視力がいいデメリット
昨日とは違い夏希は余裕をもって教室まで来ることができた。
約束通り冬里と手をつないで夏希は学校まで登校した。香月家を出てすぐは人気がなかったが浜那美町までくると人と出会う場面もあり、すれ違いざまに笑われているのではないかと恥ずかしくなり夏希は手を離そうとしたが冬里は頑なに手を離してはくれなかった。
やっと手を離してもらえたのは学校につき上履きに履き替えるときだ。
そこまで学校の敷地内でも手をつないでいたので、クラスメートに見られていないことを夏希は祈った。
夏希たちが一組の教室に入ると黒板に貼られた一枚のプリントの前にクラスメートたちが集まり盛り上がっているところだった。
「おー! でてるでてる!」
冬里はそのプリントを見るため黒板目指して生徒たちをかき分けるように進んでいった。
基本的に人混みは嫌いで避ける傾向にある夏希は、みんなが何を見ているのか気にはなったがあの中に混ざる気にはなれなかったので自分の席に向かった。
しかしだからといって彼らが見ている一枚のプリントが気にならないわけではないのだ。
いまの夏希は人が多いところは嫌いになってしまったが、それでもイベント事には敏感なのだ。
昔自分がこの世界の主役だと勘違いしていたころ。イベントごとがあればその中心にいるのは自分なのだと思っていた。有象無象に埋もれずキラキラした場所に立つのが当たり前だと考えていた。
幸いにもこれを実現する行動力と能力が昔の夏希にはあった。
けれどそれは過去の話。いまはこうして有象無象を構成する一部になり遠くから眺めることしか出来ない。
またあの場所に行きたいという気持ちはあれど、もう自らが行動することはない。失敗することはわかっているから惨めな自分を見たくないから感情を押し込めてきた。
それでもやっぱりワクワクした雰囲気が好きなのは変わらない。
だからこうして離れたところから聞き耳を立てて輪の中に入っている気分を味わう。
夏希はカバンを下ろしながらクラスメートたちから聞こえてきた情報をまとめると、どうやら席替えが行われ新しい席順が黒板に張り出されているらしい。
その話を聞いて昨日の帰りのホームルームの際に担任の桃山由香が班長を募っていたことを夏希は思い出した。
もちろん夏希は立候補しなかった。
部活に向かう前に冬里が夏希らを同じ班にするようにと、班長に立候補していた栞に言っていた。
あれ以降話題にもあがらなかったので夏希はすっかりと忘れていた。想像するに冬里がああ言っていたということは班長が好きな班員を決めることができるのだろう。
夏希と仲がいいのは冬里と栞の二人だ。これまでの経験上こういったイベントで夏希は余り物になる。その夏希を栞が狙ってくれているのであれば憂うことはない。あとは座して待てばいい。
「おはよう。栞さん」
「あ、おはよう」
夏希は席に座らずその足で栞の所へ向かった。
自分に不都合がある場合はいつも最悪のケースを思い浮かべてひとり不安になってしまうので、不安を払拭するために本人に確認することにしたのだ。
「今日は早いんだね」
「え? うん。どちらかというと昨日が遅かっただけだよ」
「ああ、そっか。そうだよね。ははは」
話しかけると返事は返してくれるものの、から笑いする栞はけっして夏希と目を合わそうとしない。
ここまで露骨だと夏希も気が付いてしまう。お互い語尾は小さくなりそれ以上の会話が途切れる。
「あの。班のことなんだけど」
真相を確かめようと夏希が口を開いた。夏希の言葉に栞はびくりと肩を揺らす。
「ちょぉっと、しおりん! これはどういう事なのかな!?」
「ええ? なんのことかな」
「なんで私たちとなっちゃんが別々の班になっているの!」
夏希が言い終える前に冬里が割って入る。その内容は夏希が思っていた通りの内容だった。
問いかけにとぼける栞に証拠とばかりに冬里は黒板から取ってきた席順の書かれたプリントを机に叩きつけた。
冬里がみんなが見ていた一枚しかないプリントを持って来てしまったので、クラスメートたちから批難されないものか夏希はひやひやした。
心配した夏希が黒板の方に目を向けると、たむろっていた生徒たちはプリントが無くなったことを特に気にしていないようであった。
