わたしになる理由が欲しかった
冷静さを取り戻した青葉はスマホを拾うと、上司と話をしてくると言って部屋を出て行った。
その姿を見送ると夏希は緊張の糸が切れベッドに倒れこんだ。
昨夜から非現実的な出来事が続き、いまだに状況が吞み込めていない。
はたして青葉が話したプロジェクトは本当の事なのだろうか。昨夜の自分が聞いたら荒唐無稽だと突っぱねたことだろう。しかし夏希自身に起きたことを考えれば笑ってなどいられなかった。
先程聞かされたプロジェクトの内容を思い返す。
人によっては喜ばしいかもしれない。でも手放しで喜べる内容ではなかった。
まだ不明な点が多いが聞きようによっては生涯を終えることなく永遠と労働を強いられる。そんな未来を一瞬想起してしまった。日々、宝くじの一等が当たって早期リタイヤを夢見ていた自分にはとても賛同しかねる話だ。
しかしまあ凍結したプロジェクトを悩んでも仕方ない。昔から難しい話は嫌いだ。頭が痛くなる。考えるのをやめよう。逃避するのは得意だ。
ベッドに仰向けで脱力したまま頭を動かす、ぼうっと眺める先の鏡に映る女の子は茫然自失といった表情をしている。いまだに受け入れることができないが、あの鏡の美しい少女がいまの自分の姿なのだ。
以前の自分とは似ても似つかない。当然だろう性別から違うのだから。
手違いがほんのちょっとあって性別が変わってしまったらしい。と青葉は言っていた。ということは性別が変わることは想定されていなかったと考える。
しかし、なってしまったものはしょうがない。いつも通り諦めよう。
「って! 諦められるかー!」
包まっていた布団を跳ね除け立ち上がる。
机に這い寄ると並べられた書類を1枚つかみ取る。それには夏希の情報が記載されていた。
香月夏希。性別は女性。生年月日は昨日の日付になっていて、生まれた年から計算すると年齢は十三歳のようだ。戸籍謄本に書かれた両親は知らない名前だった。
この夏希という名前は青葉が一晩で考えたと言っていた。この短い時間で手続きが出来るものなのか。めちゃくちゃだ。こんな改竄がまかり通るのか疑問だが、元は国家プロジェクトなのだ。一般人の夏希には想像もできない権力が裏で振るわれ、これぐらいのことは簡単に出来てしまうのかもしれない。
もうこの身体で生活する条件がしっかり整ってしまっていた。
十三歳というと中学生だ。これは昨日の送られてきたメッセージの『Q3.人生をやり直すならどのタイミングですか?』の質問を反映した結果なのだろうか。
自分て選択したとはいえ今更中学生に戻ってどうすればいいのか。勉強はまだアドバンテージがある頑張れば何とかなりそうだ。それよりも心配なのが人間関係である。
ガワは中学生、中身は三十路の独身男性が中学生に混じって何話せばいいのだ。
しかもいまの性別は女だ。男子だったならその場のノリで躱せるかもしれない。女子は無理だ。多感なお年頃の奴らを相手取るなんてできるだろうか。いや出来ない。
それに若者の流行りとかもついていける気がしない。日々次々と湧き上がるコンテンツを拾い集めて話題について行かなければグループから孤立してしまうのではないか。
きっと夏希は話題について行けず、周囲から徐々にハブられていき、最後にはいじめられるに決まっている。
来るべき未来を予知した夏希は、絶対に学校には通わないと固く決心した。
自宅警備員になろう。天涯孤独となった自分を止める人などいないのだ。そうだFXはじめよう。いまはまだ名前しか知らないけど時間ならたっぷりある。いまから死ぬ気でFXを学べば家から出なくても暮らせるようになるかもしれない。
「お待たせお待たせ。所長と夏希ちゃんの今後を話し合ってきたよ」
今後の身の振り方を計画していると青葉が、めっちゃ怒られたよぉ、と頭を掻き苦笑いを浮かべながら帰ってきた。
「とりあえずやっちゃったものは仕方がない。上には俺が報告しておく。お前は当初の計画通り進めていてくれ。てさ」
いまの芝居じみた口調は所長とやらの真似をしているのだろうか。所長も所長で反応が軽すぎないかと夏希は思ったが、青葉が部屋から出て行ってから三十分ほどは経過している。いま話した内容は要約したものなのだろう。
「あの、すいません。質問があるんですが」
「ん。なんだい? なんだって聞いてくれたまえ」
「青葉さん。なんか昨日会った時と雰囲気違いませんか。話し方とかも」
「そんなことか。初対面の人と話すときは敬語があたりまえだろう。それにあの時は待ちに待った被験者との対面で興奮していてね。あと七徹でキマってたから粗相があったかも知れないが許してくれ」
七徹。さらっととんでもないことを言われた。昨日も寝ずに名前を考えたと言っていたので八徹目か。
