八話 夕暮れ、新江ノ島水族館
弁天橋から国道134号線を西へ少し歩いたところに新江ノ島水族館はある。「新」江ノ島水族館と言うだけあって、昔は江ノ島水族館と言う名前だったようだ。茉莉は道路を走るバイクの音にいちいち驚きながらも、今日の旅の最後の目的地であるそこになんとかたどり着いた。江の島からもその存在が目立っていた、黄色い壁の建物。水族館から少し歩けば、江ノ島の西側の海岸に繋がっている。チケットを買って水族館へ入る前に、もう一度海岸を少しだけ歩くことにした。埼玉県に住んでいる茉莉にとって、海は次いつ拝めるかわからない貴重なものだ。少し前まで吹いていた潮風は凪いで、今はただ潮騒の音だけが聞こえる。
「さっきまで晴れてたのに~、せっかくなら綺麗な夕焼けも見たかったな」
少しだけオレンジ色になった雲を見てふくれっ面をしてそうつぶやいた。
水族館にもどって、チケットを買ったら、階段を登って、魚たちの待つフロアに向かった。
館内に入れば、まずは相模湾の水槽が出迎えた。名前のわからない魚たちが、よくわからない顔をして泳いでいるのが見える。
「そっちは重力が無くて楽そうでいいね」
水槽の中を自由に泳ぐ魚に心の中でそうつぶやいた。この日の疲れが重みとして茉莉にまとわりついている時間帯なので、彼女にとっては切実な話題だった。
そこから淡水魚のコーナーを流し見して、水族館の奥へと進んだ。途中大きな水槽を下から見上げることのできる場所で、誰にも見えないようにエイの顔のモノマネをした。
シラスが育っていく過程のコーナーを超えると、この水族館の目玉なのだろう、とても大きなアクリル板がそびえたっている。先ほど出迎えた相模湾の魚が住んでいた水槽は、この1つの巨大な水槽の一部であったことがここで明かされた。さっきモノマネをしたエイも、この水槽に住んでいたらしい。イワシが群れを成して、巨大な生物のようになっている。同じ水槽には中くらいのサイズのサメもいて、生々しい食物連鎖をこれから見せつけられるのではないのかとハラハラした茉莉だったが、当の水槽ではそんな動きは一切見当たらなかった。
「しつけがよくできてるのかな。でもサメのしつけってどんなことするの?」
サメがしつけられているありそうで多分ないほほえましい風景を想像して、その水槽を去った。
次はクラゲ展示のエリア。このエリアはだいぶ気合が入っている印象を受けた。中央には球体の水槽の中にクラゲが泳いでおり、壁にはプロジェクションマッピングとクラゲの水槽が交互に展示されている。夕方だからか人は少なく、そのエリアのベンチに腰掛けてじっくりクラゲを見ることにした。
「痛たた……」
一日酷使した足が痛む。明日はひどい筋肉痛になるかもしれない。こんなことをするのは今日が最後にしたい、なんて考えていた。半透明のクラゲが、いったい自分の意志でそうしているのか、水の流れに抵抗できず流されているのかわからない様相で浮いていた。なんとなく、そのさまから目が離せない。クラゲが浮いている。クラゲが浮いている……。
「――間もなく、イルカショースタジアムにて、イルカショーが行われます。――」
何も考えることなく浮いていたクラゲに目を奪われていた茉莉は、そのアナウンスで我に返った。
「そういえば、イルカショー見に来たんだった。行かなきゃ!」
朝と比べたら随分重くなった足をやっとの思いでイルカショーまで運んだ。途中熱帯魚やペンギンのコーナーを「後で見に来るね」と速足で通り過ぎた。
屋外に位置しているイルカショースタジアムは、イルカが泳いでいる水槽を扇状に囲んで座席が並んでいた。座っている人数は少しまばらで、前から2列目の席に座った。が、「前の席に座られている方は水しぶきのかかる場合がございます」のアナウンスで怖くなった茉莉は、もう2列後ろの席に移動した。外はすっかり冬の寒さを取り戻していて、上着を着ないと体が震える。
しばらくすると、イルカとその飼育員が入場してショーが始まった。見るとよくイメージされるイルカの中に、1頭小さなクジラが混じっている。茉莉がイルカもクジラの一種だと知るのは数カ月あとの事で、今は驚きの表情をしている。するとすぐに、眼前のイルカが大きなジャンプをした。そのまま空いた口がふさがらない。他の観客と一緒に、「おぉ~」という声を出した。その後もショーは凄まじいテンポで進んだ。飼育員(ここではトリーターと呼ばれているとアナウンスがあった)もイルカもショーを楽しんでいるように見える。その様子は、心も体も疲れて切っている彼女の顔でさえ明るさを取り戻すほどだ。途中イルカが鰭を使って観客席に水をかける一幕があって、心底席を移動してよかったと安堵した。
楽しかったショーも間もなくクライマックスを迎え、数頭のイルカが回転しながら大きなジャンプを同時に飛んで、ショーはお開きとなった。見逃した水槽を見直すことを除けば、今日の旅の行程は時間の余裕から見てもすべて終了となる。もう水がはねて来るリスクもほとんどないから、ショーを終えたイルカを水槽の近くまで見に行った。今はショー終わりのエサ槍などの時間のようで、イルカたちは魚を食べたり泳いだり、気ままな時間を過ごしている。
