やきう
「よし。問題も片付いたところで戻るか」
「さっきまでビクビクしてたのに、切り替え早いね」
「うっせ。俺が親にバレたときは謙吾も道連れだからな」
「えー。そこは庇ってよ」
夏希はともかく春樹は完全にアウトなので、口裏を合わせるためにいくつか確認した。
まず夏希が帰った時には春樹はいなかった。その後部活を早めに終えた春樹と近見が帰宅したという順番だ。
しっかりと考えたところでボロが出てしまう。なので重要な流れだけを把握しておき、あとは普段通りに振る舞うことだ。
「夏希。もう大丈夫そうか?」
「あ、うん。ごめんね。遊んでたのに邪魔しちゃって」
すでに夏希も泣き止んでおり。調子も戻ってきていた。
「近見さんもタオルありがと。おかげでだいぶ楽になったよ」
「どういたしまして。役に立てたのならよかった」
夏希は近見にタオルのお礼を伝える。
このイケメンは女の子が泣き出して励ますだけじゃなく。泣き終わった後のことまで考えて行動していた。夏希がその立場だったら思いも付かなかっただろう。
顔だけじゃなく行動までイケメンとか、もし夏希が純正品の女の子だったら危なかったのではなかろうか。しかしあいにく違法コピー品の夏希の心に響くことはなかったけれど。
「どれどれ。んんー。目は赤いけど腫れてはなさそうだな」
「あ、はは。確認ありがと」
座る夏希の前で春樹は屈むとの顔を覗き込んでくる。女心なんてものは持ち合せていないが、泣いた後の顔を見られるのはちょっと遠慮してもらいたかった。
「こーら春樹。女の子にそういうことはしないよ」
「ってーな! 人の頭をぽこぽこ殴んなよ。次の中間テスト悪い点だったら謙吾せいだかんな」
「それは今に始まった事じゃないから。テストの点数は俺のせいじゃなくて春樹の頭のせいでしょ」
「本当のことだが、ひでぇ言いようだな!」
このままふたりは空き地に戻るのだろう。春樹たちは軽口をたたきながら放り出したままのバットとボールを拾いあげていた。
この後のことを夏希は考える。春樹曰は夏希の目が充血しているそうだ。
このまま青葉に見つかるといらぬ心配をかけてしまうので、帰ってくる前に早く直す方法をネットで調べよう。
心配をかけたくないというよりかは、泣いたことを知られたくないのだ。
「そうだ。夏希ちゃんも一緒にやる?」
また地面を歩いてしまった猫のおとーさんを、家に入る前にその足を洗うべきか思案していた夏希に近見が声をかけた。
「え?」
「ほら三人でやればキャッチャー役ができて、空振りしてもいちいちバッターがボール拾いに行かなくてよくなるしさ」
「なるほど。一理ある」
バットに当たらなかったときは毎回バッターがボールを取りに行っていた。その手間を考えれば近見の言う通り夏希を誘った方が、野球をできる時間は増えることに春樹は気付く。
「えっと。いや。わたしは」
「なんだよこの前ごはんの時、野球部は体験入部できなくてホームランが打てなかったのが心残りだって言ってたろ」
「あれは、わたしじゃなくて冬里が」
「まあまあ。一回やってみようぜ」
「まあまあまあ。面白くなかったら抜けたらいいからさ」
体格で勝るふたりに両脇を固められ夏希は連れていかれる。一緒に野球をするのはやぶさかではないが、その前にひとつやらねばならないことがある。
「あの。ちょっと待って。わたしいま裸足だから靴履かせてほしいかな」
猫とこっぱずかしい事を話していたり、突然泣き出したりとで二人は気づいていなかったようだが、その間夏希はずっと裸足だった。
このままでも夏希の幼い見た目であれば裸足で遊んでいても違和感はないかもしれない。
しかし香月家の庭ならまだしも。敷地を越えていくには裸足は危険だ。というより誰かに見られたら夏希が恥ずかしい。
履き替える猶予をもらった夏希は、家の中は通らずに玄関へ向かう。
