしが笑うと、彼は予定調和のように眉を寄せては小さくため息を零す。それは互いに対する確認作業のようにも見える。君は普通じゃない。はい、そうですよ。夏目くんも普通ではないのです。
それからわたしたちは七時過ぎの住宅街を揃って歩き始めた。街灯りが人々の生活を比喩しながら、わたしたちをよそよそしく見守っていた。その一つ一つに大きな意味を含んで、ときおり壁一枚の隔たりすら月とわたしたちのあいだの果てしない距離を思わせるほど、しんと冷え込んだ孤独をわたしたちに染み込ませた。帰路を外れる右折が、まるで別世界への扉を開くための儀式のように感じられた。得も言われぬ不安と違和感に鼓動を少し早め、わたしは確かな意思を持って彼と歩幅を合わせた。耽るままの夜凪に人音二つ、つかの間の調和が気持ちばかりもたらされていた。わたしたちの周りには綺麗な球形の殻が形成され、二つの心が完璧な距離を保ってうずくまっているようだった。明瞭な意識の中で、わたしたちは生より一つ前の段階を歩いていた。いずれ消えゆくその自然な沈黙を、わたしは無意味に破った。
「……そうは言いましたが、ちゃんと目的はあります」
彼はわたしの唐突な言葉に、訝しげな視線を向ける。「何のこと?」
「わたしも夏目くんに倣って料理をちゃんと作ろうと思ってるんです。まずは夏目くんがこの前作ってくれた料理を再現しようと思って。ほら」わたしは肩に下げた買い物バッグの中身を彼に見せる。
「これから僕の家で作るってこと?」
「はい。お返しも兼ねて。今日夏目くんに会えたのは僥倖でした。せっかくなので夏目くんに教えてほしいです」
彼は少しだけ考えて言う。「別に構わないけど、僕もネットのレシピをそのまま作っただけだよ」
「まあ、そう言わずに。そういうイベントだと思って」
「イベントね」
便利な言葉だ、と彼は言う。わたしは微笑む。これもまたわたしたちのあいだに、あるべき形式を定義づけられた儀式の一つ。
見慣れない道を少し歩いた先、小綺麗なマンションの前で彼は立ち止まり、ここだ、と指差した。わたしはマンションに入っていく彼の後ろ姿を追った。オートロックを解除し、階段を二階まで上がってから少し歩いた先、「二〇三」の標識の前で立ち止まり、彼はそのドアの鍵を開けた。カチャ、というゆったりとした金属音に、ある種の緊張感のようなものが漂った。その一瞬だけ色々な想像がわたしの思考をかき乱し、ドアの開かれる音で我に返った。彼に促されるまま、わたしは空間と空間の間にある確かな隔たりを踏み越えた。
少し広めのワンルームがわたしを出迎えた。白を基調とした落ち着いた色合いの景色の中で、特筆すべき個性のない広めのローテーブル、綺麗に整えられたベッド、シンプルなデザインのクローゼット、半分ほど埋まった大きな本棚が目に入った。あとは最低限の日用品が手の届くところに置いてあるのみで、いくらかの相違点だけ除いてしまえばそれはひどく見慣れた景色のように思えた。それはわたしに自然な安心感を与えた。
「僕はシャワー浴びるから。君は適当にくつろいでて」
「はい、お気になさらず」
わたしはローテーブルの適当な四辺に腰を下ろす。彼はウィンドブレーカーを脱ぎ、ぐるりと小さく畳んで小脇に抱えたところで、わたしを一瞥して言う。
「覗くなよ」
「わたしを何だと思ってるんですか?」
「先んじて言っておかないと、君は平気でやる人間だ」
「でもなぜ覗いてはいけないのか、理由を言ってくれないと納得できないかもしれません」
「そうか。なら外に出るといい。頭を冷やすにはいい寒さだ」
「冗談ですよ」
彼は一瞬だけわたしに疑いの視線を向けてから洗面所に身体を隠した。とん、と引き戸を閉める音が聞こえると、妙な静寂が優しくわたしに覆いかぶさった。いくらか衣擦れの音を挟んで、独特な形状の扉を開閉する音、続いてホワイトノイズに似た水音。壁を挟んだ先に一糸まとわぬ夏目水季がいるという状況。それはいくぶん異様で、得も言われぬ居心地の悪さがあり、わたしはすぐに手持ち無沙汰になった。あたりを見回してみても、時計の針の位置以外の変化は訪れなかった。キッチンが料理を作るための場所であり、風呂場が身体を洗うための場所であるように、このリビングは生きるための場所でしかないのだ。
