夏希の体験入部6
テニスコートを囲むフェンスの向こう側に飛んでいったボールを探しに冬里は行き、それを手伝いに双子の美奈と美花とも追いかけて行った。
「それじゃあ香月こっち来て」
七穂双葉に手招きされて夏希はコートへ向かう。
「ようやく落ち着いて話せるわね。一ノ瀬愛理よ。あらためてよろしく」
テニスコートのネットを挟んで愛理が手を差し出してくる。
最初のときは冬里にさんざん邪魔されてしまい、ろくに話せていなかったので愛理はあらためて自己紹介をすることにしたのだったが。
「っ。あ、ごめんなさい! よろしくお願いします!」
「え、ええ。よろしく」
挨拶された後に愛理から差し出された手をみて、夏希はびくりと肩を震わせ握り返すのを躊躇してしまった。先ほど冬里の手を握り潰さんとばかりに握力を込めていた姿を思い出してしまったからだ。
それも一瞬の出来事で悟られないように夏希はすぐに手を取った。つもりだったのだが愛理はそれを見逃さなかったようで顔をひきつらせていた。
「仕方ないよ。愛理がバカ力なのはホントだから。指気を付けた方がいいよ。かくいう私も愛理とハイタッチして肩を脱臼させられたことがある」
「え!?」
「ちょっと双葉! あんたまでそんな冗談言うから警戒されちゃったじゃないの!」
双葉の発言を聞いた夏希は握手していた手をすぐさま引いた。念の為確認した指は無事だっだ。
「いまさらじゃん。最初からされてたし」
「んんっ。まあいいわ。夏希って呼ばせてもらうわね。香月って呼ぶと違和感しかないから」
「うん。大丈夫だよ」
愛理は冬里は十年来の付き合いの親友だ。
保育園に入るまえからいままでずっと一緒だった。同じ地区に住んでいて、かつ同い年ということもあり昔からよく知った間柄だ。
愛理は物心つく頃には冬里ちゃんと春樹くんと遊んでいたし、その母親の青葉さんにもたくさんお世話になってきた。
保育園から小学校までは一学年一クラスだったため登校から下校までずっと一緒だった。教室でも休み時間も、家も近くだったから放課後も休日もよく一緒に遊んで過ごしていた。
中学校に入学してはじめてニクラスとなり別々のクラスになってしまった。
わかったこともある。別々の教室で受ける授業は静かでとても集中できた。隣に冬里がいたらやかましくて勉強どころじゃない。
学生としてはとてもいいことなのに不覚ながら、それが少し寂しいと感じてしまった。でもそのことは本人には絶対伝えるつもりはない。
その冬里に新しい家族ができた。妹ができたと大層興奮気味での報告を愛理は受けていた。それまでの経緯も教えてもらい知っている。冬里たちが迎えた家族をひとりだけ名前を呼ばないなんてことは出来なかった。
それにこれまで一度も香月家の人を苗字で呼んだことなんでない。だから違和感があると言ったのも本当だ。
「それであの子たちはちゃんと教えられてたかしら」
「うん。とてもいい先生だったよ」
可笑しな掛け合いをする双子の先生たちのおかげで夏希の緊張もだいぶほぐれた。
技術面に関しては四月からソフトテニスをはじめたばかりの初心者なりにしっかりと教えてくれていたと思う。
「ひとにテニスの教えれるほど私も上手くはないけれど楽しんでいってくれたら嬉しいわ。とりあえずコートを使ってボールを打ち合ってみましょう」
「香月。このラケット使って」
冬里の時と同じく愛理が夏希の相手をするようだ。
双葉が渡してきたラケットを夏希は受け取る。そのラケットのデザインは先ほど使っていた美奈のものと同じでこちらは美花のものだ。
「シングルスとダブルスで使うラインが違ってくるんだけど、香月は気にしなくていい」
「冬里みたいにめちゃくちゃに打たなければ、大体のは私が拾うから好きに打ってくれていいわ」
「ミスしてもいい。ボール拾いは任せて。いっそ愛理を倒すつもりでいく」
「えっと。うん。がんばります」
ネットを挟み夏希と愛理はそれぞれコートに分かれる。夏希側に双葉が控えており、夏希サイドで空振りやコート外にボールが飛んだときは双葉が取りに行く予定だ。
「いくわよ!」
夏希に声をかけた後サービスラインより少し後ろから愛理がボールを打ち出す。ぱこん、と軽い音を響かせてボールは緩やかな軌道でネットを超える。
かっこよくサーブを決めて初心者相手に優越感を得るほど愛理は嫌な人間ではない。
