あれは間違いなく初恋の瞬間だ(違う)
更衣室に着くと夏希は空いているボックスに無造作にカバンを押し込んた。
締め切られた更衣室は蒸し暑く、ここまで走って来たこともあり汗が浮かぶ。せめて換気ができればいいのだが窓は覗きを防止するためか高い位置にあり夏希の背では届かない。
よしんば壁際のボックスをよじ登れば夏希でも開けられるかもしれないが窓側のボックスは2年生、つまり上級生が使用しているのでなんとなく近づき難い。
女子更衣室なので入り口を開けて着替えるわけにもいかない。夏希は諦めてさっさと着替えることにした。
シャツのボタンを外し始めたところに冬里が追い付いてきた。
「むっふっふー! なっちゃん捕まえたぞう!」
「いや! 暑いから離れて!」
冬里は他の人にはそうでもないのに、夏希に対してやたらスキンシップが多い。
正直可愛らしい女の子の冬里に抱き着かれ悪い気はしない夏希だが、それも時と場合による。いまはニヤニヤした冬里の顔が夏希は非常にうっとうしかった。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいんだぞお。みんな経験することなんだから!」
「なにが」
「ほれほれ。恥ずかしがらずにどこが好きになったのか、お姉ちゃんに言ってみなよ!」
「だからなんのこと」
夏希にら冬里がなにを言っているのか、見当もつかない。それよりも暑苦しいので夏希は早く離してほしい。
ジタバタ暴れるも一向に冬里の腕の力が弱まる気配はない。毎度のことながら中一女子にすら力負けしてしまう己の非力さが夏希は嘆かわしかった。
「チカミンだよ。チカミン! どこを好きになったの? やっぱり顔かな。あれ? でもなっちゃんとチカミンに接点なんてあったけ? はっ! これが一目惚れってやつか! あんのヤロー、私のなっちゃんにまで手を出すとは、タダじゃおかねえぜ」
「なに言って。イタッ」
「おっとごめん」
どこを好きになった? 一目惚れ?
冬里が一体何のことを言っているのか夏希にはさっぱり理解ができなかった。
ただ話の途中から夏希を締め付ける腕の力が徐々に強くなり痛みを訴える。
「でも。でもね。それがなっちゃんが決めたことならお姉ちゃんは全力で応援するよ!」
「だからあれは冬里の勘違いだからね!」
「さあさあさあ! お姉ちゃんになんでも相談するといいさ! もう部活なんか行くのやめ、へぶっ!」
夏希の肩を掴んで真剣に見つめる冬里に、飛んできた体操服の入ったバッグを顔面に受けて話しが中断した。
「こーら! なにやってんのよ。てか相談もなにもあんた、そもそも恋愛経験ないでしょーが」
冬里の手から逃れた夏希はまた捕まらないように、カバンを投げた栞の後ろに隠れて冬里から距離をとった。
「なにするんだよ。しおりん!」
「それはこっちのセリフだよ。心配だから先に行くから荷物お願いって言っておいて、なんで夏希ちゃんに意地悪してるのよ」
「意地悪してるわけじゃないし! これはお姉ちゃんとしてだね」
「姉としてって言うなら、なおさら見守ってやりなさい。もしかしたらこういった経験が初めてで戸惑ってるのかもしれないでしょ」
最後の方は夏希には聞こえないくらいのそっとした声量で冬里に耳打ちする。
先程の教室での夏希をみて栞は確信していることがあった。
ぼうっと相手を見つめ外部からの呼びかけにも反応しない。指摘されて初めて自分の感情に気付いたようなあの初心な反応。
あれは間違いなく夏希の初恋の瞬間だ。
これまで学校に通えず床に臥せていた病弱美少女が復学し、学年一のイケメン男子と出会い一目惚れをする。
はじめは自分の感情に戸惑いつつも、出逢いを重ねていき会話するうちに徐々に惹かれ合う二人。そして最後は放課後の教室で二人は思いの丈やその他色々ぶつけ合い。
とまあ、すべては栞の勝手な妄想である。
だがこれまで読んできた少女漫画で何度も同じようなシチュエーションを見てきた栞には間違いないと断言できる。