汚れた足のまま靴に履き替えるのは抵抗がある。だからといって足を洗う時間を待たせるのも忍びない。本格的な運動をするわけでないので、数ある外履きの中から夏希はシンプルなサンダルを選ぶことにした。
「ごめん。お待たせ」
「おーし。行くぞ」
履き終えると夏希は小走りで春樹たちと合流する。
向かう先は香月家の隣にある空き地だ。そこは周辺に住宅や田畑があるなかで整備された空地だった。踏み固められた平らな地面。人があまり寄らない端の方には短い草が生えているだけの何もない場所。
この土地の持ち主は建設業を営むご近所の方。本来は仕事で使う建築資材を置いておく場所だった。
春樹と冬里が今よりもずっと小さな子供だった頃。そこへ二人が忍び込み、積まれた建築資材をアスレチックのようによじ登り飛び越える遊びを覚えた。
危ないと注意を受けるも素直に聞き入れる春樹たちではなかった。よって春樹たちを立ち入らなくするのではなく、建築資材が立ち退いた。
もともと香月家とご近所の方は付き合いもあり、その人も春樹たちを可愛がっていたので、資材置き場を遊び場所として明け渡したのだった。
一番近くの公園と名のつく所は山の上。小さな子供だけで気軽に行ける場所ではない。しばらくして空地は遊ぶ場所が手狭な庭などしかなかった近所の方子らの遊び場となった。
「よし。じゃあ夏希からだな」
空き地に着くと春樹が落ちていた枝を拾いあげホームベースを地面に描く。
そのホームベースの横に夏希は立たされバットを渡される。
「さて夏希。野球の仕方は分かるな。一応簡単に説明しておく。とにかく飛んできたボールをバットで打つことだ!」
「はい。打つ!」
「そうだ! 野球はボールをどれだけ遠くに打てるかだ!」
「遠くに打つ!」
「しかーし。ボールが無くなっては元も子もない! だから遠くに打ってはいけないときの野球は的をねらって打つだ。それでその的は分かるな!」
「近見さんです!」
「そのどこを狙う!」
「顔面ですッ!」
「そうだッ! ぱんぱんに腫らしてやれ!」
「ちょっとぉ、春樹。間違った野球の知識を夏希ちゃんに教えないで」
キャッチャーの春樹が守備をしてたのでは間に合わない。だから守備をするのはピッチャー兼任の近見しかいない。
なのでボールはピッチャーに打ち返す。するとボールを拾いに行く手間が省ける。なんて合理的なのだろうか。これがローカルルールというやつなのだろう。
イケメンが何やら言っているが残念ながら夏希の耳に入ってこなかった。
郷に入っては郷に従え。だから打球がたまたまピッチャーの顔に向かって飛んでしまうアクシデントもありえる。しかしルールだからこれも仕方のないことなのだ。
「それじゃあ投げるよー」
「くるぞ夏希。構えろ!」
「はい!」
近見はゆっくりとした動作からボールを投げた。投げられたボールは大きく山なりで、球速もゆっくりとしたものだ。
正直舐められたものである。明らかに手加減されているのがわかる。素人に対しての手加減か。それとも接待プレイか。まさか夏希が女だからと甘く見たか。
そのどれであろうと夏希には関係ない。ただその考えが過ちだったとその身をもって後悔しろ。
「うりゃー!」
夏希は全身全霊全力を込めてバットを振った。
バットの芯でとらえたボールは近見の顔を掠め飛んでいく。同時に観客席から割れんばかりの歓声が轟く。弧を描き飛んでいくボールを近見は膝をつき目で追うしかなかった。
「うきゃあっ」
というのが、夏希がイメージしていたもの。
しかし現実の夏希は豪快に空振りし、勢いを殺せず一回転したうえで情けなく尻もちをついた。
「うえ!」
「お、おい。大丈夫か!」
そう。これは急に空を見たくなったのだ。だから助け起こそうとしないでほしい。夏希はいま空を見上げることに忙しい。
何が起こったかはよく分かっていたが、だが夏希の脳が理解するのを拒んでいた。
