転校生に浮き足立つ教室
その日一年生一組の教室は朝から浮ついた空気に包まれていた。
情報の早い生徒からもたらされた、転校生がやって来るという噂が瞬く間に一年生の生徒に広がった。男子生徒なのかそれとも女子生徒なのかと様々な憶測が飛び交う。噂話は隣のクラスにも波及し一年生はお祭り騒ぎになっていた。
今朝職員室に用事があった生徒は、職員室内に女子生徒が居たと言った。ある生徒は登校している時に見慣れないカッコイイ男子生徒を見かけただの、お調子者の生徒が真相を確認しようと職員室に突撃したが生徒指導の教師に捕まって説教を受けているなど、思い思いに転校生の話題を楽しんでいる。
ただ昨日まで教室にあった机の数よりも、机がひとつ増えていることが今日本当に転校生が来ることを物語っていた。
興奮冷めやらぬままホームルームの時間になり一組の生徒はワクワクしながら、他の組は名残惜しそうに各々のクラスに戻っていった。
いつもよりも少し遅れて一組担任の桃山由香が教室にやって来た。桃山が教室に入ってきたとき開いた扉の隙間から転校生らしき女子生徒が見えて生徒たちから歓声が上がる。とくに男子生徒たちを中心に喜びに沸いていた。
「えー。みんなに大事なお知らせがあります。今日からこのクラスで一緒に学ぶ仲間が増えます。うさーい! 静かに!」
桃山が口を開くも生徒たちの声が口々に好き勝手しゃべりホームルームがなかなか進まない。なんとかなだめようと桃山は声を張るが、残念ながら効果は乏しかった。
「センセー。早く転校生の紹介してくださーい」
「そーそー。ユウカちゃん話ながいよー!」
「こら沖田君! 先生のことは桃山先生と呼びなさい!」
「暑いのにずっと廊下に待たせとくの可哀そうだよ」
「もぉ、静かにー! 隣のクラスに迷惑かかるから静かにしなさい! ああもう、いいわ。香月さん入ってきてちょうだい」
生徒たちを黙らせられないと悟った桃山は説明そこそこに、一組の生徒たちが待ち侘びた転校生を教室に招き入れる。
桃山が扉の向こうへ呼びかけたあと、少し間があり扉が開く。教室へ入ってきたのは背の低い女子生徒だった。
「はじめして香月夏希と言います。本日からよろしくお願いします」
緊張からかやや硬い口調での短い自己紹介であったが、生徒たちからすればそんなことは問題ではない。夏希が喋る瞬間は静まりかえっていた教室は、夏希が喋り終わると今日一番の盛り上がりとなった。
担任の桃山が夏希に席に座るように言う。夏希が着席して生徒たちは今から転校生のためにオリエンテーションが始まると考えていたが、無情にもそのまま授業が始まり大ブーイングが起こった。
浮ついた空気のまま授業は始まった。授業中の生徒たちはいつも以上に集中に欠けており、チラチラと転校生の様子を窺ったり、小声で内緒話をする様子に桃山は内心ため息をつきつつも、今日ぐらいは大目に見ようと思いなおし授業は続いた。
一時間目の授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、担任の桃山は次の授業までに黒板を消しておくように日直の生徒に指示をだすと教室を出て行った。
次の授業までの十分間の移動休憩。この短い時間を生徒たちは待ちわびていた。次々と転校生の夏希の周りに集まり質問をぶつけ始めた。
その光景を遠目に春樹は席に座り眺めていた。
妹の冬里が夏希に寄ってくる生徒たちに質問は一人一つまでなどと叫んで仕切っていた。夏希がひとつの質問に応える度に歓声が上がる。
「よ、春樹! どした。そんなに転校生ちゃんを真剣な眼差しで見つめちゃってさ。ひょっとして一目惚れ?」
「んなわけねーだろ」
話しかけてきたのは春樹の友人の沖田武豊だ。
昨日の夜に春樹は母親の青葉に、新しい妹の夏希の面倒を見るように頼まれていたので様子を見ていただけだ。いまはそばに冬里がいるので春樹の出番はなさそうだ。
「タケは行かないのか? てっきり先頭切ってダルがらみしに行くと思ってた」
「ダルがらみ言うな! まーあ。俺もそのつもりだったんだけどさ、日直の仕事で黒板消してたら機を逃した。今更あの女子たちをかき分けて行ってみろ、アイツらに何言われることか、考えただけで震えてくるわ」
