六話 見たかった海
電車は稲村ケ崎駅を抜けて、再び海の見える場所へと進んだ。今朝見たばっかりなのに、この景色を見るだけでまた歓声を上げそうになって、口が開いた。すぐにはっとして口を押えた。
七里ヶ浜駅で下車した。ここも改札が簡易なもので、駅員さんにチケットを見せて退場した。正面に高校と見て取れるものと、右手に海が見える。つまり左手に見えた高校の生徒は、海の見える教室から授業を受けているのだろう。茉莉は心底羨んだ。七里ヶ浜に出るまでに、教室から海をぼうっと眺めて、それを授業していた先生に咎められる想像をした。
信号から道路を渡って、そのまま入れるところから堤防を降りた。潮風が茉莉を迎え入れる。海に流れ着いた川を渡る橋があったから、そこにシートを引いて腰かけて、先ほど買ったパンを食べることにした。まずは小さな食パンから。いい香りと、素朴ながらバターの風味、何よりも、眼前の海というスパイスがあって、とてもおいしい。すぐに食べ終わってしまった。次はベーコンエピ。
七里ヶ浜は神奈川県南西部に位置しているおよそ2kmほどの浜辺である。ちなみに七里ヶ浜と名付けられている割には、この浜辺は一里も無いらしい。さらに言えば、一里の解釈をできるだけ優しめのものにしても、やっぱり七里には届かないようだ。ともかく、夏場はサーファーでにぎわうこの海も、今日はオフシーズン。むしろ怖くなるくらいに人が見えない。乾燥している冬の空気は、遠くの景色までもはっきり見えるようになっていて、西の方を見れば、左手には橋のかかった江の島と、その奥に雪をかぶった富士山。あきれるほど美しい青空にはいつの間にか現れた不思議な形をした雲があった。パンが美味しい。はるか上には猛禽類の、これまた風情のある鳴き声が……ん?
「やばっ……」
茉莉は慌ててとりあえず口に入れるだけのパンをちぎって、残りを鞄に隠した。遠い昔の記憶を思い出す。いつか家族に海へ連れて行ってもらったとき、これまた海沿いでご飯を食べていたら急に襲ってきた猛禽類、トンビにそれを奪われたことがあったのだ。
「もうこれ以上奪わせないもんね」
空を睨んで、ヒーローが悪役に言うようなセリフをただの猛禽類に放った茉莉は、少し急ぎ目で残りのパンを食べ終えた。今までいろんなところを散策し続けていたから、こんなにゆったりした時間を過ごすのは朝ぶりで、誰もいないのをいいことに「ぅん~!」と変な声を漏らしながら伸びをした。潮風が体を滑る。
少し休憩をした後、風で飛ばされそうになったシートを苦戦しながら畳んだら、海岸散策もかねて鎌倉高校駅前まで歩くことにした。
潮の香りがただよう砂浜を歩く。風になびいた髪を整えながら、眼前の景色を満喫していた。相も変わらず左手に映る海はため息が出るほどの藍に染まっている。空で雄大な模様を描いている雲はだんだんと増えてきたような気がして、数を数えるのも難しくなってきた。いままでぼんやりと見えていた江の島はその輪郭を鮮明にさせていた。次はあそこへ行くんだ。そう思って、期待に胸を膨らませた。
こちらに近づくほどに藍色の水は透き通った透明になって、こちらに来ては帰ってを繰り返している。そのさまがなんだかおもしろくなって、波が来るギリギリのところを歩いた。そうしたら思ったよりも波がこちらに押し寄せてきたから、茉莉は慌てて陸の方へと引き返す。そんなことを夢中で繰り返して、海がある暮らしなら、これを日常にできるのかなと想像した。学校が終わって少し疲れたら、見渡す限りの水平線がすぐそこに……そんな暮らしをイメージしたけれど、今の暮らしみたいに、海を恋しく思ってたまにそこを訪れる暮らしも捨てがたいと考えつつ、そっか、私はちゃんと海に来られたんだと、ようやく彼女にも実感が湧いてきた。
その時だった。茉莉の「心の穴」がたった一瞬だけ感じたこともないような優しい感覚に包まれて、その次の瞬間にはまたいつも通りの穴の痛みが戻ってきた。あまりに突然の事で、「およ?」という声しかでない。そうしている間に、今度は鎌倉高校前の階段に到着した。この浜辺に、「心の穴」を埋める手掛かりがまだ残っているかもしれない。そんな感覚があってこの砂浜から離れることには少し後ろ髪を引かれる思いだったが、江の島が待っていることを思い出して、砂浜を離れることにした。