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たびガール  作者: 諏訪いつき
7章 三浦半島編

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5話 マグロ

 油壷マリンパークを出発したときは少し暑く感じた空気も、自転車を走らせれば何も感じなくなった。遠くに見える入道雲はまた位置と形が変わっているようだ。

 来た道を少しだけ引き返して、最初に出会った信号を右折した。ここからは全く新しい道。また下り坂を下っていく。漕がなくていいから楽ではあるけれど、やっぱり帰りは漕がなきゃいけないのだろうかと考える。頭上をかかっている橋をくぐって、どんどんと下に行く。少し海の香りがする。カーブを曲がったら海が見えてきた。小舟がいくつか浮かんでいて、海岸のように波立っている様子はない。その海もすぐに見えなくなって、今度は上り坂になった。坂沿いには家が建っていて、どの家も白塗りになっているから、異国に来たような錯覚があった。

 「意外と何とかなるかも……!」

 上り坂に差し掛かり、憂鬱な気分でペダルを踏みこんだ茉莉は、電動アシストのおかげで思っていたよりも力要らずで坂を登ることができて、その憂鬱がすぐに晴れていくのを感じた。確かに力は少しかけなければいけないけれど、このくらいなら恐れることはない。坂を上り切ったらまた下り坂。本当にジェットコースターみたいだ。速度が出過ぎないようにしながらも、坂を駆け下りた。通り過ぎていく風の音に、自転車のチリリという音が混じって聞こえる。ただ走っているだけなのに、口元が少し緩んでいた。

 その坂を下り終えたらまた海が見えた。目まぐるしく風景が移り変わっていく。さっきまで木々の輝く緑を見ていたはず。今回の海は水平線を見る余裕があった。小さな湾になっている場所の海へとつながる斜面の上には船が何隻か繋ぎ止められている。その横を通った。

 「本当にこの道で良いのかな……」

 先ほどから青い矢印の言うとおりに道を進んできたけれど、見える家は少なくなってきているし、通りかかったり、追い抜いていく車もあまり見ない。車道を走っているから車が少ないのは自転車に乗っている身からして少しうれしいけれど、駅前の感覚を知っていると間違って誰も来ないような場所に来ているのではないかと、少し怖くもある。

 すると反対車線のほうから、車ではない姿のものが近づいてきた。近くなってからよく見ると、それは茉莉が借りているものと全く同じレンタサイクルに乗っている男女2人組の観光客だった。これからマリンパークに向かうのだろうか。何はともあれ、それを見た茉莉はジャストタイミングで不安が解消されたことを、不思議なこともあるものだと思いながら、また道を進んだ。

 道に沿って左に曲がったら、市街地が見えた。かなり坂を下ってきているし、この先の道に坂は見えない。もうすぐ南端の海も見えるはずだ。平地になったから、自転車は一定のスピードをキープしていて、のどかな時間が流れる。普段の生活を急いでいたわけでもないのに、何となくこの時間が心から欲しかったような気がする。

 もう少し進めば、道の駅に似た建物を見つけた。うらりマルシェというらしい。ちょっと休憩も兼ねたくてそこに寄ることにした。道の反対側をふと見やれば、マグロ料理を出していそうな店も見えた。

「……」

 茉莉は自転車を止めて、自分のお腹を少し見た。呼応するようにお腹が少し動いた。

「腹ごしらえもしようかな」

 太陽も高く昇っている。食事をとるにはいい時間。この先、どこで食事をとれるかどうかもわからない。

 メニューに載っているマグロ丼はいつもならためらう価格帯だったけど、父が「これでおいしいマグロでも食べてきなさい。もちろん、ほかのものでもいいから」とお小遣いを渡してきてくれたおかげで、躊躇なく店の中に入ることができる。

 店前のメニューを見たときにすでに決めていた注文のマグロ丼を注文して、茉莉はその時のことを少し思い出していた。あれは数日前の話。

「あの時のパパ、『何が何でも』って感じだったな」

 こうやって旅へ出るたびに追加で少しお小遣いをもらっていたので、今回ばかりは遠慮しておこうと思っていた茉莉だったが、数日前ある日頼み込まれる勢いで父からそれをもらったのだった。

