コーヒーとカフェオレ
いつからか夏希はひとりの時間を好むようになっていた。
それは今も変わらない。誰かと一緒に居るよりもひとりで居る方が落ち着くのだ。
とくに自室は一番落ち着く場所である。そこは誰にも邪魔されず、誰の目を気にすることなく過ごせるから。そこだけが本当の自分を曝け出すことができる唯一の場所であり、誰にも踏み入れられない聖域。
しかし最近になってそれを犯さんとする者が現れた。
それは夏希のお姉ちゃんを自称する冬里だ。
精神年齢はもちろんとして、設定上も夏希の方が早生まれである。現在夏希十三歳。冬里十二歳。この通り夏希の方がお姉さんなのだ。
それなのに周りも含め、なぜか夏希を妹として扱う。
それもこれも冬里がそこかしこで姉と強調しているからだろう。
結局のところ言ったもん勝ちなのか。
だがそれに対抗し夏希が自分の方が姉と言って回ったところで、生暖かい眼で見られる光景しか浮かばないのはどうしてだろう。
やはり同年代よりも頭一つ低い身長が原因だろうか。
そして大変困ったことに冬里はノックはおろか、声掛けすらもなく勝手に部屋へ入ってくる。
思春期の子供の部屋にノックなしで、また返事を待たずに侵入するのは実刑が下されてもおかしくない極悪犯罪である。もし夏希が男のままであったなら色々と危なかったかもしれない。
あと彼女は距離感とか遠慮とかいう言葉を知らない。
香月家にやってきてからというもの冬里はずっと夏希に付き纏ってくる。
一日で一緒にいない時間の方がめずらしいと青葉や春樹に言われるくらいにはずっと一緒だ。
最近はお風呂も寝るときも一緒になることがある。少し前に部活帰りに共にお風呂に入ったのがイケなかった。あれ以降夏希がお風呂に入っていると、後から冬里が入ってくるようになった。
また昨日の夜も夏希のベッドに枕が二つあった。
冬里と別行動している時間は部活の時間くらいなものだろう。学校に限ればトイレに行くときも一緒だ。
最初こそ拒否すれば聞いてくれていた。それが段々となくなり、グイグイくるようになった。むしろこれが元々の冬里の性格なのだろう。
過ごす時間が多くなるにつれ、だんだんと人の本性が見えてくるものだ。だからいまの冬里が自然な姿なのだろう。
そしてそれは夏希も言えることでもあった。
「元気なのはいい事だけど、限度ってものがある」
夏希と冬里はリビングにて青葉による絶賛説教中であった。
罪状は家の中を金切り声をあげながらドタドタと走り回った。である。
「はーい」
「はい。すいません」
己をくすぐる魔の手から逃れた夏希は部屋を飛び出た。もちろん冬里はそのあとを追いかける。
隙を見て逃げ出したはいいものの、手加減を知らぬ冬里のせいで夏希はすでに息絶え絶え。
大人に比べて子供の肌は敏感と聞く。
冬里の手が脇などを優しく撫でるだけで、夏希の身体は身をよじるほど過敏に反応してしまう。
短時間であればくすぐったいで終わったかもしれない。しかし長時間にわたるくすぐる行為はもはや苦痛であった。コントロールできぬ感覚に恐怖すら覚えるほどだ。
だから冬里に捕まるまいと夏希は本気で逃げた。
ところがそれがいけなかった。背中を見せた夏希を野生の動物が如く冬里は追いかけてきた。
廊下を走りリビングで取っ組み合い、しつこく追いかけてくる冬里をついには客間の畳の上て大外刈りで倒す。
しかし冬里の無尽蔵の体力を前に、ついに逃げた先のリビングで夏希は力尽きてしまう。
「仲が良いのはいい事だけど。相手の嫌がることをしちゃ駄目よ」
喉が渇き張り付くようで息がうまくできず、鼓動がはち切れんばかりにうるさく痛かった。
これまでか、と死を覚悟したときのこと。
冬里が襲い掛かってくる寸前、剣呑とした青葉がその首根っこを掴んで止めた。
「でもなっちゃん、嫌がってなかったもん!」
「途轍もなく、イヤでした」
「うっそだー! めっちゃ喜んでたじゃん!」
だめだ話が通じない。
酸欠の脳では上手く考えがまとまらない。うるさく鳴る胸を抑え倒れ込み、床と一体化した夏希は考えるのをやめた。
ここは母親として青葉の手腕に期待したいところだ。
だがさぞかし怒られ慣れているのだろう。怒られてシュンとしている夏希と打って変わり冬里は平常運転のようだ。