担任の桃山が教室を出ていく前に念を押すように言っていたのは、なるほど日直が武豊だったからかと春樹は納得した。
お調子者の武豊はイベント事には敏感である。今日転校生がくることにいち早く気づき噂を広めたのも、職員室に偵察に行って生徒指導の大城に捕まったのも武豊だ。
「ところでなんであの場を冬里ちゃんが仕切ってんだろね。同じ名字でシンパシー感じちゃった系?」
「ふん。頼れるお姉さんぶってるんだろ。夏希の方が誕生日先なのに」
武豊の質問に思わず鼻で笑ってしまった。同じく青葉に夏希を頼まれた冬里は現在進行形で張り切っているのだろう。
以前から妹が欲しがっていた冬里は、念願の妹が出来たと喜んでいた。ところが話が進むと夏希の誕生日のほうが早いことが判明する。なんと年下だと思っていた夏希の方がお姉さんだったのだ。事実を知ってもめげない冬里はこの家では私が先輩だから、私がお姉さんだと訳の分からない理由を作っていた。
「あー! 春樹おまえなに転校生ちゃんのこと呼び捨てにしてんだよ!」
大声をあげて指さしてくる武豊に、うぜえと思いながら向けられた手を鬱陶しそうに払いのける。
「本人がそう呼べって言ってるんだから別にいいだろ。あと俺たちと夏希は親戚だ」
「あ、そうなの」
昨日の夜に何の前触れなく春樹と同じ家で暮らすこととなった小さな女の子。
母親の青葉は今まで自分の家族の頑なに話をしてこなかった。それがいきなり春樹と冬里の親戚だと言って紹介してきたのだ。
リビングで紹介されたときは冬里と同じく、夏希の背の低さから春樹もてっきり年下だと思っていた。母親曰く。いままで病気で必要な栄養が取れていなかった影響ではないかと言っており、このとき本人の夏希も上手いこと説明しているなと話を聞きながらうなずいていたことから、春樹たちはその話に納得してしまった。
最初に春樹が夏樹と出会ったときは顔色も悪く、シャツから覗いた細い脚は病的なまでに白かった。と、そこまで思い出して春樹はこれ以上思い出すのをやめた。
「どした春樹、急に顔真っ赤にして?」
「何でもない。気にすんな」
昨日自室の向かいの空き部屋から大きな物音をしたのを、春樹は不審に思い確認に行った。部屋の中にはサイズの合わないワイシャツ姿の半裸の夏希が床に這い蹲っていて鏡越しに春樹と目が合うと叫ばれてしまった。
夏希との出会いは最悪で嫌われたものと春樹は思っていたが、リビングで再会してからも普通に接してくれていた。会話中も別段、春樹への嫌悪感などは感じられなかったので密かにほっとしていた。
そして今朝の出来事てある。春樹は目覚めて朝ごはんを食べようと一階に降りようとドアを開けたところ、身体にバスタオル一枚を巻いただけの夏希が部屋の前に立っていた。バスタオルで隠れきれていない腕や肩は白く美しかった。
そんな姿を春樹に見られたのに夏希は特に気にした素振りは見せず、おはようと挨拶をよこしてきた。その光景はまだまだ初心な春樹には刺激が強く寝ぼけた頭は一瞬で混乱へと変わった。なんとか返事を搾り出し自室へ逃げた。
「ほんとにどうした? 情緒不安定?」
「大丈夫だから。ほんと気にしないで。マジで」
急に頭を机に強く打ち付けた春樹の奇行に武豊は心配そうに声を掛けた。
「でさ、親戚の春樹くんは転校生ちゃんどこ住んでんのか知ってる? もしかしたら俺も帰り道一緒で俺もお近づきになれたり。なんて」
「タケってああいうの好みだったっけ?」
「いんや。俺はナイスバディなお姉さんが好きだ。でも転校生ちゃん美人だし、身体の方もまだまだ成長途上とみた!」
「キモい。死ねよ」
「んんッ辛辣ゥ! で、知ってんの?」
「ああ、うん。まあ、あれだ。ウチだよ。ウチ」
「あ?」
「だから夏希は俺の家に住んでんの」
一瞬隠そうかとも春樹は思ったが、どうせすぐに冬里経由でクラス中にバレるだろうから春樹は素直に白状した。
「ハァァ! おまえ冬里ちゃんという可愛い妹と住んでおいて、美少女転校生ちゃんとも家で一緒とかズル過ぎんだろ! 卑怯だ。横暴だ。人生不公平だ!」
「なにがだよ。冬里は妹だし。夏希だって妹みたいなもんだろ。お前が思っているようなことは一切ない」