「でも、これがなきゃここに入ってなかっただろうな」

 自転車でここまで来る途中数件見た飲食店は、どれも普段の茉莉だったら立ち寄らない価格帯のものばかりだったのを思い出した。お小遣いのない状態でここに来ていたら、安いチェーン店か、最悪何も見つからなければもしもの時のために持っている携帯食料で済ませていた可能性もある。

「色々体験して来いってことなのかな」

  先に出された氷水を一口。コップまで冷たくて癒される。自転車を止めてここまで少しだけ歩いてきたけど、外の暑さはかなりのものだった。自転車に乗っているときのものと海からの風でかなり暑さが和らいでいたことを今更ながら実感していた。水も買い足してからこの先を行こうか、と考えていたときにマグロ丼が来た。

 丼にこれでもかと乗せられた魚たちで米が隠れて見えない。音は立たないように手を合わせていただきますと唱えたら、箸を持った。赤にもグラデーションのある刺身が並べられていて、どこから手を付けようか少し迷った。とりあえず真っ赤な赤身から。

「んん!」

 このおいしさを共有する人は近くにいないのに、それでも感嘆の音が喉から出てしまう。新鮮そのもののマグロと醤油の染みた米。刺身の柔らかさを恨んだ。すぐに口からいなくなってしまう。口の中をマグロの風味が泳ぎ続けている。さすが回遊魚。

 お次はサシが入った中トロのほうへと箸を向けた。光沢がすさまじく見るからに美味しそう。というかもう見ているだけでも美味しい。口に運ぶと、そんな期待を優に超える味が口の中に広がった。ここまでのサイクリングで疲弊した体に醤油の塩味が染みる。

「これ、手止まんない」

 もう少し味わって食べたいような気もするけれど、美味しさで箸が止まらない。悩ましくて、幸せ。

 丼の中身が半分になっても、それよりも減っても、刺身が最後の一枚になっても箸はとどまることを知らず、あっという間に食べきってしまった。水をもう一杯だけ。

「パパ、ここまで来たこととかあったのかな」

 あと一口で飲み干してしまう水をグラスの中で少し回した。

「そういえば、あたしパパのことあんまり知らないや。……今度、色々聞いてみようかな」

 勘定を済ませて、店員に「ごちそうさまでした」と告げて、店を後にした。そしてそのまま、向かいにあるうらりマルシェへと入っていく。中は市場のようになっていて、マグロももちろん、様々な種類の魚が売っていた。

「生のものは流石に無理だよね、悪くなっちゃうし……何よりバッグの中の匂いがすごいことになりそう」

 想像しただけでも凄惨な光景が頭に浮かんだ。他の魚も見かけたけど、意外と大きかったり、手が出しづらい価格のものも少なくなかった。

 この地域では大根をはじめとする作物も有名らしい。大根がそのまま売っているところもあれば、漬物にして売ってあるところもある。

「ううん、どれも今持ち運ぶのは難しいかも……えびせんとかは江ノ島とかでも同じようなもの売ってたの見たし。パパとママはお土産いらないって言ってくれるけど、今回は甘えちゃおうかな」

 今回はここでお土産を買わないことにした。近くの自販機で冷たい水を買ったりして休憩の時間を過ごしてから、茉莉はまた自転車に乗った。

 走ってきた道をそのままもっと向こうへと進んでいく。港町の沿岸の景色が穏やかに過ぎていく。

「今度パパとママとお出かけする時は、ここみたいな所に連れていってもらお。それで一緒に、買って帰る魚を選ぶんだ」

 自転車を勧めながらそんなことを考えていた。今まで両親が買っていたお土産のことなんて気にしていなかったけれど、今では何を買うかがとても気になる。

 自転車に乗る前にスマホで調べた情報によればここからかなり近い場所に城ヶ島があるらしい。何があるかはいまだにわからないけれど、今日は海風にあたるだけでもいい気分。そこに向かってペダルを踏み込んだ。

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