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ひとりで帰宅

休日を控えた金曜日の放課後となると浮ついた空気を感じてしまうのは夏希だけだろうか。

決してなにか特別な予定が入っているわけではないのに、明日が休みだと分かっていると気分が高揚してしまう。


あいにく夏希が働いていた職場では土曜日も勤務日であったためそんな空気感はなかった。

だから久しぶり味わうこの懐かしい気分に浸りたい夏希であった。


「はい。ではあとはこちらで処理しておきます。気を付けて帰ってね」

「はい。よろしくお願いします」


浜那美中学校に転校してから早三度目になる生徒指導室だが、今回も夏希がなにか教師に指導されるような問題を起こしたなんてことはない。

時間も要さない簡単な用事であった。担任の桃山由香の説明を聞き用意されたプリントに書き込むだけの簡単な作業だ。

それも終わり担任の桃山由香に挨拶を終えると夏希は素早く生徒指導室から退出した。


一年一組の教室へカバンを取りに戻るとそのまま夏希は帰宅の途につく。他の生徒たちは真面目に部活に取り組んでいるようで、学校を出るまでの間に夏希以外の生徒に会うことはなかった。

べつに部活をサボって帰宅しようとしているわけではないのだが、なんとなく見つからないようにと気配を殺して歩いた。


ひとりで帰宅するのはずいぶんと静かだ。

なぜならここ最近ずっと夏希の隣にいた騒がしい少女が今日はいないからだ。

夏希になる前の学生時代は大体ひとりで帰って。それが普通だった。

それなのにたった数日の間に違和感を覚えるようになってしまった。


だがきっとそれも夏希の勘違いなのだろう。

明日学校に行かなくていいから気が抜けてしまったのだ。自分の半分も生きていない年若い子らと混ざって送る生活は少なからずストレスがある。

慣れてきたと思ってはいるが、やはりまだ整理しきれていない部分もある。


いま少し感情のコントロールができていないのは、これもきっとそのせいだと思い込むことにする。

こういう時は逃避するに限る。不安定な状態も楽しいことを考えていれば直に晴れるだろう。これは正当な自衛行動である。

夏希はゆったりと歩きながら周囲の山や海、自然を楽しむことにした。こんな贅沢は時間に余裕がなければできないのだから。


明日は休日だからゆっくりできる。もちろん予定など入ってはいない。

いつも通り昼まで寝てしまうのもいいが、いまの身体はそれほど疲れることがない。たとえ疲れていても寝て起きれば元気いっぱいだ。

この状態が歳をとっても続くのなら、きっと仕事も捗るのだろうなと想像してみたり。


そんな無い物ねだりは置いておくとして、週明けまでに用意しないといけない物ができてしまった。

とりあえず香月家に着いたらまず青葉にこの事を相談しなくてはいけない。

この休日で予定があるとすればこれくらいか。あとは夏希に執拗にかまってくる冬里を適当に捌いていれば時間が過ぎていくことだろう。


香月家まで帰ってくると夏希は玄関で立ち止まる。そのままドアノブに手をかけた状態で少し考え込む。

そういえば昨日までは帰ってきたらどのタイミングで夏希はただいまと言っていたがだろうか。

たしか玄関のドアを開けるなり靴を脱ぎ散らかして中に入りハイテンションにただいまと叫んでいた。


いやそれではまるで冬里ではないか。では帰ってくると部屋まで直行カバンを置いてからリビングに向かい、青葉からおかえりと言われ生返事をしつつ台所でお茶をがぶ飲みする。これでは春樹だ。