あとは栞が友達ポジションに就いて、隣でさりげなくフォローをしつつ甘酸っぱい青春の行く末を見守るだけ。
栞の理想とする導入は恋と理解できず自分の気持ちに戸惑い、まずは相手に素っ気ないツンツンした態度をとって欲しい。その方が後々恋と気付いたときの反応が楽しいから。
だからこそ、ここで夏希にはまだ恋と自覚させてはいけないのだ。
「ほら夏希ちゃんもなにか言ってやりなさい」
なんだか勘違いは正されてはいない気がしてならない夏希だったが、ひとまずこの場が収まるならなんだっていい。
これ以上この話題を続けさせないために冬里にだけ効く言葉を夏希は口にした。
「イジワルするおねえちゃんなんて大っ嫌い。もう口きいてあげないんだから」
「ぐはぁっ!」
その言葉を聞いた冬里は膝から崩れ落ちる。
「う、うそだよね。なっちゃんはいい子だからお姉ちゃんにそんなヒドイことしないよね。ね?」
「ふんっ」
「ごめん! もう聞かないし言わないから! だから喋ってよ! なっちゃんと会話できないなんて、もう私生きていけないよぉ!」
そっぽ向いて返事をしてくれない夏希をまえに、冬里はその足にしがみついて許しを請う。
しかし何度謝っても許してくれる気配のない、がんと口を開かない夏希に冬里は最後の賭けに出た。
「帰ったら生チョコあげるからー!」
なにを言っても反応をしなかった夏希からほんの少し反応が返ってきた。
これはいける。そう確信した冬里は畳みかけるように続けた。
「しかもただの生チョコではござらん。用意しているのはローイズのお高めの生チョコでございまする」
焦る冬里の反応がおもしろかったので黙って傍から眺めていた栞にも、冬里の言葉にだんだんと揺らいでいく夏希が見て取れた。
「わたしはああいった冗談がきらいです」
ひとつのため息のあとに夏希が口を開いた。
「はい!」
「次やったら一日中口きかないからね。わかった」
「うん。絶対しないよ!」
夏希が喋ってくれたことが嬉しくて、冬里は顔をほころばせて何度もうなずき返す。
本当に分かっているのか気になるところだが、一旦これぐらいにしておこうと思う。
なによりこの後に控えている体験入部に冬里が必要だ。何事にも物怖じせずガンガン行ってくれる冬里は前衛としては頼もしい。夏希はその後ろに隠れていればいいのだから。
現役中学生として。はたまた女子として夏希のレベルが上がるまではサポートしてほしい限りだ。
「妹のご機嫌取りも大変そうだね。お姉ちゃん」
「でもそれがいい!」
「うわっ。重症だ。こりゃ」
背後で着替え始めた二人の会話はとても心外だったが、生チョコのためと思えば安いものだ。
体操服に着替え終え更衣室から出るころには、くだらないやり取りをしていたせいで放課後になってから、もうずいぶんと時間が経過していた。
時計を見てさすがに焦ったのが栞はあわてて走って体育館へと向かっていった。
栞と分かれた夏希たちは玄関のロッカーで上履きから運動靴に履き替えているところだった。
よく考えると転校した日には持ってきた覚えもないのにロッカーに上靴やらが揃っていた。身の回りのものはすべて青葉が調達していたので、こちらも前もって準備してくれていたのだろう。
「ねえ。靴を履き替えてるってことは陸上部かテニス部だと思うけどどっちに行くつもりなの?」
まだグラウンドで行う体育の授業を夏希は受けたことがない。そのため運動靴に履き替えるのは今回が初めてになる。
男の時は靴など一足あれば充分だったのに、香月家の玄関には夏希用に何足も新品の靴が準備されていた。青葉によるとその日着る服によって履き替えるためらしい。なんとも贅沢なことだ。
「まだ決めてない!」
「えぇ。ここまできといて?」
人の足元など気にしていなかったから気付かなかったが、夏希とはちがい通学も運動する際も冬里は同じスニーカーのようだった。
やはり夏希は青葉の着せ替え人形にされている感が否めなかった。