会って間もない人間に注射器を刺すのは粗相のうちなのだろうか。
会った時からずっと白衣来てるし、白衣から注射器を出すし、常軌を逸する徹夜。物語から出てきたような研究者だと夏希は思った。それだとあまりにも他の研究者に失礼なのでマッドと表現を変えておこう。
「ちなみに私のことはお母さんと呼ぶように」
「はい。青葉さん」
「ははは。夏希ちゃんは手厳しいなあ」
夏希を指差して青葉は大笑いする。この人は人を指さしてはいけないと母親には教わらなかったのだろうか。
「わたしのこれからと、男であった俺はどうなったんですか」
「私はいまから残酷なことを言う。キミは今日ここで死んでくれ」
目を閉じて深呼吸をしたあと青葉はそう言った。
「まず昨夜までのキミは行方不明者として処理されることだろう。なに、この国の年間失踪者数からすればなんてことはない。このプロジェクトは非常にデリケートなものだ。残念ながら今後ご親族や知人と連絡は控えてくれ。キミは今日から香月夏希として生きることになる。ってのが本来ならば事前審査の段階で説明されるはずだったんだ」
失踪者扱いか。何の感慨もわかないと言ったらうそになる。貯金を使い切っておけばよかったとか。記録媒体を破壊しときたかったとか、しょうもないことばかりが思い浮かんだ。よくよく考えれば自分には惜しむことはなかったようだ。
自分が行方不明になって両親は悲しんでくれるだろうか。最後まで親不孝者だった自覚はある。面と向かって話をしたのはいつだっただろう。会話の内容すらも思い出せない。きっとぶっきらぼうに適当に返事をして、すぐに会話を終わらせようと切り上げたはずだ。
ありがとう。たった一言だけ伝えておきたかった。それだけが心残りだろうか。
「悪いとは思ったがキミの持ち物はすべて処分させてもらったよ。その服も後で処分させてもらう。大変急なことで申し訳ないと思っている」
スーツを探ってみたが持ち物がなくなっていたのはそういう事か。もう財布もスマホも処分されてしまったのか。あの財布は何年も前に母親から贈ってもらったやつなんだけどな。
本当に何もかもなくなってしまうようだ。過去の自分とはここでお別れ。
都合の悪いことは考えないように生きてきたつけが回ってきたのだろう。こんな事態が起きても心が痛んだり涙が出ることはなかった。
「これから香月夏希として生きてもらう。今日これからの人生を私たちは惜しまず協力しよう」
ここで青葉は言葉を切った。自分を気遣っているのか、返事を待っているのか。
伏せた目を上げてみると青葉は泣きそうな顔をしていた。
なぜ青葉がそんな顔をすのか分からなかった。人並みに感情はあったつもりだけれど他人事を泣いてやるほどの感情は持ち合わせていなかった。自分にはいまの青葉の気持ちが理解できなかった。
そして自分の現状すらも他人事の様に感じてしまっている自分に気がついた。
もしかすると理由が欲しかったのかもしれない。
たとえ姿かたちが変わっても根底にあるものは変わらない。次の行動を起こすのに理由が欲しかった。自分では決められないんだ。
だから自分は青葉のために香月夏希になることにした。
そうすれば青葉が悲しまないから。そうすれば理由ができるから。そうすればダメだったときは青葉のせいにできる。
「わかった。これからわたしは香月夏希として生きる」
自分の、夏希の返事を聞いて青葉は安心した表情を浮かべた。
「ありがとう。そして本当にごめんなさい」
ここにきて青葉は頭を下げ、はじめて謝罪の言葉を口にした。
青葉も不安だったのだ。彼が夏希になる前に謝ってしまったらもう引き返せなくなる。だから夏希になった後に謝った。
もう後戻りはできなくなった。これで夏希も青葉も前に進むしかなくなったのだ。
頭を上げた青葉の顔には不安も涙もなかった。
「よーし。ではまずお着替えしようじゃないか」
手をわきわきさせながらにじり寄ってくる。切り替え早いなと夏希は呆れてしまった。
「そんな恰好で家をうろつかれたら、思春期真っ盛りの春樹の性癖が壊れてしまうからな。さてさてどれにしようか。どの形で落ち着くか分からなかったからまだ夏希ちゃんの服は用意できていなが、幸い冬里のお古がある。迷うなー。素材がいいから何着ても似合うだろうけど迷うなぁ」
裸にワイシャツ一枚という犯罪感すら感じる格好を変えるべく。青葉は白衣のポケットから次から次へと服を取り出し始める。
明らかにポケットの容量を超えて出てくる服を見て思わず夏希は顔が引きつってしまった。研究者ではなくて手品師なのだろうか。
「夏希ちゃんはどれがいい? 希望はあるかい?」
