お手伝い
ベッドから起き上がった夏希は背伸びをひとつしたあと体調を確認する。
眠気なし。気怠さも感じない。身体は軽い。万全の体調といって差し支えなかった。時計を確認すると随分と寝ていたようだ。
そうはいってもまだ早朝という時間帯。昨夜夏希が寝入った時刻が早かったはずだ。
昨日は寝不足であったのと、初めての場所へ訪れる緊張と高揚で夏希は心も体も疲れてしまった。お風呂から出たあたりから眠気が襲ってきた。
その後もリビングのソファで冬里に付き合わされ、いま学校で話題のドラマとやらを観ていた。
これまでのストーリーを知らず途中からでは話の流れが分からず、ぼうっと観ているうちに眠気でうとうとしていた。その様子を何となく青葉に笑われていた気がするが、そのあたりから夏希の記憶が曖昧だったりする。
そもそもベッドに自分の足で辿り着いたかも不明だ。
部屋の床にはケースから出しっぱなしのテニスラケットが放置されている。そんなことをするのは冬里くらいだろう。
けれどその出来事が夏希はまったく記憶にない。やはり昨日は本格的にリビングで寝落ちした説が濃厚になってきた。
「よいしょっと」
思い出そうとしばらく考えてみたがダメだった。
別に寝落ちくらい大人でもする。ましてやいまの夏希は子供なのだ。決して恥ずべきことではない。そう言い聞かせ本格的に起きることにした。
まずラケットを回収してケースに収納する。それを通学カバンの隣に立てかける。明日の入部初日にラケットを忘れたなんていう不名誉を賜るわけにはいかない。
いまからワクワクする気持ちを抑えつつ、窓際に移動するとカーテンを開けた。
もう十月に入ろうかというのに差し込む日差しは強い。今日もまた暑くなりそうだった。せっかくの休日なのだ。今日は涼しい室内でゆっくりと過ごそうと夏希は決めた。
目を瞑るとしばらくその身に日差しを受ける。窓際に佇んだまま夏希は寝起きのエアコンで冷えた身体を温める。
ロケーションがいいとか、外の風景がいいとかそんなことはない。ただこうしているだけですがすがしい気分になる。
明日も今更学校に登校しなくてはならない不安はある。けれどもそれが少し楽しみに思っている感情もあることに夏希は気付いた。
それもきっと気のせいだろう。
そう決めつけ、奇妙な感情を胸に納める。
浸ってないでそろそろ朝食をとりに行こうと夏希はレースカーテンを閉める。その際に外に青葉がいるのを見つけた。
それを見た夏希は慌てて部屋を飛び出ると、踏み外さないよう注意しながら急ぎ階段を降りていく。裏口に向かうと外履きに足を通しパタパタと青葉の元に駆け寄る。
「て、手伝うよ!」
あくまでさり気なく夏希は話しかけたつもりだったが、少しどもってしまった。
「おや。うちの子にしては殊勝な心掛けだね。でもその身長だと届くかな?」
「失礼なっ! 届くし!」
からかうような青葉の返しに、ムキになった夏希は飛び跳ね物干し竿に何度もタッチして届くとアピールして見せた。
夏希が部屋の窓から見かけたのは洗濯物を干す青葉の姿だった。
香月家に住むようになってから夏希がなにかを強制されたことはない。反対に頼まれることもない。
春樹と冬里を見ていても夕食時に少し手伝うぐらいだった。
ということは香月家の家事はすべて母親の青葉がやっていることになる。
それに夏希が気付いたのはつい先日だ。
もし夏希が年相応であるならば、それを気付いたところでどうとも思わなかったかもしれない。
それに、もしこのまま夏希が本当の子供のように過ごしても、青葉はなにも文句は言わないだろう。
でも家事がいかに大変で面倒であるかを夏希は知ってしまっている。
しかもそれが家族全員分となれば、一人分しかこなしたことのない夏希には未知の領域とさえいえる。
青葉が家事を慣れてしまいもう何も感じないとか。そもそも負担に感じたことなどないという、感覚のマヒした聖人かもしれない。
青葉がどう思っているかなど夏希には分からない。
しかし気づいてしまうと見て見ぬ振りはできない。ましてや居候している身で何もしないのは居心地が悪い。何かしないといけない気持ちになる。
これを口に出したら、きっと青葉に怒られてしまうだろう。
だからといって無視できるものでもなかった。
