見てるだけでいい?
浜那美の案内は続き浜那美駅までやってきた。
駅の反対側には夏希たちの通う中学校がある。その学校の窓から駅舎の屋根と線路が見えるため夏希もそこに駅が存在することは知っていた。直線距離は近いのだが回り道をしないといけないためまだ行ったことはなかった。
和良川駅同様に特に中には用事はないのですぐに立ち去るはずだったが、冬里が構内の公衆トイレに走ったためそれを待つ少しの間だけ夏希は駅を見回った。
駅の正面にはロータリーがあるものの止まっている車はなく、歩いている人もいなかった。
こちらの浜那美駅は和良川駅とは違い駅員がいて、駅の中では地元の特産品を売る売店も併設されていた。
「おまたせー! なっちゃんは行かなくて大丈夫?」
「うーん。やっぱりわたしも行っておこうかな」
中学生の冬里にトイレを心配されることは遺憾であったが、数日前にやらかしたばかりの夏希は素直に聞き入れることにした。
冬里を待っている間にみた時刻表では次の列車が来るまで四十分ほどの待ち時間がある。そのため駅に利用客はおらず静まり返っていた。
女子トイレに入る前に中を確認する。個室のドアがどこも空いている事を確認する。誰もいないとはいえ女子トイレに足を踏み入れることに夏希はまだ違和感が拭えないでいた。
二つある個室はどちらも和式トイレであった。この姿になってから何気に和式のトイレははじめてだったが、流石にもう慣れたものでさっと下着を下ろすとスカートが床につき汚れないようにしてしゃがむ。
男性の時と違い用を足すときの音が夏希にはどうも気になってしまう。前と違い勢いがあるというかどうしても音が大きくなってしまう。
学校では大体の人は気にしてないのかそのままだが、中には用を足す前に水を流している人もいた。なるほどそういう方法もあるのかと夏希は感心したものの、夏希の周りの子たちはしていないので自分だけするのは意識しているようでまだそれをした事はない。
トイレットペーパーで水気を吸い取り捨てる。新しくなったスマホで夏希がはじめて検索したのはトイレの仕方だ。こればかりは教えてくれる人がいないので仕方がなかった。
トイレを流して手を洗う。
この時間が日常生活で一番性別の違いを意識してしまう。
鏡に映るこの少女のなりで男子トイレに入る方が問題で恥ずかしいはずなのに。トイレに行く時は意識してないと男子トイレに向かってしまう。
一度学校であやうく女子トイレと間違えて男子トイレに入ってしまいそうになってしまったことがある。女子トイレを通り過ぎたことを冬里に指摘されなければ、きっとそのまま中に入っていただろう。
これも時間の経過とともにそのうち慣れていくのだろうが、それはそれで自分が自分でなくなってしまう様で夏希は怖かった。
もうわたしは夏希なのだ。夏希になる前の自分を知っている者はもう青葉以外にはいない。恥ずかしがることはない。いまは自分が夏希を演じているが、いつかはわたしが夏希に成り代わる。
なんとなく沈んでしまった気持に頬を叩いて気合を入れてトイレを出る。待たしてしまっている騒がしいふたりの元に夏希は足早に戻った。
「今度はどうしたの?」
「聞いてよなっちゃん! ハルくん、お昼ごはんの前なのにパン買って食べようとしてるんだよ! 信じらんない!」
「別にいいだろ。昼飯もちゃんと食べるし」
春樹と冬里は駅のロータリーの入り口にあるパン屋の前にいた。
いま時間的にはもう昼ご飯時といっていい時間だ。
春樹は自らの腹が空腹を訴えたためパンを買おうとしたところを、昼ごはんが食べれなくなるからと冬里に止められていた。
なにも春樹だけがわがままを言っているわけではない。
春樹がこの後の巡るコースを冬里に確認したところ昼ご飯にたどり着くまではあと一時間以上かかることが判明したのだ。さすがに待てないと小腹を満たそうと春樹がパンを買おうと店に入ろうとしていたタイミングで夏希が戻ってきたようだった。
「春樹くんはパンを食べても、ちゃんとお昼ごはん食べれるんだよね?」
「ああ。時間を置かなくたって全部食べれるね」
「自分のお小遣いで買うんでしょ」
「もちろん」
「ならいいんじゃないかな」
「だよな! 誰かと違って夏希は話がわかる」
「うわーん! なっちゃんが裏切ったー!」
「別に裏切った訳じゃないよ」
早速春樹は財布を握りしめてパン屋に入って行く。納得いかないといった様子の冬里は黙ってそのあとを追った。