急にただいまと言うタイミングが夏希はわからなくなってしまった。


家に入ってすぐや家族と会ったら言えばいいのかもしれない。だが何十年と夏希はその言葉を口にする機会がなかった。

ましてやその言う相手が母親を自称する年下の女性ときた。

そんな相手にただいまと言うことに、違和感と気恥ずかしさ色々な感情が混ざり合い戸惑うばかりだ。


しかもこういうことは意識すると急に恥ずかしくなってくる。

でも夏希はこれまでの人生で知っている。一番最初が大事なのだ。ここでためらってしまえば後に引いて今後に影響してしまう。

だから勢いに任せて言ってしまえばいい。あくまで自然にさらっと言ってしまおう。ついでに明日の予定を伝えてしまえばいい。


「ただいまっ」


靴を脱ぐと真っすぐリビングに向かった夏希は、リビングに入ると前もって考えていた言葉を口にした。


「あの相談があるんだけどさ、青葉。さ、ん…」

「あら、おかえりなさい」


そこにはいつも通り青葉がいるものだと思っていた。この二週間夏希たちが帰ればずっと青葉が出迎えてくれていたからだ。

ところが今日はリビングのドアを開けると料理のいい

匂いが鼻をくすぐったと思えば、台所に立つ年配の女性が夏希を迎えたのだった。


「これはまた可愛らしいお嬢さんがきたこと」


声の主が料理をしていたようで鍋の火を弱めると、台所から夏希の所までやって来る。

白髪を纏めたその女性は背筋をしっかりと伸ばし、しゃんとしているせいかまるで歳を感じさせない。そのせいか、けっして背が高いわけではないのにとても大きく見えた。


事態が呑み込めない夏希は頭の中は真っ白でただ立ち尽くしていた。

目の前の女性は一体誰だろうか。目だけを動かし青葉の姿を探すも見当たらない。

最初に夏希の頭によぎったのは強盗だ。けれど盗みに入った家てのんきに料理をする強盗などいるだろうか。


もしくは認知症のおばあさんが家を間違えてしまったとかだろうか。

まあ普通に考えればお客さんだ。たまたま青葉が席を外しているタイミングで夏希が帰ってきてしまったとかだろう。

でもそうじゃなかったらの場合を想定して逃げる準備をしなくてはと、後ろ手にドアノブにそっと後ろ手を伸ばし夏希は頭の中で外までの避難経路を思い描く。


「そう怖がらなくても大丈夫だよ。青葉ちゃんは仕事が長引いてるみたいでね。私は帰るまで留守を頼まれたんだ」


いまにも飛び出していきそうな警戒感丸出しの夏希を落ちつけようとその人物は近づく足を停めて説明を始めた。


「そう、なんですか」

「ああそうだ。私は近所に住んでいるトメ子といってね。昔はこうしてあの子に留守をよく頼まれたものさ」


トメ子と名乗ったその年配の女性はしみじみと語る。


「まだ春樹と冬里が小さい頃の話だけど、青葉ちゃんの帰りが遅くなる時はよく私が留守番を頼まれていたものだ。最近はこういう事もめっきり減っていたけどね。それがお昼頃にあの子から連絡があってね。なんでも今日は夏希ちゃんがひとり早く帰ってくるだろうから、寂しがらないように一緒にいてあげてと言われたかな」

