2話 空白のキャンバス
三崎口駅直結の観光案内所の中に、レンタサイクルの受付もあった。
「3時間利用と1日利用どちらにしますか?」
そう聞かれて、ここで何をするかあまり決めていなかった茉莉は一瞬答えるのに迷った。幸い後ろに並んでいる客はいなかったから、落ち着いて少し考えて、「時間のことを考えるくらいなら」と、思い切って1日利用のほうを選択した。
係の人にパンフレットを渡された後、外にある自転車の駐輪場に案内された。鍵を手渡されて、電動アシストの説明を少し受けたら、係の人は受付のほうへと戻っていった。
ペダルに足をかける前にパンフレットを見た。「レンタサイクルを使う」ことは決めていたけど、「どこに行くか」までは、当日の楽しみを損なってしまうかもしれないと、あらかじめ決めていなかった。
「ここから一番近いのは……小網代の森ね。とりあえず行ってみようかな」
駐輪場から道路に出ると、いかにも「ここを自転車で走ってください」と言わんばかりの青い矢印が車道の左端にあった。一旦はこれに沿って行けばよさそうだ。初めて漕いだ電動アシストの自転車は思っていたよりも推進力が高くて驚く。自転車に乗る機会はめっぽう減ってしまったが、かえって普通の自転車に戻れるだろうか、なんてことを早速思った。
直射日光にさらされているけれど、風を切って走っているからさほど暑さを感じることはない。今のところはどこにでもある街の風景が流れて言っているけれど、この自転車の真新しい感覚のおかげで退屈だと思うことはない。ちらと見えた畑の奥には空だけが見える。景色と自転車を楽しんでいたらあっという間に1キロを走り、最初の目的地に近いスーパーに到着した。このスーパーが小網代の森の駐車場も兼ねているらしい。ついでに冷たいスポーツドリンクをそこで買ってから、小網代の森へと歩いて向かうことにした。まだ正午にすらなっていないけれど、歩いているときは折り畳みの日傘が無いと少し暑い。
信号機を渡って小道のほうへ。歩いて行ったら小さな入口があって、そこから階段を降りていけば視界から建物はなくなって、目の前の道のほかには木々のみが景色となった。木が日光を遮ってくれている間は、さほど暑さも感じない。どこかで名前の知らない鳥が鳴いているのが聞こえる。やっぱりここでも「小網代の森に行く」までは決めたけど、ここで何をしたらいいかわからないような気分で、それでもせっかく来たんだからと、何となく足を前を進めるしかなかった。歩いているときは自転車で漕いでいる時よりも嫌に頭が回って、本当にここで『心の穴』なんて埋まるのかと、今考えてもしょうがないと自分で分かっていることでも考えてしまう。その考えで今の景色を汚さないように、木々と道に沿って流れる小川の美しさに何とか集中しながら道を進む。
「計画、やっぱりちゃんと立ててきたほうが良かったかなぁ」
当日の楽しみが減ってしまうというのも1つの理由だった。それに加えて日光の経験がまだ頭に残っていて、綿密な計画を立てても1つ齟齬が起きればドミノ倒しのようにその計画が崩れていくのを見るのが嫌で、今回は自由にやってみようと計画を最低限にしていた。茉莉が知っていたのは、行きの電車の帰りの時間と、どれくらいの時間にこの辺りを出れば事前に両親に言った時間で帰れるかくらい。
もうちょっと歩くと今度は開いた場所に出た。陽の光が直接差し込んできて少しまぶしい。ここまで歩いてきて人と全くすれ違わなかったし、見え始めたこの先の道にも人が見当たらない。少し寂しいような気もしたけれど、人の気配がしない場所にいられるというのも考えてみれば貴重な経験だとも感じる。
「ここでちょうど半分くらいか~」
テラスにあった地図を見た。茉莉はちょうど入口とほかの入口、そして海へと続く道のほとんど中間地点に現在地の印がつけられている。
「反対の入口まで行ってもよかったけど、自転車置いてきちゃったしなぁ」
ここまで歩いてきたけれど、結局は自転車のある茉莉が入ってきた入口の方へと同じ道を使って戻らなければならない。
「海のほうまで行って、それで戻ろうかな」
このまま道を西のほうへと行けば、少し海が見えて、そこにカニが住んでいるらしい。
テラスを後にして木製の道を歩いた。肺へと入る空気は生ぬるい。近くに水が流れているから、湿度も心なしか少し高い気がする。今日はこれからどうしようかということをまた考えながら歩く。歩けば足場からトントンと音がする。
「海には行くとして……それからどうしよう。海鮮とか……食べて……」
『心の穴』をどうにかするという目標はあるけれど、それに対して具体的にどうすればいいかわからないことが障壁となっている。
歩きながらふと、数週間前の美術の授業を思い出した。なんて事のないスケッチの授業だったけれど、真っ白の用紙を目の前にして体がすくんだことがいまでも頭の片隅に残っている。鉛筆でのスケッチで、一応消しゴムで消せなくはないけれど、それをしても跡が残るという忠告がされていた。だからこそ、用紙に書き込むという取り返しのつかない行為が怖くて、むしろ手が震えて今まで書いてきたものよりもできの悪い、少し形がいびつになってしまった花のスケッチが出来上がってしまった。趣味にするほどでもないが、別に苦手でもなかった絵を描くことを、明確に苦手だと感じる瞬間だった。今の状況はこれと似ている、と思う。おぼつかない足取りでこのまま進めば、『心の穴』に何にも響かないいびつな旅路の記憶となってしまうのだろうかと不安になる。その不安が、茉莉の足取りと思考を一層おぼつかなくさせていた。
もう1つのテラスを通り過ぎて、海が見える場所までは到着した。
「ちょっと、草が邪魔……」
海があるはずの方角には草が生い茂っていて、あまりよく見えない。草の奥、目を凝らせば海が見えなくもないような気もするけれど。ふと足元のほうを見れば、簡単にカニは見つかった。しゃがみこんで、そのカニの動きをじっと見る。
「こうしたら『心の穴』が埋まる……」
「わけないか」
まだほかの場所が残っている。カニの横歩きをしばらく見た後、茉莉は森の入口まで全く同じ道のりを使って入口まで戻ることにした。別の入口から来た人は二人ほど見たけれど、北のほうから来る人はやっぱりいなくて、一人きりの散策を楽しむことができた。自分が立てる音以外すべてが自然の音の中の環境で、もしほろんだ世界で自分だけ取り残されたらどうやって生きようか、なんて想像をしながら歩いて行った。