冬里の言い分もわからなくはない。あまり間食が褒められる行為ではないが、親である青葉が止めないのならば春樹の好きにすればいい。もう自分で考えて行動してもいい年頃だろう。あとはその行動に責任が持てるようになればいい。
それに春樹くらいの年頃であればパンを一つ食べたくらいで食事が食べられなくなることはないだろう。これまでの春樹の食べる姿をみて冬里には悪いが夏希はそう判断した。
「この店のシュガーバターパンが安いのに大きくて、しかも美味しいからオススメなんだよ。夏希もどうだ?」
「んー。わたしは止めておこうかなお昼ごはんが食べられなくなりそう」
店に入った春樹はトレーとトングを取ると、ほかの商品には目もくれず目当ての商品棚のパンをトレーに乗せた。
そのパンは三十センチはあろうかという大きさで表面にはザラメがたっぷりとかかっていた。春樹の言う通り手頃な価格で子供のお小遣いでも充分買える値段であった。
そのパンを購入するため春樹はレジへと行く。それを待つ間にほかの商品をみて回っていると、お昼時とあって夏希もお腹がすいてきてしまった。
支払いを終えた春樹は待ちきれないのか夏希たちを置いて一足先に店を出ていってしまった。
「わたしたちも出よっか」
「……。うん」
春樹が買って行ったパンの棚を睨み、まだ納得がいっておらず拗ねてしまったのか冬里の反応は悪かった。
夏希たちが店を出てきた時には、春樹は店頭のベンチに座りすでにパンを食べ始めていた。
「砂糖すごいこぼれてるよー」
「あとで払えば落ちるから大丈夫」
「ふんっ。ハルくんなんてあとでお母さんに怒られちゃえばいいんだ」
「これくらいで母さんは怒らねえだろ」
「ううぅー!」
いつもならここでひとケンカが始まってもおかしくないのに、冬里は春樹をにらみつけるだけだった。
「なんでそんなに機嫌悪いんだよ?」
「ハルくんには分かりませんよーだ」
「は? なんだそれ。てかお前もこれ好きだろ。食べるか?」
「いりませーん」
「んだよ。せっかくあげようと思ったのに」
どうにか夏希も冬里の機嫌を直せないものかと観察していると、その姿は怒っているとは違うように夏希には見えてきた。そして先程店内で夏希が抱いた感情と照らし合わせると冬里の態度に合点がいった。
「ほら、これ貸してやるから遊んでろよ」
「輪ゴムないじゃん」
「そうだった」
食べているところを冬里に無言で見つめられ続けられることに春樹は耐え切れなくなり、どうにか気を逸らそうと先程手に入れた輪ゴム銃を取り出した。しかし冬里の手によって輪ゴムは紛失しているため輪ゴムなしでは遊びようがなかった。
取り付く島もない冬里に打つ手がなくなり春樹は機嫌を取るのを諦めた。
「冬里」
「なに?」
「わたしもお腹がすいたから同じの買ってきちゃった。でも一人で食べるには量が多いから半分こしない?」
「え、いや。私は…」
「なら俺が――」
空気を読めない春樹が、俺が食べてやろうかと口を開きかけたところを夏希が睨みつけると春樹はその口を閉じた。
「ね。お願い!」
懇願してくる夏希とその手にあるパンに冬里は視線を彷徨わせる。どちらかというとパンに釘付けと言ってもいいのかもしれなかった。
そしてダメ押しの一言を夏希は言った。
「冬里だけが頼りなの!」
「えへへー。もお、しょうがないなぁ。なっちゃんたら食いしん坊さんなんだから。仕方がないあ。もう。お姉ちゃんが手伝ってあげるよ!」
「うんうん。ありがと」
うるんだ瞳で可愛らしく、お姉ちゃんだけが頼りなの。
そう言われてしまったら姉として断れないと冬里は渋々といった感じで了承した。あくまで冬里視点は夏希がそう見えていた。
パンを半分にちぎって冬里に渡したのにも関わらず、なおまだ大きなパンを手に夏希もベンチに座る。
本音を言えば最初から冬里も食べたかった。
けれどひとつ丸ごととなると女の子の冬里ではお昼ごはんが食べれなくなってしまうボリュームだ。
冬里が拗ねて機嫌を悪くしたから春樹は食べるかと聞いてきたが、最初から冬里が頂戴と強請っていても分けてはくれなかっただろう。
それに春樹にああ言った手前、冬里が自分から口を付けるのは憚られた。
先ほどまでのやり取りを見て、そんなことだろうなと夏希は当たりを付けた。夏希からお願いすれば冬里も断らないだろうと踏んでいたし、先にパンを買ってしまうことで逃げ道を無くした。
それに誕生日プレゼントに青葉から誕生日プレゼントで貰ったピンク色の財布を使う場面がなく。ここにきてやっと使えて少し気恥ずかしくも少し嬉しかった。
