「ただいま」に返事がある嬉しさ
中学校から香月家までは徒歩で十数分ほどの距離だ。
中学校へ続く坂を下りたら周辺は町になっている。スーパーや薬局などが点在する寂れた田舎の町だ。
都会と違い歩いている人の姿はほとんど見られない。パンひとつ買うにも歩いて移動すれば片道で一時間なんてざらなので、学生以外の移動手段はほとんどが車なのだ。一応ローカル鉄道が通っているが、それも離れた町の高校に通う学生の通学で使用されるのがほとんどで、住民が乗車することはほとんどない。
香月家に向かいしばらく歩いているとまばらにある民家よりも田んぼや畑が多くなっていく。少し離れたところに線路が引かれていて一両編成のワンマン列車が走っていた。
ここまでくると周囲の山により太陽の日差しが遮られ暑さが和らいできた。
今朝の登校時に冬里が歩きながら色々教えてくれていたが、転校の緊張から気にする余裕が夏希にはなく聞き流してしまっていた。その一大イベントも無事に終えた夏希はあらためてこれから住む地域の風景を眺めて歩いた。
そして昨日から住むことになった香月家に到着する。
二階建ての一軒家で走り回れるくらいには広い庭ある。周りには民家が数件と畑と田んぼに山だ。
出かける際に家の鍵を渡して貰わなかった。家には青葉がいるのだろうか。もしかしたら春樹か冬里が帰ってくるまで待ちぼうけになるのかと夏希は考えながら玄関の扉を引いた。鍵はかかっておらず玄関はすんなりと開いた。
「お邪魔しまーす」
少し開いた玄関から顔を覗かせ、恐る恐る声を出した。静かな家の中からは返事はなく、その静けさに夏希はなぜか忍び足で家の中に踏み入れる。
書類上はここが夏希の自宅となっているはずなのに、まだ他所の家感が強く、行動が不審者のようになっていた。
靴を脱いで家に上がったものの、次の行動をどうしていいのやら迷ってしまう。用意された自分部屋に行けばいいのか。それともリビングで誰かの帰りを待つ。いや、それよりも洗面所を借りて手を洗うのがさきか。
玄関で立ち尽くす夏希にちいさな足音が近づいてきた。
「おとーさん?」
少し遅れて出迎えるように出てきた香月家の飼い猫のおとーさんは夏希の目の前で座ると、にゃあとひと鳴き上げゴロンと床に寝転ぶとお腹をみせてくる。
「ふふ、ただいま。どうしたの? 遊んでほしいのかな?」
しゃがんだ夏希はそのおなかに手を伸ばすと、おとーさんは素直に触らせてくれた。そのさらさらした毛並みをしきりに触ると、今日一日の気疲れが癒されていくような気がして笑みがこぼれた。
そこにカシャと、シャッターを模した電子音が聞こえる。音のした方に夏希が顔を向けるとスマートフォンを構えあやしい笑みを浮かべた青葉が立っていた。
「なにしてるの」
「かわいい娘の日常の一コマを撮影してる」
「消して」
「いやよ。この写真しばらくスマホの壁紙にするんだから」
「消してってば。消せー!」
夏希は自分に自信がないので写真に写るのが苦手だった。自撮りなんて一度もしたことないし、身分証明書の写真すら目に入らないように努めていたくらいだ。自分の容姿が嫌いとかじゃなくて、自分に自信がないので直視したくないのだ。
例えその写真が夏希の目に映らなくても、写真に自身が映っているのが嫌だった。
「ちょっとそれ消してって言ってるでしょ! てかもう撮るなー!」
「えー? なんのことかなー」
スマホを奪おうと夏希は手を伸ばすが、身長差で青葉から奪うことは叶わない。しかも青葉はいやらしいことに手を伸ばして飛び跳ねてスマホを奪おうとする夏希の姿を連写で撮り続けているのだ。
「まあまあ、減るもんじゃないんだからいいじゃないか。母親としては子供の成長記録を残しておきたいものだよ」
「はあ。もういいよ。てか、その設定二人の時もやるの」