「ところでお母さん。今日何徹目?」
ため息をこぼし頭を抱える青葉へ冬里が問いかけた。
「四徹よ」
子供らのお昼ごはんも終えたことで、夕方までしばし睡眠を青葉は取ろうとしていた。
隣の部屋からは愛娘たちの楽しそうな声が子守歌のように聞こえていたのだが。それが寝入りそうなタイミングで悲鳴に変わると、家中を駆け回る足音が聞こえるように変わった。
「わはっすご! 目指せ五徹だね! コーヒー作ってあげる!」
「ブラックでお願いね」
「はーい!」
目指さなくていいから寝かしてやれ。と夏希は思いつつ口にするのも億劫だった。
少し回復した夏希は寝心地の悪い床から体を起こす。フラフラとした足取りでソファに向かい仰向けに倒れこんだ。
「夏希ちゃん」
「ん、なに?」
青葉に名前を呼ばれた直後。シャッター音が聞こえ夏希はそちらに顔を向ける。
青葉から返事はなく、スマホを構えたまま反対方向に回るとまた写真を一枚撮っていた。
普段なら撮るなと一言と言っただろうが、それ以上にしんどかったのでスルーする。
「はい。これ見て」
「んなッ!?」
頭上に差し出されたスマホの画面を見て夏希は驚きの声をあげた。
一瞬で怠さも吹き飛び、起き上がるとすぐさま着衣の乱れを直す。
「盗撮! それ盗撮だから!」
青葉のスマホの画面に映っていたのは、片足を立てて反対の足をソファの外に投げ出している夏希の写真。問題は捲れたスカートの奥に写る下着。まだ肉付きのないほっそりとした足の付け根までもが、はっきりと鮮明に写していた。
抗議の声をあげる夏希をよそに、青葉は続いて撮った写真を画面をスライドし見せる。
そこに写るのは気だるそうにカメラのレンズを見上げる夏希。
それとはだけた服の首元から胸元が映し出されており、少し色づいた起伏のない胸が映し出される。
「ええ、そうよ。これは盗撮」
信じられないものを見るような目を向けてくる夏希に、あっけらんと青葉は応える。
「消して!」
「ええ。もちろん消すわ」
スカートと胸元を抑えて夏希が叫ぶ。
「コーヒー出来たよ! ブラック一つ。カフェオレ一つ。それとあまあまカフェオレ一丁お待ちぃ!」
台所でコーヒーを作っていた冬里が戻ってきた。
おぼんの上には湯気をあげるカップが三つ。ブラックが大人用でカフェオレが子供用。ちなみにあまあまの方が夏希用である。
しかし、わざわざ作ってくれたところ悪いが夏希はそれどころではなかった。
「冬里。丁度いいわ。あなたもちょっと来なさい」
「んー。なーにー?」
青葉に呼ばれカップを配り終えた冬里はおぼん抱えやってくる。
「これ見てどう思う?」
「ちょッ!」
「わーお。なっちゃん、せくすぃ」
青葉は呼び寄せた冬里にあろうことか先程撮った夏希のあられもない写真を見せたのだ。
画面に映る夏希の姿を見て冬里は目を丸くする。
慌てて夏希はスマホを奪おうとするが、毎度のことながら身長差によってそれは叶わない。
「このスマホは冬里ものとします」
「やった! ありがとう!」
「例え話よ、例えば話。気まぐれで撮ったこの写真を保存したままにしておきます」
「え、やだ! 消してよ! 消してって!」
「だから例え話よ。まあいいわ。きっと冬里のことだからロックをしないままスマホをそこらに放置するわね。その時に悪意を持った人が知らず知らずのうちに操作するかもしれません。それは知らない人だったり、友達かもしれない。その人がこの写真を見つけてしまいました。この時はクラスの男の子だったとしましょう。こんなにも可愛い夏希ちゃんの画像よ。すぐに自分のスマホに転送するわ。まだそれだけならいいけど」
全くよくない。
そんな場面を想像した夏希は悪寒がした。
「その子がこの画像を友達のグループチャットに、絶対秘密と約束を取り付けたうえで貼ってしまいました。その子がそうしたようにその友達が友達に、そのまた友達に送って拡散してしまったら、もう手の施しようがないわ。そのとき冬里は夏希ちゃんにどう顔向けするの」
「えぇ。ど、どうしよう」
青葉の話を聞き、起きてもないことなのに冬里は不安そうにソワソワしだす。
こちらにも目線を送ってくるが、夏希はそれどころではなかった。身の毛もよだつ例え話を聞き頭が真っ白になっていた。