しかし、絶妙なバランスによって保たれているはずの空気の調和がその実、一つの違和感によって大きく乱されていることに気が付いた。テーブルの上に無造作に置かれた雑誌は明らかな異物感を漂わせていて、それはまるで暗い森の奥に打ち捨てられた人工物のような、妙な不安感を覚えさせた。それを手に取ると、『PriMA』の煌びやかな文字列の向こう側から、名前も知らない女性がわたしを見つめていた。
わたしはファッション誌をいくつか購読しているが、『PriMA』はどこか避けているところがあった。そこには各務優理の姿が載っているからだ。各務優理の読者モデルの姿を覗き見るのは、彼女の秘密を勝手に探るような気がして、得も言われぬばつの悪さを覚えるものだった。しかし今日、この瞬間はどうしてか、どこか心の隙間にすっぽりと収まる言い訳のようなものがあった。ここは夏目水季の部屋で、これは恐らく夏目水季の所有物だ。夏目水季はすでにこれを読んでおり、そこにいるであろう各務優理の姿も確かめているに違いない。言うなれば夏目水季は共犯者だ。そう思えば、わたしはこれを読むために踏むべきいくつかの手順を、無体にもまるっきり無視できるような気がした。
わたしは『PriMA』を手に取ると、一ページずつその内容を慎重に確かめていった。冬物の装い、流行りのコスメ、最新の美容器具、そういった雑多な情報が意識の表面に湿った薄膜を張りながらつるりと流れ落ちていった。ページをめくるたびどこか自分がとても悪いことをしているような気分になり、ごまかすように丁寧にその過程を一つ一つ検分していった。SNS映えから大人らしい上品な装いまでの幅広いコーディネート指南があり、そのあとに数ページの韓国ファッションの特集が挟まり、ページが半分を過ぎた頃、わたしはその姿を確かめて手を止めた。
紙の向こう側で各務優理が立っていた。首元の深いアイボリーのニットワンピースで全身を包み、薄茶色のコートを見慣れた形式で着崩していた。その落ち着いた色調の中で赤々としたパースバッグが存在感を主張し、画面全体の程よい調和を保っていた。それらは横風になびいていて、彼女の視線はその風の行く先を示していた。微笑みを浮かべながらもどこか物憂げな表情が、普段の活発な彼女からは想像もできないほど儚く脆い印象を見る人に与えてた。その大人びた佇まいから、彼女が高校生であることを見抜くのは難しい。その特徴的なウルフカットを隠してしまえば、その姿が各務優理のものであると判別するにはいささか手間取ってしまうだろう。
耳の奥でざわざわと何かが揺らめく音がして、わたしはその姿に釘付けになった。彼女はまるで別人のようでいて、疑いようもなく各務優理だ。その同一性に不和のようなものは存在せず、二人の間は完璧な幾何学模様を描いて繋がれている。視界と記憶がちかちかと明滅し、浮かんでは消える淡い炭酸の泡に思考を洗われるような感覚があった。その姿は、確かにわたしに何かを語りかけている。大きな川の流れの源泉を一つ一つ確認しに行くように、漠然とした問いの意味に思慮を巡らせた。しかしいくら意識の濁流に身を任せてみても、せり上がった何かは胸元のあたりで止まってしまう。
わたしは上を向いて目を閉じ、意識して呼吸を数えた。冷めた脳裏でその感覚の正体を探った。しかし、まるでそんなもの初めから存在しなかったかのように、それは痕跡一つ残さず消えていた。目を開いてもう一度彼女を見る。そこには見慣れた各務優理がいる。カーネーションのウルフカットを揺らす各務優理だけが、そこには立っている。
それからわたしはまた雑誌のページをぱらぱらとめくっていった。いくらか意図を失った思考が、恣意的に引かれた線上に事務作業のような手際で情報を乗せていった。特筆すべき邂逅はもうそこにはなかった。ちょうど最後のページをめくったところで、洗面所の扉が開く音にわたしは顔を上げた。夏目水季がそこにいる。その事実に少し安心感のようなものを覚えた。
「気になるものは載ってた?」わたしの手元にある雑誌を一瞥して彼は言う。
「ええ、もちろん」わたしは笑う。
彼は白いTシャツとグレーのハーフパンツを身に着けていた。どちらにも目立った柄はない。普段は隠されている彼の腕はまだ熱気でしっとりとしていて、細すぎることもなければ太すぎることもない、自然で健康的な筋肉を蓄えていた。乾かしたばかりの髪は不揃いの毛束の上でてらてらと蛍光を反射させていて、前髪の左半分はいつも通りの調子でかき上げられていた。剥き出しの上気した耳元はいつになく色香を放っているように見える。彼の男性的魅力がいくらか、あるべき姿として明け透けにされていた。