「設定じゃないよ。私は夏希ちゃんのお母さんだ。で、夏希ちゃんのお母さんは私ってね」
「わたしは……」
絞り出すようにしゃべりだす夏希の言葉を遮るように青葉は続ける。
「いま、言ったように私はもう夏希ちゃんのお母さんのつもり。でもキミにすぐに適応しろとは言わない。それでもいつか夏希ちゃんが私をお母さんと呼んでくれるように、これからも精一杯努力するだけだ」
向けられる青葉の真っ直ぐなその眼差しを受けて、口に出そうとした言葉を夏希は飲み込んだ。
青葉からはこんな状況になってしまった責任から、そう言っているようには全く聞こえなかったからだ。本当に夏希のことを家族として受け入れると本心から言っているように感じる。
青葉の大胆で積極的な性格をうらやましいと思った。自分はまだ受け入れることが出来ていない。いまもまだ夢ではないかと、目が覚めたらまたつまらない日常に戻るのではと、ずっとふわふわした気持ちでいる。それなのに青葉はもう進もうとしているではないか。
「たぶん、わたしはそこまで簡単に割り切れない。でも、ありがと。できる限りわたしもみんなを家族と思えるように頑張るから」
「いまはそれでいいんだ。少しずつ一緒に家族になろう」
そう言って青葉は夏希の頭を撫でた。
「よしよしっ。じゃあ、まず帰ってきたところからやり直してもらおうか。お邪魔します。じゃなくて、ただいま。でしょが」
「う、聞いてたのか」
「もうここは夏希ちゃんの家なんだから、他人行儀みたいなことはしない」
「た、ただいま」
あまりにも青葉が真っ直ぐ見つめてくるものだから、夏希は恥ずかしくなって目を逸らしてただいまと言った。
再びパシャリと音が鳴りあわてて、音の発生源を辿ると青葉がスマホを夏希に向けて構えていた。
「はい。頂きましたー! 夏希ちゃんの恥じらってる仕草、最高にいいね!」
「このっ、青葉ぁ!」
リビングに逃げ出した青葉のあとを夏希が拳を振り上げ追いかける。今度こそスマホを奪い取って画像を削除しようと決意した。
「あははは! 夏希ちゃん」
「なに!」
「お帰りなさい」
「ただいま! まてこら! そのスマホよこせー!」
最後にただいまと言ったのはいつの日だっただろうか。
小学校に入りたての頃はまだ言っていた気がするが、気づけば言わなくなっていた。
ただいまと言ってお帰りと返事がかえってくるその何気ない日常のやりとりが、夏希には懐かしくも嬉しくて思えた。
数分間の追い駆けっこの末に体力で勝った夏希がスマホを奪うことに成功したが、当然パスワードが解らずロックは解除できずに、すでに自分の画像が壁紙に設定さてた待ち受け画面とにらめっこする羽目になった。
本気で追いかけたのにわずかに息切れしただけ済んだ自分の身体に夏希は驚いた。この身体になる前なら短時間でも走り回れば、足元の青葉のように生き絶え絶えに倒れこんでいた事だろうに。
「はぁっはぁ。夏希ちゃんも何か飲む?」
立ち上がった青葉は台所へおぼつかない足取りで向かい。冷蔵庫からお茶を取り出してコップに注ぐと一気に飲み干した。
「ううん。喉乾いてないから大丈夫だよ」
「そう。喉乾いたら勝手に冷蔵庫の飲み物飲んでいいからね。でも名前が書いてあるのはダメだから。あと、ヘンな遠慮とかして水道水とか飲んでたら怒るから」
「う、うん。やっぱりお茶を一杯もらおうかな」
「はいはーい」
始めて怒気を感じさせる言葉を発した青葉にビビり、夏希は本当にのどは乾いていなかったがお茶を注文してしまった。
その返事に満足したのかお茶を入れたピンク色のコップを持って笑顔の青葉が手渡してきた。
「あらためて言うけど冷蔵庫のことだけじゃなく、この家のことで遠慮は一切不要だから。あ、ちなみにそのコップは夏希ちゃん専用ね。あとこれが夏希ちゃん専用のお茶碗にお箸だよ」
「あの。なんで全部ピンク系なの?」
