後悔するぐらいなら食べるべし
カーテンの外はすでに真っ暗だ。
日暮れも少しずつ早くなってきていた。
夏希がここにやって来た頃は下校時でもまだ明るかった。それが今では香月家に着くころには空は薄暗くなりはじめている。
和良川には街灯なんてものも殆どないため、日が暮れた後に外を出歩くのは怖いくらいだ。
ホームルームで担任の桃山由香から、来週から下校時間が三十分繰り上げとなるという連絡事項が生徒たちになされた。
日中など夏季さながらの気候である。それなのに学校では早くも冬季に移行するのは大変おかしな話であった。
下校時間が繰り上げられ早く帰れると喜ぶ生徒も多いなか、中には部活の時間が短くなることを嘆く者もいた。もちろん夏希は前者である。
そしてまた一週間を無事にやり過ごせたことに、夜ごはんをひとり早く食べ終えた夏希は改めて安堵していた。
本日のメニューはトマト鍋。青葉が知り合いから頂いたというトマトを使用したものである。
はじめて食べる赤い鍋に少々抵抗があったものの、いざ口を付けるとそのイメージも一転した。
トマトはそのまま食べても酸味が少なく大変美味しかった。
また夏希の取り皿に冬里がレンチンしたチーズを投入してきた際は泣きたくなった。勧められるまま恐る恐る食べてみるとこれも悪くない。とくにソーセージやジャガイモにチーズよくあっていた。
よく考えればチーズフォンデュである。そう思えば合わないはずはない。あいにく夏希はそんな洒落たものを一度も食べたことはないので想像の範囲だが。
はじめてだらけの食事を前に、好き嫌いが大変多い夏希は懐疑的であったが思いのほか食が進んだ。
しかしどれだけ美味しかろうが、小さな体に許された許容範囲は少ない。腹八分を迎えるくらいで夏希は箸を机に置いた。
「ほーら。なっちゃん、これ美味しいよ! あーん!」
みなが食べ終わるのを待っている間に、こうして隣に座る冬里から食べ物が運ばれてくる。なのでお腹いっぱいにしていては入らないので腹八分目なのだ。
「わっ! なっちゃんがブロッコリー食べたよ!」
「お。野菜食べてて偉い」
「ブロッコリーくらいヨユーだし」
夏希はブロッコリーを食べただけで讃頌された。
そのままは無理でもマヨネーズかけたり、今回のように下味がついていたりチーズがかかっていれば余裕である。
まったく野菜を食べたくらいで騒がないでほしいのもである。そう考えながら夏希は得意げに胸を張るのだった。
「ほーら、夏希。このズッキーニもうまいぞぉ。食うか?」
ニヤニヤと笑みを浮かべて春樹が箸で掴んだズッキーニを掲げてみせる。
夏希が食べれないと知っているくせに。そんないじわるする人にはそっぽを向いて会話することに拒否を表す。
もはや香月家で夏希が野菜嫌いなのは周知の事実となっていた。
一応母親となる青葉も無理に勧めてくることはしない。
むしろ冬里が野菜食べないとダメと言い、食べさせようとして来るので困ったものである。自分だって苦い系の野菜は食べられないのに。
そして春樹はこうして絶対夏希が食べれないであろう野菜を選んで勧めて揶揄ってくる。
「あ、春樹くん。春樹くんの好きなお肉あったよ。食べさせてあげるね。はい、あーん」
「あ、いや。べつにいらねーから」
だからこうしてやり返してやると春樹は顔を赤くして顔をそむける。
本当は男の子らしく肉類が大好物であるのに強がるのだ。嘘で誤魔化して照れ隠しするなんて初心で可愛いものだった。
「んー。美味しい! これを食べられないハルくんはなんて可哀想なんだろ!」
行き先を失った皮目に焦げ目をつけた鶏肉を夏希は冬里の口へ運ぶ。そのまま冬里の口の中に消えた鶏肉を春樹は物欲しそうな目で追っていた。
自分も食べたくなったのか春樹は鍋の中を探す。だがいまのが最後の一切れだったのか鶏肉は見つけられなかった。
「そんなに食べたかったなら、恥ずかしがらないで素直に食べたらよかったのにね!」
「ねー」
妹たちのコンビネーションに春樹は悔しそうにしていた。
食事も終わると各々が束の間の休息をとりはじめる。
春樹と冬里はテレビのバラエティ番組を見ており、青葉は台所で食器を洗っている。
一方夏希はおもちゃの猫じゃらしを片手に猫のおとーさんに遊んでもらっていた。
まずソファに横たわっている乗り気でないおとーさんに猫じゃらしでちょっかいをかける。最初は興味なさそうに目で追っているだけだった。しかし本能に抗えなかったのか最初に片手で、次に両手になり最後は体を起こして追いかけ始めた。
こうして動物と戯れていると、夏希の疲れた心が癒されていくのを感じとれる。