黒板周辺にいた生徒たちはすでに自分たちの新しい席の確認は終えて、それを話題にしてただ駄弁っていただけなので何事もなく話を続けていた。
プリントを独占している状態に誰も何も言ってこないことに安心し、夏希は冬里が持ってきたプリントから自分の新しい席を確認した。
机を模した四角の中に生徒の名前が書かれており、さらに班を表すよう五、六人を囲むように太い線で囲われている。
前方を黒板側に一から三班が六人二列ずつ並びその後ろに四、五班の五人が三列になる配置で書かれている。
夏希は五班で冬里と栞は三班。三班の後ろに五班が来るので二人とは比較的近くの席ではある。
「しおりん! 約束と違うじゃん!」
「ごめん!」
詰め寄る冬里に栞は手を合わせて謝る。
「でも冬里聞いて! これは私のせいじゃないんだよ!」
「ほほう。でわ聞こうじゃないかその理由とやらを。私と離れ離れになって不安で震えてる可哀想な、なっちゃんを納得させられる説明をね!」
「いや、震えてないからね」
たしかに仲のいい冬里たちと別の班になって夏希は残念ではあるが不安ではない。
夏希はここにいる生徒たちよりも倍以上も生きているのだ。これまでにだって望まない結果を数多く経験してきた。たかが班が違う程度で狼狽えるほどではない。
ちなみに夏希が冬里に身体を寄せているのは不安からではなくて、夏希が立っていたところにあとから冬里が隣に来たからだ。別の班と聞いてから冬里のシャツの裾を夏希が握っているのもただの偶然なのだ。でも決して震えてはないと夏希は断言できる。
「すべて悪いのは沖田なの!」
とぼけるのをやめた栞は今回の元凶たる沖田武豊の所業を冬里に説明する。
その話を聞く冬里は見る見る表情を変えていき、鬼のような形相を浮かべ走り出した。
「ターケーちゃーん。このやろー!」
「ぬおっ!」
教室で裏の方で友達たちと談笑していた武豊の背中に冬里のドロップキックが炸裂する。その加減を一切感じられない全力のドロップキックに夏希は驚き目を剥いた。
一方のドロップキックを喰らった武豊は前のめりに倒れ、床に倒れ伏せた武豊の背中を冬里がぐりぐりと踏みつけ問いかける。
「おい、タケちゃん。私に何か言うことなーい?」
「あのすいません…。冬里さま。いったい何のことでしょうか」
「私が言わなくても分かってるでしょ?」
「今日の髪型似合ってるよ?」
「ありがとう。でも違う。今回の班替えのことだよ」
「普通に班長になって班決めしただけでございます。なぜわたくしめがこのような仕打ちを受けておるのか検討もつきません。あと足どけて」
「退けてほしければ、なぜなっちゃんを私たちの班から奪ったのか正直に話したまえよ。ん?」
「俺も夏希ちゃんと仲良くなりたかったんだあ!」
「ギルティッ!」
冬里は夏希と一緒の班になるのを楽しみにしていた。それを邪魔した武豊の白状した理由を聞いた冬里はその背中を再度両足で踏み抜こうとジャンプした。さすがにヤバいと思った春樹が寸前で止めに入ったので大事には至らなかった。
なかなか滅茶苦茶なことをしている冬里だったが、周りの生徒ら特に女子からは武豊に対して心配する声ではなく非難する声が多く聞こえてきた。
「はいはーい。みんなお願いだから静かに座ってくださーい」
朝のホームルームのため教室にやって来た桃山は手を叩いて注目を集め、生徒たちにおとなしく席に座るように促した。
「あとできっちり説明してもらうからね!」
「へい」
自身を踏んでいた冬里が席に帰っていったことで、立ち上がることができた武豊は床で汚れた制服のズボンの埃を払い立ち上がると、何事もなかったかのように桃山に話しかける。
「ユウカちゃん早く席移動しようぜ!」
「先生ことは桃山先生と呼びなさい。でもそうね。ホームルームを始める前に席替えしましょうか。みんなもう新しい席は確認してると思うから机の荷物を持って移動してください」
桃山の号令で一年一組の生徒たちは机の中の教科書類とカバンを持って各々の新しい席へと移動する準備を始めた。