「不思議な感覚でした」わたしは言う。彼は、そうか、とだけ返す。
それからわたしたちはキッチンに入り、並んで晩御飯の準備を始めた。彼は一つしかないエプロンをわたしに渡し、スマートフォンに保存されたレシピを開いてわたしに見せた。鶏肉のみぞれ煮、大根の煮物、たらの煮付け、白米、味噌汁、サラダ。あの日の食卓を確認していく。
彼は「面倒だから」と言って調味料のほとんどを目分量で混ぜた。わたしが野菜を切るとき、彼は「指を切らないように」とだけ言った。わたしが一つ作業を終えると、彼は次の段階の作業の準備をすでに終えている。わたしが「あなたは料理の先生になれますよ」と言うと、彼は「少なくとも君に教えられることはあまり無いかな」と言った。そんな意味の無い時間をしばらく過ごした。意味など、今は無くてもいいのかもしれない。
完成した料理をローテーブルに並べ、わたしたちは向かい合って座り、食事を始めた。わたしが正座で、彼があぐら。目の前の景色を見ると、一度かたちを失ったはずの記憶が少しずつ輪郭を取り戻していった。立ち込める料理の湯気が、部屋の空気を揺らめかせている。出汁の香りが指先にまで馴染んでいる。生命を咀嚼している。おぼろげな情景が、確かな熱を持って時間を跳躍していた。違うのは彼の座っている位置くらいだった。
「おいしいですね」わたしは笑う。
「ああ」彼は短く返事をする。
「まるで新婚さんみたいです」
「よく恥ずかしげもなく言えるものだ」
「でもわたしたちの関係は、客観的に見れば恋人そのものです」
「怖い話だ」
「ええ、怖い話です」
恐らく彼は、咀嚼していなければため息の一つでも零していたのだろう。そんな表情を垣間見て、わたしはふと笑顔を浮かばせる。それからわたしは一言、ところで、と切り出し、少し間を置いてから思ったままを言葉にする。
「夏目くん、最近各務さんと仲がいいですよね」
「仲がいいかはさておき、話す頻度は増えたかもね」
「どんなことを話すんですか?」
「大体は図書委員のことだよ。どうやら最近、仕事に意欲的らしい」
「そうなんですね」わたしはそこで一度言葉を切る。「わたしも……各務さんと仲良くなりたいです」
「そうか」
応援してるよ、と彼は表情を変えずに言う。静寂の中で、箸が食器に当たる音だけがわたしたちの居場所を示している。その調和を乱してはなるまいと、可能な限り咀嚼の音を抑える。鶏肉を慎重に噛みほぐして静かに飲み込む。
「各務さんはいいんですか?」
「なにが?」
「お話をすることです。各務さんだって、わたしと同じくらいは目立つ方なはずですよ」
「本意ではないけど、かと言って無碍にはできないだろ」
「押しに弱い、ってことですね」
彼は訝しげにわたしを見る。「妙な事考えてないか?」
わたしは笑みだけを返し、心の中でもう一度、わたしたちはもっと一緒にいるべきなんです、と言う。たとえそこにどんな目的があろうとも、彼と過ごす時間そのものがとても大切で、わたしは一秒でも長く彼を観察したいし、一文字でも多く彼と言葉を交わしたいのだ。彼は出口で、もしくは入口で、そのドアノブにはもう手が掛かっていると言えるほど、わたしたちは影を踏むばかりの距離で立ち往生している。たとえ関係性の潮流に身を投げることしかできないのだとしても、そこに彼がいなければわたしの時間は動かない。それほどまでに深く、彼の心の空洞に満たされた謎めいた液体の中に、わたしの心はすっかり沈殿してしまっている。それをすくい上げるのもまた、彼しかいないのだ。
わたしたちはあの日と同じように、作ったメニューを余すところなく完食した。食器はわたしが洗うと言うと、彼はそれを一蹴し、結局二人で手分けをして洗うことになった。自分が損な役回りを引き受けることに関しては、彼はいくらか強情になる傾向がある。それはわたしも同じなのかもしれない。その性質は義務感に近い。わたしたちは他人より、圧倒的に余地のある人間なのだから。
後片付けを全て終わらせると、わたしたちは再びローテーブルを囲んで、再び同じ位置で向かい合って座った。
「今度こそお腹いっぱいになった?」彼が言う。
「はい、すっかり」わたしはお腹に手を当てる動作をする。
「いつ帰る?送るよ、夜道は危ないし」
「帰るのが億劫になってきちゃいました。泊ってもいいですか?」
「玄関の外になら寝るスペースはあるけど」