「なにそれ」


今日早く帰ってくることになるとは夏希ですら知らなかったことなのに、なぜ青葉が知っているのだろうか。

それよりも寂しがらないようにとは何事か。見た目通りで設定そのままの夏希ちゃんであればその通りかもしれない。

しかし実際はこんななりでも夏希の中身は三十台の成人男性だ。


家にひとりでいたからといって寂しいものか。むしろこれまで十数年間ひとりで暮らしていたのだ。ひとりでいる方が慣れているといってもいい。

けれどあの青葉なら確かに言いそうである。それに春樹や冬里の名前が出る当たりトメ子のことは信用してもいいのかもしれない。


「あの。えっと、わたし夏希といいます。さっきは失礼な態度をとってすいませんでした」

「あれくらいで気を悪くしちゃいないよ。婆だろうが知らない相手を警戒するのは当然さ。もし相手が見知らぬ男だったなら一目散に逃げな」


知らなかったとはいえ失礼な態度をとってしまったことを夏希が謝罪するが、なんてことはないとトメ子はそれを許した。

そして夏希へ忠告するようにトメ子の言う。

相手が歳をとったトメ子であろうと場合によっては、襲い掛かられていたら抵抗もできなかったかもしれない。


自慢じゃないが、いまの夏希は下手したら低学年の男子小学生に力負けしてしまうかもしれないほどのひ弱さだ。

もし相手が本当に不審者であったとしてあの距離まで近づかれてしまっては捕まって何をされていたことか。

そのことを想像するとゾッとした。


「わかりました」


夏希は心のどこかで現状を受け入れていなかったのだろう。

どうしてもまだ男性だったころの視点で考えてしまうことがある。さっきも何か起きても年配の女性相手であれば、正直何とかなるという考えがなかったわけではない。

あらためていまの夏希自身を見直す機会になった。


「わたしなんかのために、わざわざ来てもらってすいません」

「構わないよ。もう年金暮らしで毎日手持無沙汰なんだ。私なんかで出来ることがあるなら喜んでやるさ」

「えっと、料理中でしたか」


入ってきたときからリビングにはいい匂いが漂っており、学校終わりの夏希は食欲を刺激されお腹が空いてきてしまった。


「ああ。ただ待ってるのも性に合わないからね。家から食材を持ってきたんだ」

「すいません。お邪魔しちゃいましたよね」

「気にしなくていいよ。私が勝手にやってることだからね」


台所の鍋からは静かに煮詰める音が聞こえてくる。

調理台には野菜や調味料など食材が並び、シンクには料理に使ったであろう調理器具もある。


「どうせあの子のことだ。ロクなものを作ってもらってないんだろう」

「あ、いや。そんなことは」

「無理する必要はないよ。私と青葉ちゃんは付き合いが長いからね。それぐらいは分かる」


なんとか否定する言葉を夏希は探すが残念ながら上手く出てこなかった。だってそんなことは、確かにあるのだから。

夏希は疑問に思わないようにしていたが、必ずと言っていいほど晩御飯は毎日鍋なのだ。


一応フォローするなら青葉が作る鍋は毎回バリエーションも変わるし、味もとてもおいしく飽きはこない。

食べさせて貰っておいて文句ではないが、でもそろそろ他の食べ物が恋しくなる。


「でなきゃあの子が台所がこんなに奇麗な状態を保ってられるとは思えない」


調理は鍋に入れる野菜などをまな板の上で包丁で切る程度。あとはリビングのダイニングテーブルでカセットコンロの上の鍋に具材を入れて完成だ。

だから台所が汚れる要素がない。料理をする人が見れば台所を使っているかなど一目瞭然なのかもしれない。


「このまま立ち話をするのもいいが、先に着替えて着たらどうだい」

「あ、そうですね。着替えてきます」


夏希はカバンを背負って帰ってきたままの状態で立ち話をしていた。トメ子に促されるまま夏希は部屋に戻って制服を着替えることにした。

二階の自室に着き扉を閉じると夏希はその場に座り込んでしまった。


帰ってくるなり知らない人と鉢合わせしびっくりした。

結局青葉の知り合いだと分かったのだが、それでも心臓に悪い出来事だったのは間違いない。

不審者ではなくて安心したものの、それはそれで今度は初対面の人と二人きりでいることに緊張がよみがえった。


その状態のままひと息つくと夏希はカバンを下して立ち上がり部屋着に着替えることにした。

このまま誰かが帰ってくるまで部屋に居てはいけないだろうかと着替えながら思案する。

でもそれだとトメ子の夏希に対する心象が悪くなるだろう。話からして香月家がお世話になっている人物だとうかがえる。そうであれば夏希もお世話になる可能性が高い。


「よしっ!」


これでも一応香月家の端くれになるので、それまでは夏希がひとりでお客様のおもてなしをしようと気合を入れる。

春樹か冬里が帰宅するまで見積もってだいたい一時間ほど。それにあわよくば青葉が帰ってきてくれ、早めに解放されるかもしれない。

この決心が揺らがぬうちに戻ろうと、夏希は軽快に階段を下っていった。

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