「絶対に? 絶対だよな? ラッキースケベとかも誓ってないって断言できる?」
「マンガの見過ぎだって。そんなことあるわけ……。ないだろ?」
「おい春樹。なんだいまの間は! あったのか? あったんだな! どっちだどっちと何があったか詳しく話せ!」
「手ぇ放せ! おまえが思ってるようなことは一切ねえよ!」
春樹の襟をつかんで割と本気で武豊は揺さぶる。
武豊が勘ぐった通り、まるで漫画のような出来事が春樹の身に起きてしまった。だがそれを口に出すのは憚られる。夏希の名誉もあるし、なによりこれからの春樹の人生に影響を及ぼしかねない。きっと今後、覗き魔だの不名誉なあだ名が付き纏うことだろう。
「へー。あの子、夏希ちゃん? は春樹の従兄弟なんだ」
「おわ! どっから沸きやがった!」
「なんだ謙吾。聞いてたのか」
教室と廊下を隔てる窓が開いていてそこからの近見謙吾が顔をのぞかせていた。
「でたなイケメン王子! てめえ、美少女転校生のうわさを聞きつけ毒牙に掛けにきたんだな! 転校生ちゃんが危ない。コイツには気を付けてお兄さま!」
「ハハ、ひどい言い草だね。タケ」
「おまえに俺をタケと呼ぶことを許した覚えはない!」
「おまえにお兄さまと呼ばれる覚えもないけどな。おい、謙吾。そこ開けてたら暑いから閉めろよ」
春樹は謙吾に教室入ってくるように要求する。
冷房の効いた教室から謙吾が開けた窓のせいで冷気が逃げていき、春樹の席に周辺の気温が上がってきている。心なしか席の周りの生徒の視線が痛かった。
「で、どれが春樹の新しい妹ちゃんなわけさ」
「おい、謙吾。窓から入って来るなよ」
「あれあれ。あそこで女子群がって結界はってるとこ」
「なるほど。あれじゃ男子は近づけないね」
「おい謙吾。何しに来たんだ。まさか本当に夏希目当てで来たのか?」
「いや? さっき廊下で監督に会ってさ。今日の部活のメニューは筋トレだって聞いたから、それを春樹に教えにきた」
「うへぇぇ。今週も監督ジャンケン負けたのかよ」
謙吾が春樹に伝えてきた筋トレというのは本日のサッカー部の練習メニューの話だ。
グラウンドを使う運動部はサッカー部の他には野球部と陸上部の部活のみ。グラウンドを半分に区切って使用する都合で、グラウンドで部活をできるのは二つの部活だけになる。
毎週各部活を受け持つ教師がじゃんけんで使用する順番を決める。
「おお。じゃあ近見。今週の一位はどこになったんだ?」
「良かったねタケ。今週は野球部が一位だ」
「やったぜ!」
「今週も、だろ。野球部の監督ジャンケン強すぎね。これで何度目だよ」
サッカー部、野球部、陸上部でジャンケンして最後まで勝ち残った部活が一位と呼ばれ、週四日間グラウンドを使用できる。負けた部活は週三日間しか使えない。
グラウンドが使えない日は端っこの方で主に筋力トレーニングなどになるため、筋トレと読んでいる。
なので筋トレと言うのは本日グラウンドが使えないということを示す言葉にもなっていた。
「だね。で、俺はそれを伝えにきたの。そしたら気になる話が
聞こえてね。転校生が春樹の家族らしいから万が一にも失礼があっちゃいけないから今のうちに顔を覚えておこうかなって」
「おまえは俺の何なんだよ」
「俺は春樹のパートナーだよ」
「なんかその言い方やだな。ライバルって言えよ」
春樹と謙吾は同じサッカー部で同じポジションのフォワードである。
謙吾は夏の大会で一年生で唯一ベンチ入りをしており、三年生の最後の大会だったためにボールを蹴る機会はなかったが部内では誰もが謙吾の実力を認めていた。
謙吾と違いゴール前の決定力が欠ける春樹はいつも脇役だった。しかし自分の実力は謙吾に決して劣っていないと春樹は考えている。
「お、冬里ちゃんの隣の小さい娘が夏希ちゃん? かわいいじゃん」
「近見おまえ! やっぱり狙ってんな! お兄さま。やっぱりコイツ一回ボコって解らせとかないと妹ちゃんズに手を出す気ですよ。お兄さま!」
「おい謙吾。ふたりに手出すなよ」
「ええ! タケだけじゃなく、春樹まで。俺をなんだと思ってるんだ?」
母親に夏希を頼まめた手前、冬里に任せて何もしないのも気が引けたので、目の前の顔のいいサッカー少年に春樹は釘を刺しておいたのだった。