七話 江の島の冒険
鎌倉高校前駅から古めかしいグリーンの車両にまた乗って、茉莉は江の島駅に向かった。日は少し西に傾き始めているが、冬にしては比較的過ごしやすい日和は続いている。ここまでの旅程で生まれた疲れを癒すために、席に座って景色を眺めていた。ここまで遠くまで来て、いろいろなところを巡ったことのない彼女の足が悲鳴を上げ始めていて、「まだ江の島残ってるんだけどな」とこぼした。
さほど足も休まらないくらいの時間で江の島駅には到着した。改札を出るとお土産屋さんがすぐ近くにあって、さすが観光地と思いながら、江の島への石畳の道を歩き出した。道の端には様々な店が並ぶ。江の島駅という名前なのに、意外と江の島までは距離があって、少し膨れ面をした。地下道を通れば、旅程でしばしば見えていた長い長い橋と、展望台が突き刺さった島が目の前にあった。
雲が幅を利かせた空の下、江の島に向かって一歩ずつ歩調を強めて近づいた。茉莉にはどうしても気になることがあった。江の島にたどり着いたなら、また七里ヶ浜で感じた現象が起こるかもしれない。「心の穴」に何かが起こったのはあの出来事が初めてだったから、それに縋るしかないと思った。踏み込む足には、焦りもあった。早くこの穴を埋めなきゃ。
相模湾に突き出る小さな島である。寺巡りの地であったとされていたこの島は、茉莉が渡っているこの桟橋のコンクリート化や戦後に進んだ観光地化、藤沢市による工事、宣伝によって、関東有数の人気観光地となっている。神社に通じる仲見世通りはどの時期でも一定以上の賑わいを見せており、激しく上下する複雑な地形も、国内初の屋外エレベーター、江の島エスカーがカバーしている。島の中心部にはかつて日本最初の臨海実験所をこの地で開いた教授の名前を冠した公園、サムエル・コッキング苑があり、その中には島内でひときわ存在感を放つ展望台、江の島シーキャンドルが立地しているなど、観光スポットには事欠かない。
江の島に上陸した茉莉の目を真っ先に引いたのは、目の前を通り過ぎた猫でもなく、仲見世通りの店でもなく、ただそこに建っているだけの家だった。そう、江の島にも若干ではあるが十人がおり、そこで普通の生活を送っているのだ。その事実が彼女を一番に驚かせた。観光地と言われている場所にも、そこで自分と同じように生活を送っている人たちがいる、それが江の島だけでなく、この旅を通して彼女が感じていたことであった。まだ見たことのない世界が、その中の生活がいくらでもある。そんな事実に初めて気づいた。「もしかして、自分が見ていた世界は思ったよりも狭いのかも」そんなことを思った。
休日とはいえオフシーズンでも人と猫でにぎわう道を進めば、茉莉の目を引く店があった。タコの丸焼きせんべい屋。縦横に長蛇の列が並んでいた。ちょっと躊躇ったけれど、時間も充分にある。茉莉にとって久しぶりの行列待ちであった。
待っている間、様々なところで撮った写真を眺めていた。朝日昇る由比ガ浜、鶴岡八幡宮までの街道、たどり着いた鶴岡八幡宮、そこから見下ろす鎌倉市街、見上げて首が凝った大仏、オーシャンビューの長谷寺と、心休まる雰囲気の御霊神社。そして、七里ヶ浜から眺めた江の島と富士山。背景にはすがすがしい青が広がっている。あぁ、思えば長く歩いてきた。券売機の前にたどり着いて、お金を払ったら、工程が見える窓の前に並んだ。鉄板の上に置かれたタコが、無慈悲にプレスされている。ほどなくして、出来立てほやほや、熱々の……無慈悲なまでの薄さにプレスされた煎餅が手渡された。
足が疲れていた茉莉は、煎餅を割れないように大事に運びながら、江の島神社に少し近づいた場所に腰掛けた。大事に運んできたそれを、少しずつ割って食べる。素朴な味の中に、わずかにタコの風味。味わいたいのもあったけれど、彼女としては足を休ませる時間を少しでも稼ぎたかった。ほとんど計画なしの行程だったからか、想像よりも徒歩の行程が多かった。ふくらはぎはおろか、足の裏さえ痛む。先程ちらりと見えた様子では、ここからも階段が続く。調べてみるとエスカーという選択もあるようだが、エスカーで見落とすところがあるかもしれないという気持ちと、ここまで来たならすべての階段を登り切りたいという本人でもよくわからない意地があって、階段を使うことにした。
