1話 三浦半島の南端まで行ってみよう
スマホのアラームの音で、茉莉は目を覚ました。時刻は五時三十分。目的地へ行くまでの電車が出るまでにはまだ一時間以上ある。一旦リビングに降りた。
「ママ、おはよう」
リビングにはすでに起きていた母がいた。
「おはよう、朝ご飯は?」
「食べる~」
「パン、焼いておくね」
「ありがとう」
焼けたパンにバターをひとさじ取って、パンに塗って食べた。
「ほかはいらないの?」
「うん、おなかすかせて、海鮮楽しもうかなって」
「美味しいところがあるといいわね」
「……なかったら、横須賀でハンバーガーかな」
横須賀にはハンバーガーショップがいくつもあるらしいということを、琴音から聞いていた。
「それもいいわね」
「正直、どっちにしようかまだちょっとだけ悩んでる。でも、着いてから決めればいいかなって」
「そうね、その場で決めるのが一番」
パンをいつもの速度で食べ終わった後自室に戻った茉莉は、荷物に忘れ物と余計なものがないかどうか確認して、部屋を出て玄関へと向かった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、楽しんでくるのよ」
「うん!」
見送ってくれた母に手を振って、茉莉は家から出た。まだ時間に余裕はある。
今朝の気温はすでに28℃。いつもの昼と比べたら今はまだ涼しいが、埼玉はここから気温が35℃まで上昇するという予報が出ている。太陽もすでにまぶしく暑く、その視線に入らないよう日陰を縫うように駅まで歩いていく。寝起きなど知らないのだろうか、鳴き続けている蝉がやかましくて仕方がない。
大宮駅には多くの人が押しかけていた。茉莉の高校は夏休みに入ったが、社会人にとっては平日の朝だ。出勤に向かう人々が多い。
「今日は電車混みそうだなあ」
電車の混雑を考えていなかったわけではないが、想定よりも移動で苦労することになりそうで、深呼吸をする時間が必要になった。
「でも、楽しい1日にできる気がする」
この先への不安と期待を胸に、見慣れた電車に乗り込んだ。やっぱり席は空いていなかったけれど、ドア前の手すりのスペースを確保できている。
電車の中は人の多さを鑑みた冷房の強さになっていて、半袖の茉莉にとっては少し寒い。けれどそのことも想定済み。バッグから冷房対策のジャケットを羽織れば、快適な温度になった。そのあとは、ドアの窓から見える景色が少しづつ日常から遠ざかっていくのを見ていた。浦和、赤羽と、人の群れが乗ったり降りたりを繰り返しているのも見て、尾久駅は今までの駅よりも少し小さいなと思ったりした。
上野駅でも多くの人が下りた。プラットホームの奥を見てもプラットホーム、その奥も……と繰り返される光景は、大宮駅にも似て見える。
「そういえば、この前ここを通ったときは眠ってたんだっけ」
通っていたはずなのに上野駅の記憶がないことに気が付く。今日は昨晩ぐっすり眠れていたので、起きながら景色を楽しむ余裕があった。
定刻で到着した東京駅は車窓からも東京駅の特徴的な赤煉瓦の駅舎が見えた。反対側には新幹線が止まっている。
「いつかあれに乗って大阪に行ったり……あんまり想像つかないな」
大阪に行く想像をしたけれど、うまくイメージがつかなくて、そのことを考えるのをやめた。気づけばあと2駅で乗り換えるところまで来ている。新橋駅から電車が出発した後、茉莉は早めに席から立ちあがって、ドアの前で景色を見ることにした。どこを見ても高層階の建物が見える。電車が減速していって、高層階の建物は目の前に止まっている電車にかき消された。
『品川、品川。ご乗車、ありがとうございます』
そのアナウンスを聞きながら、茉莉は看板を頼りに京急線がある方へと向かって行った。駅ナカのお菓子売り場がどれもおいしそうで、ここに一時間くらい居たい気持ちを抑えながら。
京急の改札を抜けるともう目の前に目当ての電車が来るホームがあった。今は別の行き先の電車が止まっているけれど、数分もすれば目当てのものが来る。
「ここから羽田空港にも行けるんだ」
いつだって、出先で行き先表示を見るだけでもちょっと楽しい。
その羽田空港行きが品川駅を去ってすぐ、赤い車体に白の線が入った電車がホームにやってきた。快特三崎口行き。ここから先はもう乗り換えも必要ない。席は品川で降りた人の分がずいぶん空いていて、楽にとることができた。座って数分、品川駅から出発。普段は聞かないような音が聞こえる。
列車は次々と見知らぬ駅を通過していく。その途中で、茉莉は車体の揺れが今までに感じたことのないくらいになっていることに気が付いた。
「なんかめっちゃ早くなってない!?」
不安になるほどのスピードに少しばかりの恐怖を覚える茉莉のことなど知らず、電車は京浜急行の名に恥じぬスピードを出して南へと向かう。ほどなくして、電車は京急蒲田駅に停車した。なんだかジェットコースターが終わったような感覚でいるけれど、まだ一駅しか停車していない。