受け取った食器一式を眺めながら夏希は疑問を口にする。猫のイラストが書かれたピンクの茶碗はとても可愛らしかったが、中身が三十路の男性が使うにはなかなか勇気がいる代物だった。
「だってほら、色で分けてた方がわかりやすいでしょ」
「それは分かるけど。それならわたし水色が好きなんだけどな」
「あー、ダメダメ、青系統は春樹の色だから」
なんだそれはと反論したかったが、せっかく用意してくれた物にケチをつけるのが忍びなかったので諦めることにした。
しかしそれでは夏希がピンク色が好きと香月家に認識されてしまうのではと不安だった。
それぞれ好きな色を取り入れているらしく青葉が緑で、冬里が黄色だそうだ。なんで女の子の冬里がピンクじゃないかと夏希は反論したかったが、好きな色など人それぞれなのでどうしようもなかった。
「あ、そうだ! 夏希ちゃんの部屋あのままだと生活に困るだろうから、こっちで選んで家具運び込んどいたから」
一晩であればあのままでもいいが、暮らすとなれば少々物足りない殺風景な自室を思い出す。
「この流れはヤな予感がするんだけど」
「それ飲んだら見にいこっか」
「うん。飲んだらね」
何もない夏希にここまで親身にしてくれる青葉には感謝してもしきれないが、出会った頃から前もって相談というか説明が不足している気がする。
とりあえず、いまは心の準備をする時間が欲しかった。夏希は気持ちを落ち着けるようにゆっくりとマイコップに入れられたお茶をひと口飲んだ。
青葉がおこなった模様替えに対して不安はぬぐえないが、腹をくくってお茶を飲み干しコップを置くと夏希は立ち上がった。
早くリニューアルした部屋を夏希に見せたいのか、今か今かと待っていた青葉に連れられて階段を上がり夏希の部屋の前までやって来た。
扉の前で深呼吸をひとつ、覚悟を決めて夏希は自室の扉を開けた。
「おう…」
今朝出かける前は何もなかった部屋の中はまさしく様変わりしていた。
簡素だったパイプベッドはしっかりとした木のベッドフレームに変わり、マットレスも掛け布団もふんわりとした柔らかそうなのに変わっていた。フローリングにはカーペットが敷かれていて、その上にはお洒落なローテーブルが置かれている。
無地だったカーテンも変更されており、壁際には大きなタンスと本棚が追加されている。部屋にあった机と椅子も違う物に新調されていた。
そしてクッションなど小物も置かれていて、夏希の部屋はモデルハウスの展示のような装いになっていた。
「どうだい? 私としてはなかなかのデキだと思うんだが」
「うん。とってもいいと思うよ……」
青葉の部屋のコーディネートはとても素晴らしかった。絶賛すべきセンスだと夏希は素直にそう思った。
ただし部屋の主が夏希でなければの話なのだが。
「だろう! 我ながら夏希ちゃんにピッタリの部屋にできたと思ったんだ」
「ホント、ステキな部屋を用意してくれて、アリガト!」
夏希は心を無にして、なんとか絞り出すように返事を返した。
扉を開けて夏希が目の当たりにした光景は白とピンクの可愛らしい部屋だった。もちろん他の色も探せば見つかるが大半が白とピンクに埋め尽くされていた。
今からでも青葉にウソだと、冬里の部屋と間違えて開けてしまったのだと言ってほしかった。
「夏希ちゃんも気に入ってくれたみたいで安心したよ。久しぶりにいい仕事ができたよ」
家具の価値など夏希にはよく分からないが、この部屋に揃えられた家具はどれもしっかりとした作りで、間に合わせで安物を揃えたわけではないことは見て取れた。
なので満足そうに隣で頷く青葉をみて夏希は何も言えなかった。
「わたしのために用意してくれたのは感謝してるんだけど、次からはわたしの意見も取り入れてくれたら嬉しいかな」
けれど次回があるか分からないが、ここで釘を刺しておかないといけないと夏希の直感が訴えていた。




