人生を変えたメッセージ
午前六時五十分。スマートフォンからアラームの電子音がワンルームの部屋に鳴り響く。
うるさいアラームを画面をタップして停止する。気怠げに起き上がるとスマートフォンのロックを解除し、万が一にも遅刻しないために念のため設定していた予備のアラームを解除していく。
ベッドから這い出すと見るわけでもなくテレビをつける。もう九月も終わろうかというのに外からはセミの鳴き声が忙しなく聞こえてきた。部屋の中は少し寒く感じクーラーの温度を少し上げた。
ニュースの占いが読み上げられるのを聞き流し、冷蔵庫からゼリー飲料を取り出してキャップを開け摂取する。あいた手で前日の仕事帰りに買っておいた菓子パンを取り出してレンジで温める。
ゼリー飲料を飲み終わったところでレンジのチャイムが鳴り温まった菓子パンを取り出す。
椅子に座りパンを食べはじめた。いつもならソーシャルゲームのデイリークエストを進めるのだが、今日はやけに身体が怠くやる気が起きなかった。まあいい昼休憩に操作すればスタミナが溢れることはない。
テレビから聞こえてくる興味のひかれるニュースもやっていないのでSNSをチェックする。
ゲームの情報やイラストが流し見ていく。基本的に文字だけの投稿は注目されていないものはスルーする。こちらも特に真新しい情報はなかった。アプリを閉じようとしたらダイレクトメッセージが届いていることを知らせる赤いマークが目に入った。
どうせ詐欺まがいのダイレクトメッセージなのだと分かっていても、ひっそりと期待している自分がいるのが嫌になる。わざわざ自分宛てにメッセージ送ってくる人がいるはずもないのに。
そもそもこれは趣味アカウントでこの存在を知っている知人はいない。それに基本的にロム専なので、送られてくるダイレクトメッセージは百パーセントの確率でスパムだ。
だというのにダイレクトメッセージのマークを少しだけ期待してタップする。
表示された画面には案の定スパムメッセージであった。
『○○歳。さみしい。今からお会いしませんか。』
これが仮に本当であって、返信したら相手から来てくれるのだろうか。こちらは今から仕事だというのに、それに仕事が終わってもどこかに行く気になどなれない。すぐに帰宅して明日に備えなければならないのだから。
当然返事はもちろんメッセージを開くことすらなく削除した。
するともう一件のダイレクトメッセージが表示された。
めずらしいことに本日は二件も届いていたようだ。こういったスパムは数日ごとに届くが二件続けて着たのは初めてのことだった。
『人生をやり直してみませんか?』
これまでのスパムとは異なる文句が書かれていた。抽象的すぎて先ほどのスパムより引っかかる人は少ないのではと疑問に思ってしまった。
しかし今考えたことが相手の目的なのかもしれない。手を止めて興味を持ってもらう。商品を売り出すうえでそれが重要だと、いつかテレビで見たどこぞの企業の人が自慢げにしゃべっていた。
まんまと自分はその手法にハマり、手を止めてしまったわけだ。
人生をやり直せたら。
何度も考えたことがある。過去に戻ることなどできるはずがないのに、それなのに惨めにも考えてしまう。何度シミュレーションしたことか。少し昔までは、あの時あの場所でああしていたら人生が変わっていたかもと思いを馳せることがよくあった。もっぱら最近は宝くじの当選番号を控えて過去に戻り、将来の不安など抱かずに悠々自適に暮らす妄想がほとんどだが。
なんとなくそのスパムメッセージをタップして開いてしまった。
内容は先ほどの表示されていた『人生をやり直してみませんか?』の文字とURLだけであった。
こういった怪しいURLは絶対にアクセスしてはいけないことは知っていたが、まだ寝起きで起き切っていない思考と朝食の間の暇つぶしがなかったことも相まってURLをタップしてしまっていた。
しまったと思うと同時に、こういったサイトがどうなっているのか気になってしまった。飛んだ先のウェブサイトにはいくつかの質問が書かれていた。
Q1.あなたは人生をやり直してみたいと思いますか?
回答ははいかいいえの二つ。
はいと回答した。
Q2.いまの人生に心残りはありませんか?
こちらもはいかいいえの二択。
はいと回答した。
Q3.人生をやり直すならどのタイミングですか?