鳥居をくぐって、石造りの階段を歩いた。高低差のあるこの島を登るために、階段は蛇行して作られているし、途中からかなりの急勾配になっている。息の切れる頻度も上がって、自分の限界を感じ始めていた。踊り場で休憩をはさみながら登った。ここで帰ったら後悔すると言い聞かせて。
やがて江の島神社の辺津宮にたどり着いた。両手を膝に当てるくらいに息の切れた茉莉は、まだ初詣シーズンでにぎわう参拝客の列に並んだ。社殿の様子だけ見て先を急いでも よかったけれど、やっぱりここまで来たら参拝しておきたかったし、なんにせよ茉莉は、縋れるものならなんでも縋ってこの「心の穴」を埋めたかった。
自分の順番がきた茉莉は、賽銭を入れて、今までにない勢いで手を合わせて祈った。
「この『心の穴』、何とかして埋めてください!」
そう心で唱えながら。明日目が覚めたら、何でもない日常を過ごせたらいいなと思っていた。
辺津宮の境内を出て、広場を抜けてまた階段を登れば中津宮に到着。同じような作法で、同じように切実な願いを祈った。
江の島島内はかなりの数の木々に囲まれており、気分を落ち着かせる雰囲気がある。島の縁の方では木々の隙間から海が臨めるようになっていて、ところどころ100円を入れるタイプの望遠鏡が設置されている展望デッキがあった。せっかくなので、サムエル・コッキング苑へ向かう前に休憩をはさむことにした。ここからは、歩いてきた七里ヶ浜が見える。
「遠くで見えてるのは江ノ電かな?」
様々な場所に目が行く。通ってきた道。海。藤沢の街は西に傾いた太陽が照らしている。
「まるで別世界みたい」
街並みは埼玉と変わらないけれど、海があるからだろうか、茉莉にはそう見えた。あるいは、知り合いも誰もいない場所だからであろうか。
とりあえず足は少し休まったから階段を登って、サムエル・コッキング苑に到着した。この辺りは平たんな公園になっていて、先ほどのたこせんべい屋さんの支店や売店、自販機に庭園もある。よく見るとイルミネーション用の明かりが取り付けられていて、夜には美しく光るのだろう。先程あったような展望デッキもあり、こちらは江の島の東側、すなわち相模湾とその向こうの三浦半島までを見渡すことができる。
「視界がよかったら千葉まで見れたのかな」
すっかり曇ってしまった空を眺めてつぶやいた。
江の島の中でひときわ存在感を放っていたシーキャンドルはサムエル・コッキング苑の中に立地しているのだが、この二つの施設それぞれに入るための入場料金がかかる。サムエル・コッキング苑にのみ用がある人は全く気にすることではないけれど、シーキャンドルにだけ行きたい人はサムエル・コッキング苑にほんのちょっとの恨みがありそうだな、そんな想像をしながら、茉莉は無地の財布を出して、それぞれの入場券がセットになったものを買った。ここまで来て、お金を出し惜しむなんてことはありえない。
園内は洋風の庭園になっており、園内を多くの緑が飾る。冬だから咲いている花は少なかったけれど、LEDの装飾はやっぱり目立つ。夜には綺麗な花が咲くのだろう。
シーキャンドルまではまっすぐ歩いたらすぐに着いた。先程からそれに階段が巻き付いていたのを見ていたので、展望台まで階段以外に上がる道がなかったらどうしようと少し不安だった茉莉を、エレベーターの入り口が出迎えた。少し人だかりができている。エレベーターが目の前の人だかりを運んだのを見届けてしばらく待ってから、茉莉もエレベーターに乗った。視界がどんどん広がっていく。視界が一瞬途切れて、展望台に到着した。
ガラス越しに藤沢の街を見下ろせる素晴らしい景色が見えた。遠く見据えた海沿いには他にもかすかに街が見える。あちらは茅ヶ崎だろうか。そこまで見渡した時、屋外展望台に伸びる階段を見つけた。ガラス越しだけじゃもったいないなとちょうど思っていた茉莉は、真っ先にそちらへ向かった。
展望台に出た瞬間、潮風が茉莉を包む。それがどうにも心地よくて、軽く伸びをした。空は薄い雲が覆いつくして青が見えなくなってしまったけれど、今度は晴れた日に来たいななんて考えて、すっかりもう一度来るつもりでいる自分に少し苦笑いをした茉莉がいた。