「癒されるな」
バンドウイルカは口角が上がっている顔をしているので、もちろんそのイルカの感情はわからないが、人間からの視点では笑っているように見える。
「やっぱり笑顔が一番だよね」
茉莉は自分の周りの人には笑っていて欲しいと常に考える人であった。
「最近みんなの笑顔、そんなに見てないな」
涼乃のように彼女と親交の深い人物は、何となく彼女の心に陰りが差していることに気づいているようで、皆が自分に向けて心配の表情を向けているのを茉莉も感じていた。それに最近は冬休みで、そもそも少し友人と会う機会が減っていることもあって、見たい皆の笑顔を見られないままでいる。その分、また心配そうな親の表情を見る機会が増える。『心の穴』は空いてまだわずかな時間しか経過していないが、それでも多くの嫌な現象を引き起こしていた。
「何とかしなきゃ……。はぁ……」
『心の穴』は厄介なことばかりだ。埋めなければならないことは彼女も理解しているが、埋めようとなんとかすることを考えれば考えるほどどうすればいいかわからなくて、かえってその穴は痛む。今もそうやって考えていたら、幸の薄そうな顔を察せられたのか、彼女の近くでゆっくり泳いでいたイルカも、どこかへ行ってしまった。
イルカにすら逃げられてしまったので、茉莉は来た順路を引き返して見逃した水槽へと足を運んだ。まずはアザラシとペンギンの水槽。アザラシの方は、寝ているものと活発に起きているものがそれぞれ一頭ずついた。その左隣にはペンギンの水槽があり、そちらは数十羽のペンギンがひしめく大所帯になっていた。偶然通りかかったタイミングでエサやりが行われていて、飼育員の近くにはペンギンの群衆ができていた。それとは別に、群衆から少し離れたところで呆けている個体もいくつかいた。飼育員が何やらペンギンの説明をしてくれていたようだが、何となく意識は呆けているペンギンの方へと向かってしまう。最近は『心の穴』の事を考えることが多すぎて、自然と呆けている時間が多かったように感じている。
「みんなから見た私もあんな感じだったのかな」
頭のどこかで、ちょっと考え事をしていた時「おーい、戻って来な」と目の前で手を振っている涼乃を思い出した。
最後に熱帯魚の水槽に立ち寄った。ここにはクマノミやナポレオンフィッシュなどの水族館の魚類の花形ともいえる種が何匹も泳いでいて、なかなかにある。種ごとに鮮やかで明るい色をしているから、絵画を見ているようだった。いつか彼らが住んでいる海に行く日があるのだろうかと思いを巡らせた。
見とれている間に閉館のアナウンスが流れて、旅の終わりを感じた。せっかくだから出口付近で開かれているショップで何か買い物をすることにした。何を買おうか迷っていたところ、横の長さが50cmくらいの大きなイルカのぬいぐるみくを見つけた。イルカの水槽でイルカに逃げられたことをちょっと悲しんでいた茉莉は、「あなたなら逃げないよね」と買うことを決意した。その巨体はリュックに入りきらないほどであったが、これ以上買い物をするところや見るところもないので、手提げ袋も買って連れて帰ることにした。
外はもう天気もわからないくらいに暗くなっていた。茉莉の手がすぐに悴むほどの気温になっていて、長く外に出られるような時間帯ではないと感じさせる環境だった。その時、その視界には思いもよらぬ景色が飛び込んできた。
先ほどまでいた江の島のシーキャンドルが美しい光に彩られていた。根元の方もうっすらとライトアップされているのが見えた。
「そういえば」
サムエル・コッキング苑にはいくつかの植物にライトアップ用の装飾がなされていることを思い出した。けれど、ほとんど何も調べないでこの地域に来た彼女には、江の島のライトアップが開催されていることはリサーチ不足で全く知らず、もちろん行程にも組み込まれていなかった。
「今からは行けないよなぁ」
背中に感じる荷物の重みと、左手に持っているイルカが入った手提げ袋と、棒のようになってしまった足と、「ごはんの時間には帰ってくるから!」と両親に言ってしまったことを思い出してため息をついた。とりあえず、弁天橋の近くから綺麗に光を放っている江の島を写真に取ることだけして、「また来ればいいよね」と、帰路である江ノ電の方の江の島駅へと向かった。駅について間もなく到着した藤沢駅へ向かう電車に乗りこんで、空いている席に座った。電車の外の景色は住宅の光が見えるくらいで、そのほかはよく見えなくなっている。少し退屈で眠くなってしまうが、藤沢駅は近いので我慢することにした。
ほどなくして藤沢駅に着いて、乗り換えのため歩き始めた。あとは東海道線に乗るだけで帰れる。思い返せば、リフレッシュになるとても楽しい旅だったなと、茉莉は帰ってもいないのに感慨に浸っていた。歩いた先で見た異変に気づくまでは。
明らかに改札の前に人が多すぎる。彼女の中で不安がだんだんと膨らんでいって、構内に大音量で流れたアナウンスによって、それは現実になった。
「――JR東海道線は、藤沢駅と辻堂駅の間で発生した人身事故の影響で、現在運転を見合わせております」