・生まれた瞬間 ・幼稚園/保育園 ・小学生 ・中学生 ・高校生 ・その他
考えた。生まれた瞬間とは転生ものにあるおぎゃあと産声を上げた瞬間からいまの思考のままやり直すのだろうか。喋れない動けない何もできない期間が数年も続くなどぞっとした。保育園。これもない。小学生は人生の中でも充実していたと思うけれど、やり直せと言われたら頷きがたい。
中学生。この頃がちょうどいいかもしれない。行動範囲も広がり、携帯電話も買ってもらえていたし、自由がきいた記憶がある。
中学生を選択した。
Q4.最後の質問です。あなたは本当に人生をやり直してもかまわないのですね?
はいかいいえの二択。
はいと回答した。
『ご回答ありがとうございます。あなたの人生をやり直すためのお手伝いをするため。当方からの会いに伺います。自宅の住所もしくは指定された場所に伺います。下記に指定する住所を入力してください。またご都合のよろしい日時を選択してください』
ほらきた。
結局いま回答したアンケートに意味はなく住所を聞き出すのが目的だったのだろう。ここでサイトを閉じるのは簡単だ。しかし貴重な朝の時間を取られたのだ、ただで帰るのはムカついた。なので自宅と職場の間にある公園を指定した。日付は本日。時間もちょうど公園を通りかかるであろう時間を指定する。
偶然通りかかったふりをして、こんな無駄なことをさせた犯人の顔でも拝んでやろう。もっとも来るのは下っ端ですらない使い捨ての人物なのだろうけど。
お申し込みありがとうございます。報酬につきましては月50万。衣食住補償あり。各種契約内容に関しましては現場でご確認ください。
情報を送信後文章が表示された。報酬が記載されているだけで仕事の内容は一切書かれていない。この訳の分からないやりとりがSNSの闇バイトの勧誘と申し込み方法なのか。
本当に金銭に困り後がない人だけを誘い込むための仕様。そう考えるとスパムのメッセージ内容も合点がいく。URLを踏んだ先の質問内容は意味が不明だったが、あれもイタズラや冷やかしを減らす方法だったのかも知れない。
なんの感慨もわかないまますぐにサイトを閉じて、食べ終わったパンの包装をゴミ箱に捨ててスーツに着替える。歯磨きする時間がなくなったのでマウスウォッシュで口をゆすぎ出掛けた。
つつがなく午前の業務を終え昼休憩の時間になり、昼食にラーメンを食べに出てきた。
注文したラーメンが届くまでの間に、朝にやり過ごしたソーシャルゲームのデイリークエストを消化する。ランダムから選ばれるデイリークエストだが運悪く総じて時間がかかる面倒なクエストだった。注文したラーメンが出来上がるまでの時間を逆算した結果、すべて終わらないと判断。スタミナだけ消費して帰宅後に持ち越すことに決めた。
スタミナ消費後、注文時にネギ抜きと言い忘れたのに気付き店員に伝えようと声を上げようとしたが、一歩遅くラーメンが届いてしまった。今更ネギを抜いてとも言い出せず受け取ってしまった。べつにネギがアレルギーということはない味と食感が嫌いなだけ。ネギを避けて食べるのに時間がかかったのでいつもより昼休憩の残り時間が減ってしまった。
ああ、なんか運が悪いな。
仕事を終えて帰宅するころには暗くなっていた。
人手が足りないのでこの時間まで残るのは茶飯事だ。もう慣れてしまったが最初のころは辛かった。年間休日が少ないうえに、退勤時間を超過しての勤務。改めて思い返せば最悪な労働環境だ。幸い時間外手当はつくのでその点はこのご時世恵まれていると見るか。まあ他の職業として比べていてはキリがない。
きっと自分は嫌だ辞めたいと思いながら、ズルズルと定年までいまの仕事で働き続けることだろう。転職など調べようとも思わない。いまから転職して人間関係をリセットし一からやり直すなんて考えられない。やっとのこと覚えてきた仕事内容もまた覚え直さなければならないと思うとなおさらだ。
そんな事を考えながら自転車を漕いでいたら公園が目に入った。
そして今朝の出来事を思い出す。
家を出た頃にはもうすっかり忘れていた。この公園にスパムメッセージを送ってきた詐欺師を誘きだす場所に指定したのだった。
歩道に自転車を留めて公園に足を踏み入れた。
公園の中は薄暗い明かりで照らされていた。何度も前を通りかかったことはあったが、こうして中に入ったのはこれが初めてだ。公園は広く遊具も多く設置されていた。あと今時珍しく野球ができる公園だ。土曜日に通りかかると少年野球の練習をしている子供を見かけることがある。