「いまのは一例でしかないのよ。友達同士でふざけてちょっとエッチな写真を送り合ったりしてたりしました。その時は自分だけじゃなくて、相手が流出させてしまう可能性があることを考えること。だからそもそもの話し。こういった写真は自ら撮らない、なにより撮らせないように日頃から油断しないこと」
「はい」
「うん」
これが例え話であり説教であることに夏希は心底ホッとしていた。
隣の冬里も身内に例えられたことで、話しの深刻さを理解したのか消沈気味となっている。
きっと冬里はそういう出来事の存在をはじめて身近にあると理解したのかもしれない。
けれど夏希は違う。そのようなことが起こりえる可能性を理解していた。それなのに少し前まで男性であった夏希には無縁の話だと思い込んでいた。
男性であろうと一定の注意は必要だろう。でも自分など見向きもされない背景のような存在には関係ないはずだった。
それが自身が女の子になったといういうだけで危険度が跳ね上がったことを、青葉の話しのおかげでようやく理解した。
危機感を、自覚を夏希は持っていなかった。
「はい。さっそくそこ。スカート履いてるときに足を広げて座らない」
「え? あ、はい」
鋭く青葉に指摘され、ソファに座った夏希はすぐに足を閉じる。
「はあ。ちょっと心配になるわ。もしかして学校でも見せびらかしてたりしないわよね」
「するわけないじゃん!」
「だそうだけど。冬里? 夏希ちゃんの言ってることは本当なの」
「んー。学校のスカートは長いから大丈夫だけど、いまみたいな丈だとヤバいかも?」
これまた夏希が自覚をしていないだけで、他人からみると危うかったようだ。
けれど仕方じゃないではないか。夏希は純正の女の子ではないのだから。そう夏希は言い訳をしたかったが冬里がいる手前口をつぐむ。
だがさっきの話しを聞いた後では、そうも言ってはいられないのが現実。これからは気を付けるよう心掛けようと誓う。
「なっちゃん! もし男子にスカート捲りされたとかお尻触られたなんてことがあれば、愛理ちゃんに言うんだよ! ぶん殴ってくれるから」
そういった味方がいると知り心強いと思う反面。
いざ何かあった時に人に相談なりできるだけの心理状態であるかが不安だ。
「まあ夏希ちゃんは仕方ないとはいえ、おいおい自覚してくれると嬉しいわね」
過去に夏希が目撃したパンチラの場面。
階段で先を行く女子を見上げた瞬間であったり。椅子に座っている足の隙間。スカートでしゃがんだときだったり、また背後から見たときにウエスト部分からはみ出ていたり。体操服のハーフパンツの隙間から。夏服のシャツ、体操服の袖口の隙間。
めちゃくちゃあった。
それ以外にも屈伸したときなどに浮かび上がるパンティライン。夏場のブラ透けもあったりする。
これ全部を意識して対策は無理ではないだろうか。
だが見るならともかく、自分が見られる立場になったとあれば対策を講じないわけにはいかない。
夏希は今日から身持ちの固い女性を目指していこうと誓う。
「見せるときは意中の男の子を誘惑するときだけにしときなさい。ああでも。写真とか動画を撮られそうになったり、要求されてもそれは絶対に拒みなさいね」
「冗談。絶対ないから。それは安心して」
本当に面白くない冗談だった。
夏希自ら男を誘惑するなどあり得ない。まず男を好きになることがあり得ないのだ。万が一そんなことになってしまったら舌を噛み切ってやる覚悟だ。
「それはそうとスマホ貸して。画像消すから」
「大丈夫こっちで消しておくから」
「冬里。こう言うセリフを聞いても絶対に信用しちゃダメだから。相手に操作させる隙も与えず自分の手で画像を削除するのが確実なんだよ」
「ほほう。なるほど!」
さっきまでの話の続きとして、冬里に削除するまでの流れを夏希が説明する。これには青葉もスマホを渡さない選択肢はなかった。
写真を削除。また一見消えたように見えてもパソコンでいうゴミ箱のような場所で一定期間保存されていることもあると説明。なのでゴミ箱からもデータを必ず削除すること。
保存場所がアプリだったりクラウド保存だったり、抜け道を探していてはキリがない。それでも夏希は最低限を冬里に説明できたはずだ。