次の停車駅は京急川崎のようだ。もう神奈川県へと入る。蒲田までは多くの駅を通過したけれど、今回は二駅を通過するのみ。最近はよく見かけるような多摩川をまた超えれば、京急川崎駅に電車が停車した。また多くの人が電車から乗り降りしていく。それを見届けた後、電車はまた速度を上げた。次の停車駅は横浜駅。なんと途中10駅も通過してそこへ向かうらしい。また不安になるようなスピードを感じていた茉莉だったが、それにも慣れ始めている。いつの間にか周辺に見える建物の高さが低くなっていて、一軒家も見えるようになってきた。
とてつもないスパンで駅を通過していく中で、車窓から大量の線路と、そこを走る見慣れた青い電車が見えた。京浜東北線だ。
「そういえば、JR線とほぼ同じ場所を通ってるんだっけ」
数日前に三崎口への向かい方を調べた時、JR線で横浜まで行って、そこから京急線に乗り換えるルートがあったことを思い出す。結局「せっかくなら新しい方法で行ってみたいし、ちょっとだけ安い」という理由で今のルートになったけれど。
到着した横浜駅はやはり人でごった返していた。1か月前にここに来たばかりだから「ここまでたどり着いた」という感慨はないけれど、着実に目的地に近づいているという感覚はある。暇なのでここから三崎口まであと何分かを調べたら、残り1時間を切っていた。
横浜駅を発車してJR線と別れを告げ、電車は横浜の都市の中を潜り抜け、次の停車駅、上大岡駅へと向かう。移動中の暇つぶしの本は持ってきていたはずなのに、気づけば流れていく風景に気をとられて、別に本を取り出さなくてもいいか、という気分になっている。このあたりが特に個性のない住宅街の景色となっても、それは変わらない。
上大岡駅を超えると、また景色に変化があった。もう見慣れ始めている、神奈川の東南周辺特有の高低差のある地形が見えてきた。丘に沿って家が建っている光景は、いつ見ても少しワクワクする。あの家に帰るには坂を上る必要があって、ヘトヘトの日は少しうんざりするんだろうななどと空想するのも、楽しみになっている。
その後、金沢文庫、金沢八景駅に連続で停車した。
「ここから八景島シーパラダイスにも行けるんだ」
「八景」という言葉からもしかして、と調べた茉莉は、やっぱり八景島シーパラダイスの近くまで来ていたことを知った。
「今からでもちょっと行ってみたい、けど……今日はやっぱり三浦半島に行きたい!」
茉莉が地理もわからなかった頃に連れてきてもらった記憶のある八景島シーパラダイスの位置がわかるくらいの場所まで来て、今日はそっちに寄り道をしたいと思う気持ちを「行き方が分かったなら、また今度来れる」と抑えて、まだ電車に乗っていることにした。次の駅は横須賀中央。琴音の言っていた横須賀がもう近い。横須賀中央に行くまでにかなりの数のトンネルを超えていた。この辺りはかなり複雑な地形をしているらしい。
横須賀中央駅は思っていたよりもコンパクトに収まっていた。今いるプラットホームの対面にもう一個プラットホームがあるだけ。地図で見ると栄えているように見えただけに意外だった。ふと地図の端の方に目をやると、JRの横須賀駅が見えた。
「……喧嘩でもしたのかな」
乗り換えるならこの駅でした方が便利そうではあるのに、JRの横須賀駅はこちらで通過した横須賀中央から2駅前の逸見駅が一番近いうえに、ここで乗り換えるのには無理がある。JR線に乗り換えるならこの先の久里浜駅が一番乗り換えやすそうに見えるけれど、こちらもさほど乗り換えやすそうには見えない。久里浜駅と京急久里浜駅でおよそ二百メートルほど離れているようだ。このあたりを知らない茉莉から見てもこれは不便そうに見えた。ちょっと地図を拡大すると、逗子でも同じようなことが起こっているのが見えて笑ってしまった。
電車は堀之内駅を出発。ここからは終点まで各駅に止まる。終点の三崎口までは残り21分で、8駅に止まるらしい。いつの間にか海の近く特有の空の色がして、車窓から海が見えないかと景色を見ていたけれど、見えそうであと一歩足りない。日差しはその強さを増して、もう昼と違わないくらいの暖かさを感じる。
YRP野比駅という不思議な名前の駅を超えてからは、席を立ちあがって海が近い方のドアから景色を見つめた。ちらりと海が見えたような気もするが、若干遠くてそれが海か空かがわからない。だけど、空の色と景色の途切れ方が、海はすぐ近くにあることを教えてくれているようだった。残り三駅を指折り数えて、ついに次の停車駅が終点の三崎口であるというアナウンスが流れた。はやる気持ちは、出口となるドアのほうへと茉莉を動かした。
時刻はまもなく九時というところ。定刻通りに電車は三崎口駅に到着した。もうここから先は線路がない。電車からプラットホームにわたったら、とりあえず大きく伸びをした。セミの鳴き声はどの県でも共通で聞こえる。改札を抜けたら、簡素なロータリーが見えた。澄み渡った青空、遠くには入道雲。
「とってもいい天気!きっと、今日は楽しい一日になるよね」
空を見上げてから、茉莉はすぐ近くにあるレンタサイクルのほうへと軽い足取りで向かって行った。