物珍しいそうに見回してしまったが、いまは偶然通りかかった設定なのだ。きょろきょろ周囲に目配りしていては誰かを探していると勘違いされてしまうかもしれない。目的は今朝のスパムメッセージに返信した内容を信じて間抜けにもやってきた詐欺師の顔を見ることだった。間違えても厄介ごとに巻き込まれるのはごめん被る。
少し期待したが公園にはだれもいなかった。
スマホで時間を確認すると指定した時間を十数分過ぎた。もう帰ってしまったのだろうか。たった数十分も待てないなんて、なんとも気の短いやつだ。そもそも来ていなかったという線が濃厚かもしれないが。
数分の出来事であったが時間を無駄にした。早く帰ってご飯を食べて風呂に入り寝なければ明日に差し支える。もう自分も三十路だ若くない。寝ても疲れが取れないこともある。それにここ数年腰痛がする。長時間の座り仕事が祟ったのか、普段から姿勢が悪いからなのか。将来に不安しかない。
その場でため息をひとつつき、帰えろうと踵を返すと白衣を着た女性が立っていた。
「こんばんは。あなたが@nitton365さんかしら?」
冗談抜きで口から心臓が飛び出るかと思った。
振り返るとすぐ後ろに女性が立っていた。普通に怖かった。
「いいえ。違いますよ」
逆に驚きすぎて全くピクリとも身体が反応しなかったのが幸い、これなら自然に乗り切れる。
二重の意味で驚いていた。ひとつは夜の公園で白衣の女性が立っていた。二つ目は女性が口にしたのは今朝スパムメッセージが届き、それに返信したらアカウント名なのだ。
「そうでしたか。これは失礼しました。私はこの公園で今夜ある方と待ち合わせしていまして」
「そうなんですね。夜に女性の一人歩きは危ないので気を付けてください。では自分はこれで」
「はい。ご忠告ありがとうございます」
そう言って白衣の女性の横を通り過ぎ、自転車を回収し帰ろうを踏み出した。
ピコンピコンと電子音が続けざまに夜の静かな公園に響いた。鳴ったのは自分の胸ポケットにしまったスマホなのに、思わず振り返ってしまった。
振り返った先には白衣の女性がスマホを片手に立っていた。白衣の女性がそのスマホを操作すると再び胸ポケットからピコンと電子音が鳴った。
「なんだ。やっぱりあなたが@nitton365さんじゃないですか」
「あははは。そうみたいですね。自分のアカウント名なんて久しく見ていなかったので忘れていました。申し訳ない」
この会話の間も絶えずスマホから電子音が鳴り止まない。
一度や二度なら偶然と言えるがこうも連続してしまえば言い逃れできない。
@nitton365。アカウント名を考えるときいい名前が思いつかなくて、ふとテレビを見たらニット帽が映っていた。あとテレビの向こう壁にカレンダーが掛かっていたのが目に入ったのでこの名前になった。どうでもいい過去を思い出した。
「立ち話もなんですので、あちらのベンチに座りませんか?」
「そうですね。座りましょうか。さあどうぞレディースファーストです」
「いえいえ、お気になさらず。男女平等ですよ。お仕事帰りとお見受けします。遅くまでお疲れ様です。疲れているでしょう。さあ、お掛けになってください」
「そうですか。ではお言葉に甘えて」
この女性が座った途端に逃げ出そうかと考えていたのだがダメであった。自分が座ると女性もベンチに座り、逃がさないとばかりに足に手を置いてきた。夜になってもまだ暑さを感じるこの季節に、ひんやりとしたその手は気持ちよく感じた。試しに腰を上げようとしたら女性の手で抑えられて立ち上がれなかった。
これから自分はどうなってしまうのだろうか。このままゆすられるのだろうか。有り金で解決できるなら安いものだ。契約書にサインさせられ内臓を売られるのだろうか。
不安でお腹が痛くなってきた。ああ、早くおうちに帰りたい。
「さて@nitton365さん。本日申し込まれたお話は確かですか?」
「えーと。申し込んだ? なんのお話ってなんでしたっけ」
「今朝方に最終審査に回答していただいた『人生をやり直してみませんか?』というお話ですよ」
「ああ。その話ですか。自分ももう年みたいで最近物忘れが激しくて困ります」
「そうなんですか。お若く見えるのに。差し支えなければお年をお聞きしても」
「今年でもう三十一になります」
「あら。というとわたしとひとつ違いですね。来年には私もそうなると思うと気が重たくなります」
隣で笑う白衣の女性は三十歳ということが判明した。だから何だという話だ。心底どうでもいい情報だ。いますぐ走って逃げ出したい。
体格で優っているのだベンチから白衣の女性を突き落としてしまえば逃げられるかもしれない。けれど仲間がいないとは限らない。逃げ出してもすぐに捕まる可能性もある。乱暴を働いたらあとが怖い。