猫じゃらしを動かす範囲をだんだんと広げていく。
ソファの背もられに沿ってふりふりと猫じゃらしを振る。猫じゃらしを引っ込めるとソファの背もたれの上に飛び乗って追ってくる。
狭く不安定なスペースしかないのに後ろ足で立ち上がり捕まえようとしたり、なかなかアグレッシブな動きを披露してくれる。
「あ」
ついにおとーさんに猫じゃらしを捕まえられてしまった。それだけではなく夏希の手から奪われてしまう。
そのまま逃げ出したおとーさんはソファから飛び降りるとカーテンの中に消えてしまった。
そのあとを夏希は追いかけると、カーテンの中で猫じゃらしを咥えたおとーさんが出迎えてくれた。
猫じゃらしで遊ぶのは満足した。今度はその毛並みを撫でまわし堪能させてもらおうと、おとーさんを夏希は抱き上げるとソファに戻ろうとした。
その時夏希の耳にテレビの音に交じり、窓の向こう側から微かに太鼓の音が聞こえてきた。
一瞬気のせいかとも思ったが耳を澄ませてみれば、たしかに太鼓を叩く音が聞こえてきている。
「ねえ。なんか外から太鼓の音がするよ」
「太鼓ぉ?」
おとーさんを抱えて夏希はカーテンから這い出ると春樹と冬里にそのことを報告する。
すると春樹は何を言っているのかという目を向けてくる。
「うん。ドン、ドンって鳴ってる」
「えー! どれどれー?」
四つん這いで向かってきた冬里がカーテンを潜る。
「あっホントだ。ねー、お母さーん! 外で太鼓鳴ってる!」
「え、マジで?」
カーテンの隙間から顔だけ出した冬里が台所にいる青葉に問いかける。
疑っていた春樹も興味を持ったのか立ち上がると、窓を開けてウッドデッキに出ていった。
「おっ、本当だ。これは公民館の方か」
言い終わらぬうちに夏希が素早く窓を閉めた。
春樹が嫌いだからとか、意地悪をしているとかではない。ただ室内に虫が入ってくることを危惧し夏希は窓を閉めた。
ここは田舎なので虫がたいへん多い。街灯も殆どない。外は真っ暗だ。
つまりカーテンが開いていて、窓が開き放たれた家など虫の恰好の的。誘蛾灯のごとく虫が寄ってくる。
控えめに言って虫が大っ嫌いな夏希はそれが嫌だった。窓を閉めるときちょっと力が入り、大きな音を立てて驚かせた事には謝罪が必要かもしれない。
勢いよく閉めたものだから冬里が目を丸くしていた。春樹にいたっては閉じ込められたと勘違いし、開けろと言って窓をバンバン叩いている。
もちろん窓をロックはしていないので閉じ込めてはない。
「来週はお祭りだからね。その練習するって馬鹿どもが息巻いていたわよ」
「そっかお祭り!」
お祭りと聞いた冬里は目を輝かせた。
来週末土日の二日間。和良川ではお祭りが予定されている。
テレビで紹介されるような大きなものではなく、こじんまりした小さな地域の小さなお祭り。
土曜日は夕方から始まる。子供は子供神輿を引いて歩き早めに解散。大人はすこし遅くまで神輿をかついで練り歩く。終われば公民館で深夜まで宴会。
翌日日曜日は正午前から始まり夕方には終わる。
「俺いまから行ってきていい!?」
「もう遅いからダーメ」
「えー、なんで!」
そんなに行きたかったのか、許可を出さない青葉に春樹が食い下がっている。
時刻は九時に差し掛かろうかという時間。中学生が出歩く時間ではないだろう。家庭によって判断基準は違うだろうが、香月家ではこの時間に外を出歩くのはアウトのようだ。
基本的に家に帰った後は家から一歩も出たくな系の夏希は理解できない行動だ。この時間帯になれば明日に備えて英気を養わないと体も心も持たない。
明日は休日だがそれでもだ。それにお風呂に入った後に外出と言うのも気が引ける要因だ。
「どうせ明日もやるんだろうから明日にしなさい」
「ぶー」
ただでさえ来週の休日を返上して祭りに費やすのに、その人たちは今週の土日も準備で消費すると考えると不憫でならない。
夏希的にちょっと考えられないスケジュールに引いていた。顔すら知らぬ人たちの体調が心配になる。
「あのねあのね! 神輿のなかに人が乗ってて太鼓叩いてるんだ! その神輿を大人の人たちが担いで和良川を回るんだよ!」
「この太鼓の音はその練習をやってるんだね」
「気になるなら、なっちゃんも明日の準備見に行く?」
「えっと。わたしは本番を楽しみにする派だから」
「そっか! じゃあ明日は一緒に遊ぼうね!」
きっと昔の夏希なら真っ先に食いついたであろうお祭りの話題。
しかしいまでは楽しい場所というよりも、知らない人が大勢いる場所という認識に変わってしまっている。いつの間にか夏希はそういった場所に苦手意識を持つようになっていた。