「露出が少ないのと、フリフリなのとか子供っぽいのはちょっと嫌かな。あとスカートは遠慮したい」
「却下だ却下。せっかく可愛らしく生まれ変わったんだぞ。着飾らないと損だ」
夏希の希望は却下されてしまった。だったらなぜ聞いたのか。
青葉は白衣から取り出した服を次々と夏希に合わせていく。服は女児向けのアニメキャラのプリント服やフリルやら全体的に幼いというか可愛い系といった服ばかりだった。
夏希は今も昔もファッションに興味なかったので基本的にいつもジーンズとTシャツ。仕事に行く以外に外出することもほぼないので、持っていた私服も三着も持っていないほどだった。
「このスカートなんてどうだ? 試しに履いてみてくれ」
「いや。だからスカートは嫌だって」
「女に生まれたらスカートは避けて通れないからな。今のうちに慣れておいた方がいいぞ。女子制服はスカートだし」
確かにそうかもしれない。女子の制服でスカート以外の選択肢があります。という学校はまだ少数だろう。
「わたし学校行かないし」
「なーに駄々こねた子供みたいなこと言って。私は夏希ちゃんの選択を尊重するつもりだけど、少なくとも義務教育は修了してもらうぞ。よかったな。少なくともこれから三年間はスカート生活が待っている」
「無理! 絶対に無理! てか聞いてなかったけど元に戻る薬ってないのか。若返る薬があるなら老いる薬だってあるだろ」
「ないない。私たちは若返る薬を開発していたんだ。そもそも老いる薬にメリットなんてないからな。世界中探せば研究している奇特な研究者もいるかもしれないが」
夏希は早くも人生をやり直す決心が揺らいできた。
「あ、これとかどうだ」
無地のシャツを見つけたので指さし提案してみる。
青葉が選ぶ服は夏希の見た目の年頃の子供が着るには悪くないコーディネートだが、中身三十路男性が着用するには精神的にくるものがあった。
何と言っても三十年間男性と過ごしてきたのだ。見た目が変化していると分かっていても、自分の中のイメージが女児用の服を着る以前の自分の姿になってしまう。想像しただけで吐き気を催した。
「んー。ちょっと地味じゃないか。夏希ちゃんはそいうのが好きなのかい? なら、これとこれならどっちが好みだ」
「うーん。こっち?」
タイプの違う服を二択で選んでいく作業を繰り返していく。
「なるほど夏希ちゃんの好みのタイプは把握してきた。これなんてどうだ」
「まあ。これなら、まだましかも」
青葉が選んだのはおとなしめのワンピースだった。
半袖の袖口にはフリルがあしらわれていて、夏服なので生地は薄いがスカート丈が長い。傍らに並ぶミニスカートと比べると大分まともな部類だ。
「私的にはまだまだ地味な部類だけど、これから挑戦していけばいいか」
大量に並べられた服を青葉はするすると白衣のポケットに収納していく。
あの白衣のポケットは四次元空間にでも繋がっているのだろうか。そんな疑問を夏希は抱くも深く考えないことにした。これ以上は情報過多で頭がパンクして倒れてしまいそうだ。
無事にすべての服を収納し終える。やっと終わったのかと安堵する夏希であったが、青葉は反対側のポケットに手を伸ばす。
そして出てきたのは布切れ。
布切れ。そう。あれはただの布切れだ。世間では下着とも呼ばれることもある布切れ。
「こっちは代わり映えしないが希望はあるか」
「ないよ! てかこれ誰の服なの!」
「さっき言ったじゃないか冬里だよ。私の娘で現役JCだ。普通だったら頼んでも拝めない代物だぞ。役得じゃないか」
「娘の下着を他人に、しかも男に履かせるとか正気かよ!」
「問題ない。いまはキミも私の娘だからな! ほら足上げなー」
「やめっ、やめろぉ! それだけは絶対に履かないからな!」
青葉が無理やり片足を持ち上げて下着を履かせようとしてくるのを必死の抵抗虚しく、結局大人の力には勝てずに夏希は女性ものの下着を履かされてしまった。
尊厳を失うとは、こういった感情を言うのだろうか。
男のころの夏希はトランクスを好んで履いていたので、このぴっちりと密着する下着の感覚が気持ち悪く感じた。あと布面積少なすぎる。こんな防御力のないものをなぜ女性は毎日履いているのか。甚だ疑問だ。
「次はそのワイシャツを脱いでワンピース着ましょーね。はーい。バンザーイ」
放心状態で無抵抗な夏希からワイシャツを剝ぎ取ると、青葉はワンピースを頭から被せ着せていく。さすが母親。着替えさせる作業は手慣れたものだった。
「ほら。可愛くなった。鏡見てみな。どこに出しても恥ずかしくない女の子だ」
青葉は手櫛で乱れた夏希の髪を整えたあと、姿見に全体が映るように移動させた。
その鏡には白いワンピースを着た可愛らしい小さな少女が映っていた。ただしその目は死んでいた。