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挑戦に挑戦するということ

夏希は唐突に目が覚めベッドから起き立ち上がった。


まだこの部屋に時計はない。カーテンから差すほんのり薄暗い光と現在の季節から時間はおおよそ午前六時前後と予想した。

いつ先日まで、正確には二日前までは社会人であった夏希は仕事のある日は六時五十分アラームをセットして起床していた。このような中途半端な時間に起きてしまったら迷わず起床ではなく睡眠を選択していた。たとえ起床前の五分前に不運にも目を覚ましてしまったとしても、あと5分しかっり惰眠を貪っていた。


ワケあって昨日からは仕事には行かなくてよくなった。なんと夏希は労働という人生の拘束から解き放たれたのだ。仕事を辞めることが出来たのならとことん、もう寝飽きたと思えるまで睡眠を享受するはずだった。

それがこんな朝早くからそんな考えを吹き飛ばす緊急事態が夏希を襲っていた。

それはなんの前触れもなくやって来た。よくよく考えれば当たり前の出来事で、回避できた事態だった。だがこの激動の2日間に常に一杯一杯であった夏希はそんなことを感じることも考える余裕なく、いまのいままで気付けなかった。


尿意である。

最後にトイレに行ったのはもう2日前。なにかと色々変化のあったこの身体がどうなっているのか分からないが、昨日起きてから排泄に関して催す事はなかった。それが予告なくやって来たのだ。

起きてすぐに急激な尿意に夏希は襲われてベッドから立ち上がった。内股に固定したその足を少しでも動かそうものなら思わず漏れてしまいそうであった。

男性の時と違いえらく余裕がなかった。女性は男性と違い尿道がかなり短いだの構造の違いあると聞いた事があるがそれのせいだろうか。だがそんなことはどうでもいい。たとえそれが分かったところで事態の解決にはならないのだから。


いまは早急にトイレに行くことが先決だ。しかし、動くと漏れそうと八方塞がり。

もしここが一人暮らしの自分の家だったのなら最悪それでもいいかもしれない。誰も見られることも知られることもなく片付けられるのだから。

しかし、いま住まわしてもらっている香月家で漏らすなんてことは絶対あってはいけない。そんなことが起きた暁には今後どのつらさげて接すればいいのか。突然やって来た新参者の夏希がお漏らししたとあれば、香月家の皆様に気まずい雰囲気のなか腫れ物を扱うように接されてしまうのだろう。


なんとしてもこの窮地を脱しなければ、折角人生をやり直すことになったのび、やり直す前に人生が終わってしまう。

しっかりと内股で固定し、ゆっくりと摺り足で歩みを進める。なんとか部屋の外までたどり着いた夏希は絶望した。

トイレの場所を知らないのだ。


夏希が香月家での行動したのはリビングとお風呂場だけ。現在いる二階には、背後にある夏希の部屋に続く扉以外に四つの扉が存在する。春樹と冬里、そして青葉の部屋があると予想される。では残りのひと部屋はトイレなのではないか。

扉は全て変わり映えしない同じタイプで部屋の外からではまったく見分けがつかない。いよいよ余裕のなくなてきた夏希は、春樹や冬里の子供部屋くらい名前を描いたプレートをぶら下げておけよと自分勝手に毒づいた。


最悪青葉なら助けを求めてもいいと思えた。しかし夏希の安いプライドが許さないので、この痴態を精神年齢的に年下の二人には知られたくない。

開けて許される扉は二つ。開けてはならない扉も二つ。確率な二分の一。


しかしこういう時に決められないのが夏希なのだ。

もしかしたらトイレかもしれない思っている扉も実は物置なのかもしれない。二階にはトイレが無いのではとも思い始めてしまう。

そんなことを考え時間が経過するにつれ、恥ずかしいことは晒したくないタチの夏希は、先程まで青葉なら助けを求めても大丈夫と思っていた感情が一転してしまう。


そうだ一階へ行こう。一階なら必ずトイレがあるはずだ。それに二階にはこれだけ部屋数があるのだ。上月家の私室は二階とみて間違いないはず。ならこの時間であれば一階で鉢合わせする可能性は低い。

振える足で一歩踏み出し一階に行くことを諦めた。夏希にはもう残された時間は少ないと悟ったのだ。


夏希は覚悟を決めて一番近い部屋のドアノブを握った。

ここがトイレならば万々歳。違ってもトイレの場所を聞くだけだ。何ら恥ずかしいことはない。そうだ。なにをこんなに迷っていたのだろう。ここで漏らす方がよっぽど恥ずかしいことではないか。


開けた部屋をそっとのぞき込む。窓は遮光カーテンで閉ざされており朝日は部屋の中には届かず開けた扉から入り込む光でわずかに見える程度。暗い部屋の中は所狭しと積み重ねられた本や紙の束が散乱しており、足の踏み場もないほど物で溢れかえっていた。ここは青葉の部屋だと確信した。