「なんだよ。結局冬里もたべ、モガァッ」
「えーなに? 春樹くんはまだ食べたりないって?」
折角機嫌もなおった冬里にいらぬことを言おうとした春樹の口に、夏希は食べていたパンをねじ込み止めた。
これを食べてお昼ごはんは大丈夫だろうかと大きなパンを小さな口で、もそもそと頬張って夏希が心配していたところに、春樹といういい処分先を見つけ、また冬里も聞こえていなかったようなので一安心だった。
「さあ者共! 腹ごしらえも済んだことだ出立するぞ!」
夏希たちは立ち上がると服に落ちた砂糖を振り払うと自転車に跨り出発した。
郵便局、図書館、和菓子屋などを巡っていった。パン屋から出発してからは店内に入ることはなく、前を通ったときにここが郵便局でっといった説明が中心だった。
湾沿いにある公園に来ると自転車で公園の周りを一周していく。
広い公園は所々はげているが芝生が敷かれている。土地が余っているのか駐車場も無料なのに広くとられている。
しかし公園は広い割には人がいない。釣りをしている人が数名見かけられるが、公園内のベンチなどには人影は見当たらなかった。
この公園が盛り上がるときは祭りの時ぐらいなのだと春樹が言った。
年に二回浜那美では新年と夏祭りが行われ、その際にこちらの公園の反対側にある広場で開催される。その時に駐車場として利用されるときがこの公園の一番の繫盛期だそうだ。
海からくる磯の香りが混ざる風を浴び、離れたところに養殖イカダが浮ぶ湾を夏希は眺めながらそんな話を聞いていた。
「ちょっと新刊出てるか見てくる」
公園から出て本屋を通りかかったとき、春樹が漫画の新刊が出ていないかチェックしたいと言って一人本屋の中に入って行った。
町の小さな本屋でショーウィンドウ越しから見える店内はそれほど広くはなかった。
目当ての漫画を探している春樹の姿を見て、夏希は漫画を借りたままなのを思い出した。帰ったら読んで返さないといけないな。そんなことを考えていた夏希の服を冬里が引っ張る。
「なっちゃん。こっちこっち」
声を潜める冬里に連れられて本屋のショーウィンドウから隠れる位置に移動した。
「なに。どうしたの?」
「しー! 見つかっちゃうから静かに」
「見つかるって春樹くんに?」
「そうそう。ハルくんに見つからないように、そーっと中を見てみて」
そう冬里に言われるがまま夏希は隠れるようにして本屋をのぞき込む。
店内には春樹と店番をする初老の男性店員の二人。店員はレジの奥で座りテレビを見ているようだった。
春樹はその店員の方を本棚の陰から隠れ確認するように見たあと、ガラス越しに外を見た。春樹からは夏希たちは見えていないのか少し探すように見ていた。そしてもう一度店員を確認すると春樹はひとつ奥の棚に移動した。
まさか万引きでもするのだろうかとハラハラした気持ちで夏希は春樹の様子を窺う。
しかし何をするでもなく、時折きょろきょろと挙動不審にあたりを見回しながら春樹は本棚の本をじっと見ていた。
「にっしっし! 実はね。あそこの棚にはエッチな本が置いてあるコーナーなんだ。あそこの本屋さん行くとハルくんいっつもエッチな本をチラチラ見てるんだよ!」
「……。」
きっと春樹は誰にも気づかれず上手く隠れて密かに見ているつもりなのだろう。時折り店員と外を気にしつつ神妙な顔で本棚を見ていた。
その様子を冬里は楽しそうに眺めていた。春樹たちはまだ携帯電話を持っていないので、こういった物を目にする機会が少ないため、こういったものが更に新鮮に映り興味をひいてしまう。
一度思春期を経験した元男性として夏希は冬里にこんなことをするのは止めてあげて欲しかった。春樹はああいったコンテンツが気になってしまう年頃なんだ。むしろあれが健全の証だ。
正直夏希も成人向けの本を置いた本屋で、意味もなく本棚の前を往復した経験がある。周りに気付かれることなくさり気なく横目で見ていたつもりだったのだが、かつての夏希も傍から見たら春樹のようにバレバレだったのかもしれない。
そう思うと夏希はなんだか顔が熱くなるのを感じた。
「おう。待たせたな」
「んーん、ぜんぜん! もっとゆっくりしてても良かったのに。ね、なっちゃん!」
「う、うん。ソーダネ…」
「大丈夫か夏希? なんか顔真っ赤いけど」
「ホントだ! さっき私とくすぐり合いっこしてたからかな?」
「そっか。ほどほどにしてやれよ」
「はーい!」