けれどせっかく自分のために用意してくれた、過剰と思えるクローゼットの衣服は一度くらいは袖を通しておこうと夏希は思っている。
これは青葉のためではなく服が可哀想だからだ。サイズ的に冬里に譲ることもできないのでこればかりは仕方がなかった。
それと成長して新たな服が必要となったら夏希自ら選ぼうと決めている。
ファッションセンスは皆無なのでアドバイザー程度で留めるのであれば、仕方がないので青葉にも選ばしてやらないこともないと思っている。
「じゃあさ。今日はテニス部にしない?」
「もちろんいいよ! だってなっちゃんの体験入部だもん!」
どうやら夏希のための体験入部だということを冬里はちゃんと覚えていたようだ。
授業が終わると、今日は海の気分だからカヌー部行こうと言ったり。
でっかい楽器が私に吹けと呼んでいる。そう言って音楽室に突入していった同じ人物の発言とは思えなかった。
「なっちゃんが自分から行きたいなんて言うの珍しいね!」
「うん。だってこれまでは冬里が決めてたし」
「はっ! も、もしかしてテニス部に入部するつもりなんじゃないよね!?」
「それはこれから行ってみて決めることだね」
「ダメダメ! なっちゃんはバスケ部に入るんだからね!」
ダメというなら体験入部に付き合わなければいいのに。そうすれば夏希は冬里のいるバスケットボール部に必然的に入部しているはずだ。
卸したての靴のひもを結びなおしながら肩を揺さぶられる夏希はそう思った。
「ちなみに冬里はなんでバスケ部に入部したの?」
「ふふん。実はね。体験入部のときにね旗田先生に、お前には十年に一人の逸材だって勧誘されたんだ!」
「あ、そう」
夏希にはなんだか聞き覚えのあるワードだった。体験入部に行ったあとから校内でバスケットボール部の顧問の旗田に出会うと、いま冬里が言ったセリフをよく聞くのだ。
放ったシュートの大半がゴールに届かない夏希のどこに才能を見出したのか甚だ疑問だったが、この分だと体験入部にきた生徒全員に言っているのではないだろうか。
「あー! その反応疑ってるなあ!」
「ううん。信じてるよ」
このことは自慢げに胸を張る冬里には黙っておくことにした。
それにきっと十年に一人の逸材の可能性はこれから冬里の努力次第で証明されることだろう。
「それより早く行こう。部活始まってもう結構時間たってるし」
「おっし! テニスコートまで競争だ。よーい、スタート!」
「いや、わたしゴールの場所知らないんだけど」
いつも通り突然走り出す冬里の後を追い駆け夏希も走り出した。
特別教室からグラウンドを見ることはあったが、グランドに足を踏み入れるのは今日が初めてだった。
グラウンドへ続く階段を夏希が駆け上がると、先に行った冬里はすでにトラックの中ほどまで進んでいた。おそらく冬里が進む先がテニスコートのようだ。
スタートに差があったとはいえ離されてしまった。いまから全力で追っても追いつけないだろうと諦める。
全く子供はすぐに走り出すし勝負ごとにしたがるから困ったものだと、自身の見た目は棚に置いて夏希は肩をすくめた。
小走りで走る夏希は初めてくるはずのグラウンドに懐かしく感じ眺める。特別なものがあるわけではない普通のグラウンド。
掛け声を出して部活動に取り組むのは、聞いていた通り野球部とサッカー部のようだ。
学校で制服を着て教室で授業を受ける。懐かしくもあり不思議な感覚だった。けれど着ている制服は女子生徒のもの。揺れるスカートからどうしても意識してしまう。
だからこれらは初めての出来事でもあった。
ここ浜那美中学校は、以前夏希が通っていた中学校と同じく体操服のデザインは男女同じだった。
こうして性別を意識しない体操服を着て学校のグラウンドを走っていると、男子生徒として過ごした朧げな当時の記憶が蘇るようだった。
あの何気ない日常がいまでは狂おしいほど懐かしく思えてくる。
こうして夏希はここに戻ってきているのに、あの頃隣に居た友達は誰ひとりもここにはいない。それが少し寂しかった。