「それじゃあ、こっちのカゴのを干してもらうかな」
「うん。まかせて」
青葉がカゴのひとつを渡してきた。さっそく夏希は任されたカゴから洗濯物を干そうと掴み上げる。
まず手に取ったのは、グレーのくるぶし辺りまでしかない靴下。これは春樹が履いているのを夏希は見かけた覚えがある。
その靴下を低い方の物干し竿に掛かったピンチハンガーに止めていく。
次に手に取った白い靴下は夏希のか冬里のものか。どちらも無地で特徴がないので見分けがつかない。
「ねえ青葉。どっちがわたしで、どっちが冬里のか分かるの」
これまで特に気にしたことはなかった。ただ自室のタンスに入っているから自分の靴下だと夏希は思っていた。
無地で色も同じ。大きさはと思い、重ねて比べて見ても違いがないため。不思議に思った夏希は聞いてみることにした。
「はは。そんなの簡単だよ。んー、どれどれ。わかった。この二つが夏希ちゃんのだね」
問われた青葉はピンチハンガーに吊るされた靴下に顔を寄せて観察すると、すぐに答えてみせた。
けれど教えてもらったはいいが、夏希にはどちらも同じにように見える。
「へえ。そうなんだ。なんでわかったの?」
「匂い、さ」
「うわ」
キメ顔で言われた。
その理由を聞いて夏希はさっと身を引き青葉から距離をとった。
一応今後のためにも見分け方を知っておこうという思いで聞いたつもりだった。でも常人にはまったく参考にならないうえに、知らない方がよかったと夏希は深く後悔した。
「あっ、今の噓だから」
「ああ。うん。そう、なんだ」
「まあ、待ちなよ。まってまって! どこ行くの? 本当に冗談だから!」
「うんうん。わかってるよ。でも、ちょっと用事思い出したから、わたし部屋に戻るね」
「見た目! 見た目だよ! 二人とも同じ靴下でぱっと見た感じは同じに見えるかもだけど。冬里の靴下は四月からはいてるけど、夏希ちゃんのははまだおろして間もないでしょ。だから冬里の方はちょっと色あせてたり、ほつれがあったりするんだよ」
変態発言の真意を確認するため、仕方なく夏希は青葉のところまで戻る。
早口で告げられたその真意を確かめるため、もう一度見て確かめることにした。もし青葉の咄嗟に出たウソであったとなれば青葉との付き合いを夏希は見直さなければならない。
結論からして青葉の言う通りだった。
言われて見てみればたしかに違いがあった。冬里の靴下は擦れてけばだつなどしていた。
言われる前だと気付かないことも、答えを言われた後であればはっきりとわかる。
「ほんとだ。よく見てるね」
「当然。だって私は夏希ちゃんたちのお母さんだからね。まあ、いまは無理でもこれから練習すれば匂いでも嗅ぎ分けられないこともない」
「ゼッタイやめて」
なぜその話を再び蒸し返してくるのだろうか。立ち去りたい気持ちを抑えつつ、任せられた洗濯かごの中のものを夏希は干していくことにした。
「でも。そのうち見た目じゃ分かんなくなるかもしれないね」
いまはまだ見わけが付いている。けれど時間が経てば分からなくなってしまうかもしれない。
また新しい物をおろす時期が重なってしまってしまうかもしれない。
まだ買いためている靴下があるが、買い換えてしまおうかと青葉は考える。
「んー。じゃあさ、なんか印でも付けるとか?」
「お、いいね。それ、採用。あとでトメ子ちゃんにアップリケかなにか持ってないか聞いてみよう。なければ刺繡でもしてもらうのもありね」
「トメ子さん。刺繡とかできるんだ」
「いまはもう辞めちゃってるけど昔は機織りの仕事してて、和裁もできる凄いお方なんだよ」
話している間にも靴下は全て干し終わる。次に夏希が洗濯かごから手に取ったのは自身の下着だった。
それに夏希は思わず口を歪める。見慣れるまではいかないが、現在進行形で身に着けているの女性用の下着。さすがにもう自分の下着にドギマギすることはもうなくなった。心を無にしてささっと洗濯バサミに付け干していく。
「和裁って和服作る人のこと?」
「そうそう。夏希ちゃん、よく知ってるね。えらいえらい」
「おかげさまで見た目以上には生きているもので」
「おお? 言うようになったね」
「事実だからね。本当にするならあんまり可愛らしくなくて、目立たないのでお願い」