春樹と駆け寄ってきた近見によって夏希は助け起こされた。服に着いた砂埃を払うと、何事もなかったかのようにバッターボックスに入る。
「さ、もう一回!」
夏希はバットで前方を指しホームラン予告をすると流れるような仕草で構えをとる。
のちに春樹は構えだけは様になっていたと語った。
「はっ!」
「とう!」
「とりゃあ!」
おかしい。夏希の視界がぼやけて前が見えにくい。
近見が投げたボール。そのすべてが手加減されていた。それなのにバットにボールがかすりもしないのだ。
ことスポーツに関して夏希はそれなりにできると自負していた。初めてやったスポーツでも初心者のなかでは卒なくこなし活躍できる。
野球だって何度もやった事がある。最後にしたのは高校の授業の時だから十数年前のことだが、そんなことは関係ない。感覚が覚えている。それなのに打てない。
もしかしたらこれが青葉に打たれた薬の後遺症なのではないだろうか。そうであると夏希は自信を持っていえる。これは野球で打てなくなる後遺症だ。
だからって負けてたまるものかと滲む視界を服の裾で拭い、再びバットを握り直す。
ちなみに後日気になって夏希が青葉に確認したところ。そんなピンポイントな後遺症はないと断言された。
「えっと。そうだ! 今度は投げる方をやってみるのはどうだ?」
「うん。そうだね! ほら、このボールって変わっててさ。こんな風に簡単に変化球投げれて楽しいよ!」
そう言って近見は変化球を投げてみせる。軌道を変えるボールを冷めた目で夏希は見つめる。
そんなことが出来るのになぜこれまで、夏希相手に一度も投げてこなかったのだろう。
手加減に手加減をかさねられ、いまは下から投げてもらっている。それなのにバットに当たることがない。
もはや引けない所までやってきた。これはもう夏希の意地との戦いなのだ。
「イヤ。つぎは絶対打つもん」
どうしものか。止めようにも夏希を聞く耳を持たない。春樹たちもこれ以上なんと声をかけていいか分からず、夏希が打ってくれることを祈り続けることしかできない。
「ううっ」
「タイム! 作戦会議するからちょっと待ってろ!」
ついにバットを下して俯いた夏希を見て、すぐさま春樹はタイムを要求。近見のもとへ駆け寄って夏希に聞こえないように小声で作戦会議を始める。
「おい謙吾! いい加減夏希が打てるように投げろよ!」
「やってるよ! これ以上どうしろっていうくらい、やってるって!」
「でも実際打ててないだろ。今度こそ何としても夏希が打てるような球投げろ!」
「だったら春樹が投げなよ!」
「あ、いや。それは」
こうしてピッチャーとキャッチャーによるバッターの夏希をいかにして打たせるかの作戦会議が始まった。
ヒソヒソとけれど語気は強めに話し合われ、一つの案でまとまる。
「その、なんだ。べつに野球にこだわる必要はないんじゃないか」
二人で考えた作戦を、ジャンケンで負けた春樹が夏希に提案するため声を掛ける。
作戦会議がなされている間、しゃがみ込んで地面を列を成して歩く蟻の進路をバットで邪魔していた夏希が顔をあげる。
「……」
「うっ」
前髪から覗く夏希の死んだような目に見つめられた春樹は思わずたじろぐ。まだ前置きを話しただけなのに逃げ出したくなる。
「あのね。考えたんだけど。もしかしたら両手でバットを持ってるのがダメなんじゃないかな」
「そうそう。テニスするみたいに片手でバットを持ったらイケるんじゃないか」
虚ろな目を向ける夏希の反応を伺う。
「うおっ」
急に立ち上がった夏希に驚いた春樹が一歩下がる。
アドバイス通りに夏希は片手にバットを持つ。そのままラケットを振るかのように何度も素振りをし感触を確認する。
プラスチック製の軽いバットだからできる業だ。
「いけるかもしれない」
振り返った夏希の目には光が戻り、まるでつきものが落ちた様にすっきりとした顔をしていた。
「おっし。やるぞ! わかってんだろうな謙吾!」
