エピローグ-2 一歩踏み出せば
昼休みから放課後までは特に眠くなることもなく、いつも通りに過ごしていた。梅雨なのに晴れていたからだろうか、見える生活はちょっぴり明るく見えたような気がしたけれど。
その日は茉莉の家でいつもの3人とお茶をすることになっていたが、どうやら3人は放課後に少しやることがあるようで、茉莉一人の下校となった。少し西に傾いた陽が道を照らす。ふいに吹く湿気を含んだ生ぬるい風も少し心地いい。
帰宅したときには家族は全員出払っていて、かかっていた鍵を開けて家の中に入った。靴下越しの足音が耳によく響く。
友人たちが来ても恥ずかしくないように部屋を整理することにした。とはいっても梅雨に入るまでは整理整頓を欠かしていなかったので、その間に積もっていたものを整理するだけで友人が来ても問題ないくらいの部屋になった。ふと、部屋の入り口近くに飾られた地図が目に入る。そこには4月までの写真が飾ってあった。
「写真、また飾ってみようかな」
日光から帰ってきたときはもうどうでもいいと思っていたことに、再び目が向く。
それから茉莉は、家に来た最初の来客である涼乃がインターホンを押すまで、地図に貼る写真を見繕っていった。最初は紫陽花の写真だけ貼ろうかと考えていたけれど、もう一度地図を見て、北関東のほうに写真がなくて寂しい雰囲気になってしまっていたので、日光の写真も探すことにした。苦い記憶も多いけれど、確かにそこに行った記録が写真に残されている。
涼乃を家に出迎えてからは、涼乃とも一緒に写真を見繕うことにした。
「それ、華厳の滝?その写真良くない?」
そう言って涼乃が指さしたのは、茉莉は貼ろうとすらしなかった展望台から見た華厳の滝の写真だった。
「これ?これかぁ」
しばらく茉莉は考えた。この時見た華厳の滝は、思っていたよりも迫力がなくて、少しがっかりした記憶が強い。
「滝が真っ白な糸みたいで綺麗。不幸続きで大変だったかもしれないけど、こうやって後々見返してみたら、良いところもあったんじゃない?」
思い返す。やっぱり嫌な記憶が多いけど、日光に向かうワクワクを、東照宮にたどり着いた達成感を、華厳の滝のある奥日光の特別感を、なかったことにはできなかった。カメラロールを見返す。
「じゃあこの滝と……ほかの写真は何がいいかな」
「その日光駅の写真とかいいんじゃない?」
「確かに、『日光来ました!』って感じがするね」
そのあとの写真選びは潤滑に進んだ。東照宮の荘厳な門を収めた写真と、中禅寺湖とその隣にある鳥居の写真、それから……駅前で食べた揚げ饅頭の写真も選んだ。こうして見ていくうちに、散々だったように感じた日光の旅の記憶が、少しずつ柔らかくなっていくような感じがした。写真を決めていくごとにその感覚は強くなって、最後のほうには、いつもの旅と同じようなものだったと思えるくらいになっていた。
ちょうど写真を選び終えたころに結城と拓也が茉莉の家のインターホンを鳴らした。涼乃はお茶を淹れる用意をし始めたので、茉莉が「やほ」と言って出迎えた。二人とも体に染みついた動作で靴を脱いで、茉莉とともに部屋にはいった。部屋にはすでに緑茶の良い匂いがする。
みんなが机を囲んでいつもの場所に座って、茉莉がお菓子を机に並べていった。鳩サブレーが一人一枚ずつと、鎌倉半月の小倉風味と抹茶風味も一枚ずつ。せっかちな結城は、すでに淹れられたお茶を一口含んで「熱っ」と言って湯呑から口を離した。そのさまを机の対面でみていた茉莉はそれがどうにも面白くて、最初は口を押えて微笑んでいたけれど、我慢できなくなって少し声を出して笑った。一部始終を見ていなかった涼乃は結城と茉莉を交互に見て、何もわからないような様子で瞬きをした。
「いや、結城が冷まさずにお茶いって、それで熱がるから……なんか面白くて」
「思ったよりも熱かったんだって、そんなに面白がることでもないだろ」