わたしは眉を傾げて笑う。「冗談ですよ。すぐに帰ります。でも食べ終わったばかりなので少し休憩したいです」
そうか、と言うと、彼はテーブルの隅に置かれた文庫本を手に取り、挟んでいたしおりを指の間に挟んでページをめくり始めた。再び限定された景色が記憶の底から姿を現した。しっとりと熱を帯びた情景が頭の中でかがよい、その姿に夢中になった。よく見える首元が芸術性に富んだ陰影を描いていて、ちらりと覗かせる角ばった鎖骨が畏れ多くその被写体を支えている。ところどころ浮き彫りになった血管がその内に孕んだ妖しさを巡らせ、正しい蠕動で生命と結びつけては根源的なエロスを無自覚に発散している。彼の顔立ちが、身体つきが、完全な黄金比を描いたひどく美しい図形に見えてくる。一般的に言えば、彼は間違いなく魅力的な人間なのだ。一体今までどうやって隠し通してきたのだろう?わたしはしばしその疑問にはりつけにされた。そこには一種のフィクショナルな特異性さえ垣間見えた。
「僕の顔に変なものでも付いてる?」ふと彼が視線を動かさずに言う。
「いいえ。夏目くんはモテそうなのになあ、と思ってるだけです」
「恐ろしい話だ」
「でもなんとなく、もう少しだけ夏目くんを独り占めしたいな、と思う自分もいます」
「そうか」
「……これを恋と呼ばずして何と呼ぶんでしょうね」
「知らないよ」
そう言ってすっぱりと会話を切り捨てると、彼はすっかりわたしを気に掛けなくなってしまった。わたしたちは視線を動かさないまま、しばらく時間のそばに寄り添ったままでいた。浅いまどろみの中で、わたしは彼の姿を目に焼き付けた。まばたきするたび、その景色をまぶたの裏に転写した。許されるまま、夏目水季を司る要素の一つ一つを検証していた。今まさに、わたしにだけ与えられた特権だ。
灰色のパレット。積み重なったくもり雲の不規則な流動が運命的なタイミングで一瞬だけ陽光を覗かせるように、ふと彼の言葉が意識のふたを開けた。灰色の人間、黒と白の間の無限。繋がれた糸に引っ張り上げられるように、斜陽にすっかり溶け込んだ景色が目の前に現れた。わたしはその記憶に釘付けになった。空気が温かみを帯びると、セピア色の風景が少しずつ彩度を上げ、わたしたちはもう一度輝くばかりの夕陽の中で向かい合う。とりとめのないノイズの中で、初々しい距離を保って静かに佇む。一字一句が音のない言葉となってあたりを漂い、次第にそのシルエットがゆっくりと正確にかたち作られていく。耽るばかりの白昼夢、もしくは苛むような明晰夢。長いようで短い時間、遠のいていく彼の瞳を見つめ続けながら、ここにない時間を揺蕩う。やがて彼は言う。君はそのままでいいと思う。
はらり、とページをめくる音がわたしの意識を殺風景なワンルームへと揺り戻した。彼は姿勢一つ変えず、昏い瞳で静かに活字を追っていた。暖房の熱に溶け出してこの部屋に浅く癒着してしまったかのように、身体が一種のけだるさのようなものに支配されていた。このまま深く夢の中に落ちてしまいたい。わたしはその衝動を抑え、そよ風に当てられた布のように緩慢と左右に揺れながら腰を上げた。その様子を確かめて、彼も文庫本にしおりを挟んだ。
「じゃあ、そろそろ帰りますね」
「わかった」
それからわたしたちはともに部屋をあとにし、マンションを出てから、再び夜の住宅街を並んで歩み始めた。厳密に決められた間隔で街灯がわたしたちを他人事のように照らし、右から左へと影を伸ばしては姿を消す。消えたそばから、また姿を見せる。いくらか概念的な景色の巡りに、わたしは時間という定められたルールの上から少しだけ横に逸れた。夜の海にぽつねんと浮かぶ青白い月は、わたしたちににやりと嘲笑のようなものを向けていた。重い扉を閉めるように、儀式的な右折がわたしを日常へと揺り戻した。正しい手順で時間を遡って、わたしたちはついに一言も交わすことなく、見慣れたマンションの前で足を止めた。
「明後日の月曜日からは文化祭の準備期間ですよ」彼に振り向いてわたしは言う。
「そうか」
「メイド服、夏目くんにも着てもらいますからね」
「そういう話だったな」
「じゃあまた明後日」
「ああ」
彼は振り返って帰路をたどり始めた。その後ろ姿をしばらく見つめたまま、わたしは彼に投げかけた問いを反芻した。これを恋と呼ばずして何と呼ぶんでしょうね。恋、恋愛。恋慕。
答えの出ない問題をまた一つ、わたしは頭の中の引き出しの奥にしまい込んだ。