このまま話を続けるのが一番安全なのかもしれない。
「まずは突然の不躾な質問に回答いただきありがとうございます。多くの方が審査を通らず、諦めようかと思っていた矢先でした。そんな折に審査を通過してくれたのがあなたです」
見るからに怪しいスパムに応答したのは自分ひとりだったようだ。
ずいぶんと世間のネットの防犯意識は高いらしい。対して自分の防犯意識が低いことが判明した。これを糧に今後は注意しなければ。はたして今後があるだろうか。そもそも明日があるのかも現状わからない。
「おっと失礼。自己紹介がまだでしたね。私は香月青葉と申します。しがない研究者でして、私どもが開発を進めています新薬が治験の段階まで漕ぎ着けまして、ずっとモニターを募集していた限りなんです」
冗談だろうか。
治験。馴染みのない言葉だがSNSのダイレクトメッセージで募集するようなものじゃないことは知っている。
そもそもあの文章でモニター募集をしていたとはとても思えない。治験のちの字も見当たらなかった。研究者というもの本当なのか。物語で登場する研究者は頭のネジが数本外れていると描写されることがあるので、彼女もその類なのかもしれない。あれはフィクションではなかったのか。一つ賢くなった。
「モニターに募集を頂いたということは、そういう事でよろしいのですね」
「すいません。理解が追い付かないと言いますか。いまは何の話をされているのですか」
「『人生をやり直してみませんか?』。あのメッセージを読まれたうえで、あなたは今ここにいるのでしょう」
たしかに今ここにいる理由は愚かにも、自分は大丈夫と引き際は分かっていると過信し興味本位でスパムに答えてしまったからだ。
なんて愚かなことをしてしまったのだろうか。今こそ人生をやり直したいと思った。朝に戻って自分をぶん殴ってやりたい気持ちになった。
人生をやり直す。
もしかしたら隠語か何かなのだろうか。自分が知らないだけでネットでは有名な激ヤバワードなのかもしれない。
先ほど治験という言葉が出てきた。新しい脱法ドラックの実験ということかもしれない。なるほどそういう事か。人生をやり直したと体感できるようなトリップする薬。そんなもの摂取してはきっと無事では済まないだろう。
何としても逃げないと。幸いここの公園は四方を住宅が囲っている。大声を上げながら逃げて時間を稼げば、誰かが警察に連絡してくれるかもしれない。逃げようと腰を上げた。
「再度確認させていただきます。あなたは本当に人生をやり直したいですか?」
いまだ話の意図は掴めない。
けれどひとつわかっているのは白衣の女性。香月青葉が真剣そのものということ。
もういいのかもしれない。生きているのがしんどい。いままでのらりくらり生きてきた。出来ない自分が嫌で言い訳を見つけた。自分を正当化でき気分が楽になった。
やりたくない考えたくない。そうして逃げ出した。後悔したが言い訳をした。自分を正当化しでき気分が楽になった。
自分がなにをしたいのか分からなくなった。それなら人を追いかけたらいい真似したらいいと気付いた。失敗してもそいつの所為だ。これで言い訳はできるし、いざとなれば逃げればいい。
努力という言葉をはき違えていたかもしれない。泥沼に嵌って抜け出せなくなっていた。いや、きっと沈みきっていたのだろう。自分以外周りが何も見えていなかった。その結果が悪い方へ努力を続け、出来上がったのがいまの自分。
また逃げ出そうと上げた腰はベンチから離れることはなかった。
香月青葉に問いかけられてからどれくらいの時間が経過しただろうか。走馬灯のようによぎった、これまでのつまらない自分の人生。数時間のように感じた。けれど現実世界では数秒の出来事。
「はい」
そう返事をした自分の顔は笑っていただろうか。泣いていたのだろうか。
たった数秒で思い返された自分の人生をどう感じた?
充足感? 達成感? 後悔? 憎悪?
いや、諦め。だった。
「ありがとうございます。これで研究が大きく進むことでしょう。あなたの新しい人生に幸多からんことを」
そう香月青葉は返事を返した。
自然な動作で白衣から取り出されたのは大きな注射器。流れるようにキャップを外すと現れたのは太く鋭い針。注射器の中には蛍光色の液体。いやピンク色? 七色か。見る角度によって色を変える液体が注射器を満たしていた。
「あ。え、いや。やっぱ……。いまのなしっ、いっ!」
頚に一刺し。
静止もむなしく、見るからに人体には優しくない色をした液体が体内に注入されていく。
抵抗しようとしたがすぐに意識が遠のいていき。
途絶えた。