まだ転校生の肩書が尾を引く夏希。学校では物珍しい動物を見るかの如く注目されることがまだまだ多い。
そろそろ鳴りを潜めていい頃なのではと夏希は思うのだが周りがとにかくかまってくる。
二学期に入りしばらく、ようやく中学生生活に慣れたころに夏希という話題が転がってきたのだから仕方のないことだ。
夏希のペンケースを勝手に漁って、よく分からないゆるキャラがプリントされたペン一本でもかわいいだの言ってきたりする。
またインクの出がいいからと夏希が好んで使っていたペンがある。そのクリップ部分がペンギンの形をしているなんて言われ、初めて夏希は気付いたくらいだ。
女子たちはとにかく些細な身の回りの変化に敏感である。
自身と仲のいい人が髪型やカバンを変えたくらいの変化なら夏希も気付けるかもしれない。しかし彼女らは髪留や文房具など小さな変化をよく見抜く。
そして夏希からしたらどうでもいいことで延々と話をはじめる。
必ず週明けの教室で冬里が栞あたりに刺繡が入った靴下を自慢するだろう。それがすぐさま伝播していし女子生徒が集まってくる。冬里の隣には当然夏希もいるわけで、それに巻き込まれるのは必至だ。
人見知りの夏希にとって、顔も名前も朧げにしか覚えられていないクラスメートたちと話すのも色々楽じゃないのだ。
「うっ。青葉。青葉」
「なあに?」
「これ。そっちで干しといてよ」
淡い黄色の下着を青葉の洗濯かごへと夏希は放り込む。
それを夏希は一度も履いた覚えはない。自身が身に着けているものよりも少し大きめのサイズの女の子の下着。もしかしなくとも冬里のものだった。
「これがどうしたの?」
「どうしたもこうしたも。冬里のだよ?」
「うん。冬里のパンツだ」
二人は疑問符を浮かべてお互いに顔を見合わせる。
「わたしが触れたらダメでしょう」
「どうして?」
「どうしてって。だってわたし男だよ。他人のしかも男に娘の下着触らせるのはいかんでしょ!」
「それはそうだけど。いまの夏希ちゃんは女の子で私たちの家族でしょ。それに洗濯物を干すお手伝いしてくれるんじゃないの?」
青葉の言うことはもっともで、夏希も理解はできる。それに手伝いしに来たのに我儘を言って迷惑をかけている自覚もある。
「それにもう春樹のは干してるじゃない。私達以外の人が見てたら、それこそ不自然だよ」
「うぬぬー」
青葉の言う通りすでに春樹の下着は夏希の手によって干されている。もしこの場に二人以外の誰かが居れば、夏希は異性の下着は干せるのに同性の下着は干せないおかしな奴である。
ごもっともな意見に夏希はぐうの音も出ない。
そして青葉が洗濯かごに返却してきたソレを夏希は恨めしそうににらみつけた。
「うん。そうだよね。青葉ならそう言うだろうね。でもね、わたしの心の準備ができてないの! あとで冬里の顔見たら絶対に気まずくなっちゃうから頼んでるの! お願い青葉やって! 今回だけだから!」
「もう。しょうがないなぁ」
夏希はつい本当の子供のように声を荒げてしまう。
これは夏希の感情の問題。しかもこの感情は今後もずっと一方通行になることだろう。
だって夏希の抱く気持ちは青葉にしか共有することができない。それが相手にわかってもらえないのは言い表せない複雑な感情が胸に渦巻いた。
「ごめん」
「いいよこれくらい。でも将来お兄ちゃんの下着と一緒に洗わないで! なんて言わないでよ。春樹、泣くわよ」
「言わないよ」
いまとなっては異性である春樹の下着を干す方が一番苦じゃなかったと夏希は断言できる。
「よし。これで終わりかな」
「終わり?」
「そ、これで洗濯物は終わり。手伝ってくれてありがとう。助かったよ。先に着替えてきな。その間にパン焼いといてあげるから」
終わりと聞いて夏希は空になった洗濯かごを持ち上げると干された洗濯物をみた。
そこで違和感に気付いた。
「ねえ、青葉」
「ん、なんだい?」
「青葉のなくない?」
よくよく見ると青葉の服装は昨日買い物に出かけてたときの服から変わってないように思える。
もちろん同じような服を何着も持っている可能性はある。だからといって洗濯しない理由にはならないはずだ。
「お風呂、入ってる?」
「あ。うん。もちろん。これから入る予定だったよ。ホントだよ?」
「すぐに行ってきなさい」
「はい」