「もちろん! いくよ。夏希ちゃん!」
今度こそ打ってくれと二人の願いを込めたボールが投げられた。
「うぉりゃー!」
片手で持ったことで振りやすくなったバットを夏希が振う。
そして飛んできたボールにバットが。
もう何度目かになる謝罪の言葉を夏希が述べる。
「本当にごめんなさい」
「大丈夫だよ。また買えばいいんだし」
「いや、せめて弁償を」
春樹らが提唱した片手でバットを持てば夏希でも打てる説は見事的中した。そして夏希がようやく打てた事をひとしきり三人は喜んだ。
だがまったく加減をせずに打ったボールは空き地から飛び出していったので捜索しに行くこととなった。捜索の結果ボールは見つからず。必須道具が行方不明になったためやむなく野球は中止となった。
「いいよこれくらい。もうあれも遊びつくしたからさ」
「えー。俺が失くしたときは容赦なく弁償しろって言うくせに。贔屓だ。贔屓ぃ」
「春樹は今まで失くしたボールの数を思い出そうか」
「あ、なんか急に勉強したくなってきたぞ。早く家に帰って宿題してこよーっと。謙吾、気を付けて帰れよー」
近見から向けられた笑顔に耐えられなくなった春樹は適当な理由をつけ急足で家の中へと戻って行った。
「それじゃあ。勉強の邪魔をしても悪いし俺もそろそろ帰ろうかな」
「あ、うん」
帰るという近見の発言に夏希は内心ホッとする。
春樹がいなくなってしまい。二人になったとたんに気まずいと感じていたからである。
「その前にこれを片付けとかないと」
バットは春樹の持ち物のようで近見はガレージの中に片付けに行った。
夏希もすぐに香月家に逃げ帰りたい気持ちでいっぱいだ。しかしボールを失くしてしまった負い目があるため見送りぐらいはしてやろうとその場に留まっていた。
「どうしたの?」
なにやら近見はキョロキョロと何かを探しているようだった。早く帰って欲しい夏希は仕方なく話しかける。
「タオル探してるんだけど。ほら夏希ちゃんに渡したやつ」
「ああ。それならここに」
夏希が目を冷やすのに使っていたタオルを探していたようだ。それならサンダルに履き替えたときに、そのまま玄関に置いたままにしていた。
「もしかしなくても。これ、近見さんの?」
「うん? うん。そうだよ」
タオルを近見に渡す寸前夏希は手を止めた。
「ああ、大丈夫。汚れてないよ。まだ洗濯してから一度も使ってないやつだから」
「えっとそうじゃなくて。あの。これ洗って返すね」
「そこまでしなくていいよ。べつに家に帰って洗うだけだし」
「ううん! 洗って返す!」
「うーん? じゃあ。お願い、しようかな」
返すのを拒んだ夏希は取られないようにタオルを後ろ手に隠す。
けっしてイケメンの持ち物が欲しくなったとか、そんな気持ちの悪い理由ではない。
ただこのタオルで涙を拭いていたので、なんとなくこのまま渡すのが夏希は嫌だったのだ。
「今日は付き合ってくれてありがとう。楽しかったよ。それじゃあまた明日学校で」
「あ、はい。あのボールのこと本当にごめんなさい。代わりになにかできることあったら」
「いやホントに大丈夫だから。気にしないで」
近見は自転車に跨ると何か思いついたかのように夏希へ振り返る。
「それならまた俺と遊んで、いっぱい話てくれたらうれしいかな。じゃ、バイバイ」
「っ!」
いたずらっぽく笑い、そう言い残すと近見は自転車を走らせ帰って行った。
おそらく夏希が猫のおとーさんに話しかけていた内容を揶揄しているのだろう。忘れようと記憶に蓋をしていたのに、強制的に思い出さされた夏希は思わず叫ぶ。
「ばかー!」
やっぱりイケメンは嫌な奴だった。
そのまま家の中へ走りこんだ夏希は、洗濯機にタオルをめいっぱい力を込めて叩き込んでやったのだった。
ランクイン通知機能というのが実装されまして。日間ならちょいちょいランクインしてるみたいで嬉しかったです。