夏希が立つ場所からでは全体を確認できないが、人の気配はなく部屋の主は不在のようだ。誰もいなかったことを残念に思うもホッとしつつ、目的の場所の捜索を再開すべく部屋を後にしようとした夏希の耳に微かに動く物音が届いた。

そのカサカサとした音を聞いた途端、夏希は血の気が引き身体が竦んだ。こんな汚れた部屋に出るものといえばアレしか考えられない。

すぐに扉を閉めればいいものを音の発生場所を振り向いてまう。振り返ると同時にガサガサと紙が散らかる音がしたと思うと、夏希の足元をナニか黒い物体が高速で横切った。

突然の出来事に声にならない悲鳴を上げた夏希は腰が抜けその場に座り込んでしまった。


「ここに居たのか、おとーさん。探したんだぞ」


下の階へ続く階段から青葉の声が聞こえ振り向くと青葉が猫のおとーさんを抱えて階段を上がってくるところだった。


「おや? おはよう夏希ちゃん。私の部屋の前に座ってどうした?」

「ぐすっ。あお、ばぁ」

「ど、どうしたの夏希ちゃん!」


足元をナニかが横切った恐怖。その正体がおとーさんと分かり、今一番頼れる人物の青葉を見つけた安心感。

色々な感情が一気に押し寄せ訳がわからなくなり涙がこみ上げ、なにより夏希の下半身に感じる生暖かい濡れた感覚が恥ずかしくて本気で泣いた。




夏希はシャワーを浴びていた。

あのあとタオルを持ってきた青葉によって、夏希はパジャマのズボンと下着を脱がされ濡れた部分を拭かれた。そのままシャワーを浴びるように言われると、手を引かれお風呂場まで連れてこられた。

お漏らしとガチ泣きという醜態をさらした夏希は何も考えず、ただ言われた通りに静かに身体を洗った。


「死にたい」


夏希は俯きながらシャワーを頭から浴び虚ろな表情を浮かべ呟いた。

夏希をここに連れてきた後に青葉は何も言わず出て行った。本来ならば自分で片付けるべきなのだが、今頃は青葉が後始末してくれているのだろう。その優しさがかえって辛かった。


「よしっ」


夏希は自分の頬を叩き気を取り直す。

シャワーを止めて風呂場から出る。洗濯機が回る脱衣所に用意されたバスタオルで体の水気を手早く拭き取るとそのバスタオルを身体に巻き付け脱衣所を出た。

リビングをのぞいてみたが青葉の姿はなかった。ここに居ないとなると夏希がもう思い当たるのは二階しかない、階段を駆け上がると事故現場の処理はもう終わっていた。

その場所をなるべく視界に入れず自分の部屋に帰ろうすると向かいの部屋の扉が開いた。


「あ、おはよう。春樹くん」


どうやら夏希の向かいは春樹の部屋のようだ。まだ眠そうな表情を浮かべたパジャマ姿の春樹と鉢合わせた。


「うん。おはよう? ええぇ」


目が合うも春樹は夏希を上から下に目線を巡らせ全体を視界にを納めた。もう一度夏希の顔を確認すると春樹はゆっくりと扉をしめて部屋に戻ってしまった。

朝からうるさくして春樹を起こしてしまったのかと夏希は申し訳ない気持ちになった。

自分の部屋に戻ると青葉がいた。


「あらためておはよう。夏希ちゃん」

「うん。おはよう青葉」


青葉が手に持っていたモノはひとまず無視して先に夏希は要件を済ませようと決める。


「ごめんなさい」

「これくらいで頭下げなくていいの。私は夏希ちゃんのお母さんだもの。あれくらい何のことないわ」


戻ってくるなり頭さげて謝罪してくる夏希に、青葉は謝る必要などないと優しく声をかける。

青葉は目線を合わせるようしゃがみ夏希の頭を撫でる。


「まだ髪が濡れてるじゃない。綺麗な髪なのにちゃんと乾かさないと痛んじゃうよ」


椅子に夏希を座らせて、すこし待ってなさいと言い残して青葉が部屋を出ていったと思うとドライヤーを手に帰ってきた。

青葉はドライヤーの電源が入れると手早く温風で夏希の髪を乾かしていく。


「なんだかこうしていると懐かしい気分になるわね」

「ん?」


ドライヤーの風で舞い上がった夏希の長い髪が顔をくすぐる。されるがまま髪を乾かしてもらっていると青葉がそう呟いた。


「昔は冬里もお風呂上りは髪を乾かさないでいたから、よく私が乾かしていたの」

「いまは違うんだ」

「いまは流石にね。でも最近少しずつオシャレに目覚めかけてるみたいで、中学に上がってから自分のドライヤーが欲しいなんて言い出しなのよ。なんでも友達はマイドライヤーを持ってるんですって」

「ほえー。そんなの欲しがるんだ」


ドライヤーなど家に一個あればいいと思うのだが、女の子からしたら違うのかもしれない。

夏希が今まで使っていたドライヤーなどホームセンターで買った安物だ。高いものだとよくわからない機能がついて数万するはずだ。髪が乾けばそれでいいと考える夏希にはわからない感情だった。