相模湾の海沿いの街を見下ろせる場所とは逆の方角には、どこまでも続く太平洋が見える。
「水平線を見たのなんて、いつぶりだろう」
ほんの数年前まで、あまりに海と縁がなさ過ぎて水平線の意味すら知らなかった彼女は、目の前に映るものがそれと知って得も言われぬ感動に胸が包まれた。
「いつかあの海を越える日も来るのかな」
そんなわけないかとはにかんだ茉莉は、次のスポットへ向かうことにした。ここから降りる方法を探す。乗ってきたエレベーターのほかに、階段を下りる方法があった。階段を下りるだけならそんなに疲れないと思ったから、せっかくの機会を階段で降りることにした。
外側から見えていた階段をゆっくりと歩く。柵はあるけれど、それ以外に阻むものがないので、少し足を震わせながら階段を下りた。ただそれは、何も悪いことだけではない。階段を下りている間は、常に街と海を見降ろせる。それがどうにも楽しくて、震えていた足はいつの間にか楽しそうに動いていた。
次の場所は、江の島岩屋。岩屋までは、今度は階段を南の方に下りて向かう必要がある。先程のテンションで浮ついた足はとどまることを知らずに、駆け下りるくらいのスピードで岩屋に向かった。
途中江の島神社の奥津宮を参拝して、江の島神社も制覇した達成感のまま道を進んだ茉莉は、江の島の南西側までたどり着いた。ごつごつした岩島の江の島には砂浜はなく、海に面しているところは岩浜になっている。まっすぐ南側をむけば遮るものは何もなくて、どこまでも海が続いているのだろう。
「あの海をずっと南までいったら、次の陸地はオーストラリアかな」
想像を膨らませる。現実には三宅島とニュージーランドが次の陸地にはなるけれど、そんなことはどうでもよかった。
少しだけ岩浜の方にも寄り道をした。岩のくぼみに溜まった潮水がところどころあって、滑らないように気を付けながら、できるだけ海に近づいた。西の方を向けば山の連なった伊豆半島が詳しく見える。行こうと思えば、あっちまで行けるのだろうか。
道に戻ったら、雰囲気のある赤い手すりに飾られた橋を渡れば、江の島岩屋にたどり着いた。入場料金を払ったら、洞窟の中に入った。驚くべきことに、手元用の照明にロウソクを手渡された。
洞窟の照明がメインの明かりにはなったが、時にはロウソクの明かりにも手助けしてもらいながら洞窟を進むさまは、まさに洞窟探検のような気分になる。ところどころにはなぜか仏像があった。少し首をかしげる時間があったけれど、とりあえずで茉莉は手を合わせた。
江の島岩屋にはどうやらもう1つ岩屋があるらしいので、1つ目岩屋の探索を終えたらロウソクを返してそちらの道へ向かった。
第二岩屋はイルミネーションによる装飾がメインの洞窟で、天井は常に光に飾られていた。これはこれで美しい。
「なんでドラゴン……?」
しかし最深部には、なぜか龍の像が鎮座していた。あまりに場違いなそれに、思わず言葉が口に出た。しかもこのドラゴンも洞窟と同じように光に飾られている。説明の立て看板すらないのがその龍の場違い感をさらに加速させていたけれど、ここまでの道のりで疲れていたから、余計な疲れを感じないようにそれ以上考えないようにして、岩屋を後にした。
岩屋から出て、自分が階段を降りてここまで来たことを思い出した茉莉は、今日何回目かわからないため息をついた。ここまでの移動で少し息が上がっているので、もうため息かどうかもわからない。弁天橋を渡った時に見えた遊覧船の事を思い出して一筋の希望の光を見たけれど、看板に欠航の二文字を見た。もう手立てがないことを悟ったから、観念して来た道を戻ることにした。これからどれくらいかけて端の方まで戻るのかな、いややっぱり考えないようにしよう……と思いながら。
江の島の大通りを見降ろせる江の島神社辺津宮の階段まで戻ってきたときには、時刻はあと二十分ほどで四時になることを確認して、自分が想定していた行程をすべて終えることができそうで心底ほっとしながら、増していく足の痛みを隠し切れないように茉莉は歩いた。弁天橋が長く感じた。
「最後まで楽しまなきゃ!」