打ち返しやすいようにゆっくりとした球速になるように愛理は意識して打った。
そもそも愛理にかっこよくサーブを決めるほどの腕前はない。軽くボールを打ってなんとか、本気で打ったら確実にサービスコートから外れるかネットになる。
いまも変なところに飛ばさないかヒヤヒヤしていた。
一応愛理は経験者で教える立場なのだから、一球目から打ち損じてしまっては立つ瀬がない。
愛理が打ったボールは狙い通り夏希の打ち返しやすいであろう、利き手側に向かって飛んでいき一安心していた。あとはボールが返ってきたときに備え構えをとる。
「よっと」
「お。うまい」
夏希が打ち返してきたボールはしっかりラケットの面で捉え、愛理のいるコートまで返ってきた。
双葉から溢れだ言葉通りはじめてにしては上手いと愛理も思った。
しかし相手が初心者だとしても油断なく待ち構えていた愛理は危なげなくボールを拾うことができた。
「ふっ」
久しぶりのテニスで夏希は上手くできるか心配だった。いざやってみると意外と身体は覚えているものだ。
それとも事前にあった双子のコーチの指導があってなのかもしれない。
それに相手の愛理も夏希に合わせてくれているようでゆったりとしたラリーが数度続く。
学生の頃は面倒で退屈とも思っていたが部活動も楽しいものだった。
でもきっとこれは久しぶりにしたからという今だけの感情だ。それでも楽しいという感情は気持ちよかった。
「あっと、ごめんなさい」
懐かしさを夏希が覚え、それについて考えているうちに気が逸れてしまい、打ち返したボールがネットにかかってしまった。
「大丈夫よ。最初はみんなこんなものだから。むしろスジがいい方よ」
先の冬里など強く打とうという意識ばかりでラケットの面が下を向いて自分のコートにボールを叩きつけていたり、反対に面が上を向いて高く打ち上げてしまっていた。
もちろんそれについて愛理はアドバイスしているにも関わらず冬里は聞く耳を持たなかったのでとても苦労した。
今度の夏希は素直そうな子なので教え甲斐がありそうだと愛理は思う。
一球目からボールが返って来た時は、初っ端から全力で振り抜いてボールを空高く打ち上げた冬里よりはよっぽど見込みがあると愛理は感心していた。
けれどたまたまはそう何回も続かない。すぐにいまのようにネットかアウトになるはずだ。
「そうなのかな。ありがとう」
「そうよ。その調子でもう一回行くわよ!」
まだ拙いプレイしかできないなりに愛理は夏希を気遣っていた。
返球したボールがバックハンドにならないように打ちやすい利き手側に返すようにしていたし、またボールを拾いに走らせないよう夏希の近くに返すようにも心がけていた。
そう心掛けていてもやはり愛理はテニスを始めて半年ほど。顧問や先輩に教わることもなく自分たちでテニスを学んできた経緯を加味してもまだまだ初心者の域を出ない。
だから思い通りのところにボールが飛んでいかないこともよくあること。それでも出来ないなり愛理は経験者らしくかっこよく振舞いたかったから頑張っていた。
けれどやはり危ない場面は何度かあった。打ち損じたボールがドロップショットのようになる場面があったもののギリギリ拾うことができた。
ラリーを続けるためにアウトになるボールもバウンドする前に返しこともある。
鋭い打球をコートの端に打たれたがなんとか反応しギリギリラケットを届かせることができた。その返したボールを今度は逆サイドに打たれてしまったときは一番危なかったかもしれない。
「いやいやいや! つよいわね! 天才か!」
「え? あっ」
ボールを打ち損じたのは愛理で、ラリーを続けたくてアウトになるはずのボールを打ち返したのは夏希。決めにいったのかと思うほど鋭い打球を両サイドに打ったのが愛理で、それをギリギリ返したのが夏希である。
つい楽しくて普通にラリーしてしまっていたが、夏希は今日はじめてラケットを持つ設定だったことを忘れてまっていた。
「香月。もしかして経験者だった?」
どう言い訳をするか夏希が考えるよりも先に双葉から尋ねてきた。
「あ、うん。えっと。実はむかし元気だったころに少しだけやった事があって、意外と身体は覚えてるものなんだね。あはは」
それに乗っかる形で夏希は答えていく。
元気だったころとはいったい幾つの頃の話しだろうか。そう言った夏希自身も分からないのだから、頼むからこれ以上は深くは聞かないでほしいと願うばかりだった。