このクラスでは三度目の席替えになるため、慣れた生徒たちはすぐに移動を始める。夏希も周りに習い一拍遅れて机の中に入れていた荷物を取り出し始めた。
夏希の新たな席は教室の窓際一番後ろ。喜ばしい位置取りであるはずなのに隣の席に冬里がいなくなっただけで心細かった。そして代わりに隣に来たのが。
「よろしく!」
「あ、うん。よろしくお願いします」
「硬いよ夏希ちゃん! もっとフレンドリーに接していいよ。そんで俺のことはタケくんって呼んで!」
「あはは。考えておくね」
「コラ沖田! 夏希ちゃん嫌がってるでしょ!」
武豊から二つ前の席に座る栞が夏希たちの方を振り向き話に割って入る。
「おい。ホームルーム中だぞ花村。前向け、前。それに嫌がってないだろ。ねー、夏希ちゃん」
「あんたもホームルーム中なんだから喋るのやめて先生の話聞きなさいよ」
誠に遺憾ながら武豊の言う通りいまはまだホームルームの途中である。担任の桃山が今朝の連絡事項を伝えているのだが、その話を聞いている生徒はごく少数だった。
心機一転。新しい席に変わったことで生徒たちは皆少なからず高揚しており桃山の話しどそっちのけでヒソヒソと近くの席の子と話をしている。
桃山ももう諦めているのか声を張りあげているものの注意することはなかった。
「おまえら静かにしろって。てか人を挟んでケンカすんな」
言い合いを続ける栞と武豊に挟まれる形の春樹がうんざりといった風に止め入る。
「ケンカじゃないよ。てか香月くんも止めてあげてよ。アイツに絡まれてる夏希ちゃんが可哀想でしょ」
「おい、察しろよ春樹。花村は俺が夏希ちゃんと話してるのに妬いてんだよ」
「はぁ。キモっ」
ゴミを見るような目で武豊を見る栞の表情はおおよそ年若い女の子がしていい顔ではなかった。その顔を目撃した春樹は言葉を失う。
「夏希ちゃん聞いてよ。小学校の時から花村は事あるごとに俺に突っかかってくるんだよ。まああれだ。花村は所謂かまってちゃんってヤツだ」
「ええーっと」
身体を真横の夏希の方向に向けているのと、春樹に隠れて栞が見えていない武豊は気付くことなく言葉を続けた。
こぶしを握り締めて殴りかかりろうとする栞を春樹が宥め押し留めている姿を視界に納めている夏希は返す言葉が見つからなかった。
「しおりん。タケちゃんの言う通りいまホームルーム中だから静かにしないと」
「でも冬里!」
まさかホームルーム前に武豊に殺意マシマシで襲い掛かっていた冬里からストップが入るとは思わず栞は戸惑う。
「あとでゆっくりお話しを聞こうよ。ね、タケちゃん。あと昼休み体育館裏だから」
「ナニソレコワイ」
無邪気な笑顔で首を切る物騒なジェスチャーをする冬里にお話ししようと、女子に体育館裏に呼び出しを受けたのに武豊はうすら寒さを感じた。
「あ、そうそう。五里くん」
「おう。どうした?」
「たしか五里くんて目が良かったよね」
「ん? 悪くはないがいいって訳でもないが」
「黒板さ。目が良いとよく見えて逆に見づらくない? 見ずらいよね。ね?」
「あー、うん。そうだな。見えずらい。うん。見えづらいぞ」
「だよねー! だったら席いっこウラに行った方がいいんじゃない?」
「うんうん。そうしよう。ちょうど俺もそう思っていたところだった。すまない香月さん。黒板がよく見えすぎて困っているので席を変わってもらえないだろうか」
「ちょっと待てやゴリラ! 黒板見えないから席変わっては分かるが、見えすぎるから変わっては訳わからん!」
五里清良は一年生きっての大柄な男子生徒だ。野球部員からは名前から取ってゴリラとあだ名で呼ばれている。ちなみに視力は1.0だ。
少々窮屈そうに座る恰幅の良い五里が前の席だと背の低い夏希は正面は見えにくい。というより見えない。現になにやら変な理屈を述べている冬里は五里の身体に隠れていて、二人がどんなやりとりをしているか全く見えていなかった。
「身勝手で申し訳ないがいいだろうか?」
「ううん。なんかむしろ巻き込んでごめんなさい」
冬里から圧力に屈した五里は後ろの夏希を振り向くと席を交換して欲しいと頭を下げてきた。
夏希としては冬里たちと席が近くなりありがたいが、巻き込まれただけの五里が不憫で申し訳なく夏希は謝罪もこめて頭を下げた。