「買ってあげてもいいけど、このドライヤーよりも安くて質の悪いやつになるって言ってやったわ。だってこれも相当高いやつなのよ。そしたら冬里も黙ったわ」


青葉は髪を乾かすのを中断しドライヤーを見せてきた。

見せてもらってなんだが夏希は見ただけではドライヤーの良し悪しなんて分からない。でもたしかにいま使われているドライヤーは夏希が使っていたものよりも見た目がゴツくてなんか凄そうだと月並みな感想を抱いた。

ドライヤーの価値よりも研究者といえば、ぼさぼさの髪をしているイメージがあった夏希は、青葉も美容とか気にするんだと失礼なことを考えていた。


「はい、おしまい」


耳元の鳴っていた轟音が止み、櫛で髪を整え終わりのようだ。


「ほら触ってみたら。サラサラよ」


青葉に手を取られ夏希は自分の髪を触る。言われた通りサラサラの指通り。途中で指が引っかかることがない見事なサラサラ髪だった。もう少し長ければCMの様にふぁさーっとできるかもしれない。

夏希はその感触を楽しむ様にしきりに触る。この際もっと伸ばしてみるのもありかもしれないと夏希は思った。


「さて、いつまでもそんな恰好じゃ風邪ひいちゃうから着替えちゃいなさい」


夏希が振り向くと青葉が制服を掲げていた。青葉が見せてきた制服はブレザータイプのものだった。もちろん女子用の制服だ。


「わたし的にその服は部屋着には向かないと思うな」

「これをどう見れば部屋着になるのよ。制服よ」

「青葉のコスプレ用?」

「なんでそうなるの。夏希ちゃん用の学校制服に決まってるでしょう」

「あ、大丈夫です。間に合ってます」


夏希は即座に着ること拒否した。

実はこの部屋に入ってきたときには制服の存在に夏希は気付いていた。限りなく少ないが青葉の服という可能性に賭けてみたものの、やはり夏希の制服だったようだ。


「わたし既に中学校卒業しているので大丈夫です。もう一回行く必要はないと思う」

「もー。またそういうこと言う。香月夏希としては卒業してないでしょ」

「やだー! 今日からわたし家でFXするのー!」


逃げるように布団の中に潜り込む。

何故もう一度中学生からやり直さないといけないんだ。

青葉もあくまで一昨日に夏希が自分で選んだ選択をもとに進めてくれているのだろうが、あれはタラレバの話で現実に起こり得ないからこその答えだった。

それに夏希が学校に行ったら絶対にいじめられる。三十路の自分と中学生とでは会話が成立するはずがない。学校でぼっちが確定しているのに行くはずがない。そんな苦行には耐えられない。


「たしかに夏希ちゃんが言うことも一理あるけどね。義務教育は終えないと、人生やり直せるものもやり直せないから」


どうやら夏希がいま思っていたことは口に出てしまっていたらしい。

二度目の人生はやくも挫折してしまった。

中学生になれるということは夏希は書類上、小学校を卒業しているということ、ならば中学校だって卒業したことにも出来るはずだと両手で耳を塞ぎ現実逃避する。


「ずるずる先延ばしにしてもいい事はないよ。それにどうせ逃げるなら挑戦してみてからでも遅くないんじゃないかな」


その言葉を聞いた夏希は布団から頭を出した。


「失敗したら逃げてもいいの?」

「うん。それを夏希ちゃんの心から選択したなら私はもう何も言わない。でも何もしないで決めつけちゃうのは勿体ないと思うんだ」


こんもり盛り上がった布団を見下ろし青葉は言葉を続ける。


「私たち研究者なんて失敗ばかり、むしろ成功する方が稀なくらい。それでも何度も挑戦するのは何としてもやり遂げるという私なりの信念があるから。私の考えを押し付けるつもりはないけど逃げるのは挑戦してからでも遅くないんじゃないかな」


布団の中にもう一度顔を引っ込める。

青葉が言った、逃げるのは挑戦をしてからでも遅くないという言葉について考える。

これまでの夏希は出来るか出来ないかだけで考えていた。出来ないのなら最初からやる意味がないと切り捨てる。

誰かから強制されなければ動くこともしない。自分から動くときはできると確信できることだけ。そうして自分の中のハードルを下げていき何時しか何もしないことを選択していた。

いまの青葉の言葉を聞いて、夏希は長らく挑戦するということを忘れていたことに気づいた。


「いく」


夏希は布団から這い出し、青葉を見上げてそう言った。

久々に挑戦してみようと思えた。今はまだ目標も何もないけど、目標を探す努力をしてみよう。

逃げない努力をしよう。夏希を知っている人はいない。なら誰も自分に期待しない。失敗を恐れ言い訳を用意しなくてもいい。


「よく言った。じゃあ準備しようか。さすがに裸で学校にはいけないから」


夏希の選択に頷くと、苦笑いを浮かべて青葉が言う。


「わひゃ!」


夏希は隠すように身体を抱いてしゃがみ込む。

体に巻き付けていたバスタオルは布団の中に忘れてきてしまったようだった。


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