「ほう。でもいい気にならないこと。まだうちのエースは本気を出していない。ね、愛理」
初心者だと思っている相手が実は経験者だったと分かって密かに愛理は安心していた。だって愛理がいきなり初心者に負けてしまったとあれば面目がたたないではないか。
それなのに胸を撫でおろしたところに双葉がおかしなことを言い出した。
もちろん双葉の言う通り愛理は本気で相手をしていなかった。しかしそれは最初の数球の話しで、途中からは本気も本気であった。
初心者だからお相手が打ち返しやすいように返球していたつもりが、反対に愛理が終始夏希に気を遣われていた。あきらかに手加減された上でだ。
「ぇ、ええ。そうよ!」
なんてことを言うのかと双葉に抗議したい思いだった。
けれど見栄っ張りで乗せられやすい愛理はそう答えてしまっていた。
「さあ愛理。浜那美中テニス部の本当の実力を香月に見せつけてやって」
「やってやろうじゃない! 本気でかかってきなさい夏希!」
ネット越しに夏希に向けてラケットを突きつけ愛理はそう宣言してしまった。
勢い任せに言ってしまい後には引き返せない愛理は踵を返し下がっていきサーブの構えをとる。どうやら試合形式で行うようだ。
一方の夏希は勝手に話が進んでしまいどうしたものか悩んでいた。
正直愛理のレベルであれば夏希はあっさり勝てるだろう。でも勝ってしまっていいのだろうか。これをきっかけに遺恨が残らないか心配でならない。
「香月」
どうしたものかオロオロしている夏希をコートの外にいる双葉が手招きする。
「愛理はね一年生の中で一番上手い。それでいて調子に乗るとめんどくさい子になる。だからここいらでお灸を据えてほしい。本気で倒しにいって」
「う、うーん。さっきのはたまたまで、わたしもそこまで上手ったほどでは」
「さっきの見てて少なくとも愛理よりは確実に強いから大丈夫」
「ちょっとあんたたち! いつまで話してるのよ!」
サーブの構えをとって待つ愛理がしびれを切らし、こそこそ内緒話をする二人に叫ぶ。
「じゃあ香月。お願いね」
「ええ…」
背中を押され夏希はコートに戻されてしまった。
「ふぅ。はっ!」
愛理は深呼吸をして集中したあとボールを上に投げた。そして放たれたサーブはしっかりと夏希側のサービスコート内を捉えていた。
「おお。ちゃんとサーブが入ったところはじめて見たかも」
夏希の背後から双葉が驚きの声をあげていた。サーブを打った本人も入るとは思っていなかったのか愛理も意外そうな顔をしていた。
その愛理の渾身のサーブを夏希は難なくリターンする。逆サイドががら空きだったので、そちらを狙えば勝負はついていたかもしれないが愛理がギリギリ返せそうな位置を狙って返した。
先ほどのラリーでは愛理に打ちやすい返球していても危うかった。なので夏希が決めにいくのではなく、ラリーを続けつつ愛理からミスをしてもらって勝つことにした。
ところが困ったことに夏希の予想を上回り愛理がくらいついてくる。
いっそこちらからアウトになるように打とうかとも夏希は考えたが、愛理から鬼気迫るものを感じたのでやめた。ワザと負けたと分かれば後が怖そうだ
「夏希! あんたまだ手加減してるわね!」
「いや、えっと。その。そんなことないよ?」
「いいから本気で来なさい!」
「そうそう。さっさととどめを刺して、愛理を楽にしてあげるべき」
「う、うん。わかった。そういうことなら」
早くミスして欲しいという夏希の思いからコートを左右に走らせていた愛理は息切れをしていた。
それでも負けまいと愛理は必死にボールを追いかける。それがパターン化していたこともありボールを返すと同時に愛理は反対側に走ろうとしていた。
ご本人からも本気で来いと言われたので夏希は遠慮なくその隙をついた。
愛理の予想に反し走り出した方向とは逆の方向にボールは返ってきた。すぐに愛理は走り出していた足を停め切り返す、いまにも隣を通り抜けそうなボールに向けラケットを持った腕を伸ばす。
なんとか寸の所でラケットに当たったボールは山なりに夏希のいるコートへと帰っていく。
その行方を追う先で愛理が目にしたのは、ボールの落下地点でラケットを担ぐように構えた夏希の姿だった。
おかげさまで1周年を迎えることができました。