結城は恥ずかしそうに笑って、口を拭った。そのあと鳩サブレーの袋を開けようとして……袋が切れるときに力が強すぎて、サブレーの首が取れてしまった。これには茉莉だけではなく、全員が言葉が出なくなるくらい笑っていた。当の結城は、「おぉ、ごめんよ」と言いながら、取れた鳩サブレーの頭をそのまま食べて、そのあと茉莉のほうを向いた。
「まぁでも、そうやって笑ってくれるくらいには元気になってよかったよ、最近の茉莉は、どう見ても大丈夫じゃなかったからな」
「あたし、そんなにだった?」
言われて思い返す。日光から帰ってから風邪をひいて、そのあとの記憶の色がほとんど灰色だ。そこまでやって、「確かに大丈夫じゃなかったかも」と自分の発言を修正した。
「僕でさえわかるくらいに落ち込んでたからね。立ち直れてよかった。けど、まだ駄目なんだろ?」
「うん、まだ全然、埋まってない」
胸のあたりに手を当てた。確かに『心の穴』の痛みがある。
「昼飯食べた後、俺達でも考えてみたんだ。だが、心当たりがない」
「本人がわからないんだから……とも思ったけど、僕たちだからわかることがあるかもしれないって考えてたんだ。でも……」
拓也は両方の手のひらを天井に向けて、首を振った。
「やっぱりそうだよねぇ……」
解決法も含めて探していた『心の穴』に関する心当たりも、この半年でさして見つけることができなかった。
「拓也は『何か足りないと感じてるものがあるんじゃないか』って言ってんたんだけどさ、ときに茉莉、今生きてる中で不満なことは?」
「『心の穴』くらい?」
「何か物足りないと思うことは?」
「ないかなぁ、充実してる、と思う」
「周囲で実は何かトラブルが起きてるとかはどうだ?人間関係とか……」
「全然。みんなが居てくれるし。今も幸せだよ」
茉莉のその答えを聞いて3人の動きが数秒止まった。
「……あたし変なこと言った?」
「いやぁ、なんというか……」
「何?結城照れてるの?」
頬杖をつきながら涼乃が左の席の結城の顔を覗き見るような表情をしていた。
「なっ、それを言ったら涼乃だって顔が緩んでたぞ」
「やめてよ2人とも、あたしのほうがなんか恥ずかしいじゃん」
会話を聞いて、茉莉は自分の頬が熱を帯びていくのを感じていた。一刻も早く、この会話の流れを止めたい。
「とにかく……『心の穴』がなんで空いたのかについては全く心当たりがないってことで良いんだよね?」
「そう!そうなの」
拓也がいいところで軌道修正をしてくれた。
「原因から絶てないなら、茉莉が言ってた『心の穴の痛みが和らぐ瞬間』を探し続けるしかないのかもね」
「俺たちはそういう結論にしかたどり着けなかった。要するに……色んなところを……痛みが和らぐ瞬間を探して旅をするしかない」
結城が申し訳なさそうな顔をしていた。手には抹茶風味の鎌倉半月。
「そうするしかないよねぇ」
「悪い、もっと新しい提案ができなくて」
「ううん、いいの。結城がそう言ってくれるだけでも力になってる。でも、次ツイてないことがあったらって思うと……」
「あの日光の話を聞いたら、怖くなるのもわかる」
「でしょ?」
「ただ、そういう時こそ、もう1回一歩踏み出す方がいいんじゃないか?」
「そうなのかなぁ」
「根拠があるわけじゃないけど、一歩踏み出してもそうでなくても、生きてればたまには運の悪いことに当たると思うんだ。例えば……鳩サブレーの首が飛んだり」
「それは結城の開封が下手だったからでしょ」
「……そういう見方もできる」
「引き下がらないでよ」
茉莉の顔がまた緩んだ。
「とにかくだ、生きてりゃどうしてもいろんな不幸がある。タンスに小指ぶつけたりな。しかもタンスは家にあるから、何をしていなくても過ごしているだけで指をぶつけたりする」
「今度はわかりやすいね」
「でも、良いことはどこかで一歩踏み出さないと出会えないと思うんだ。ラッキーと思った出来事も、どこかで何かしていないとそうそう巡り合えたりしない」
「……そうかも」
出かけていなければ知らなかった良い景色も、良い記憶も、確かにいくつもある気がする。それは、部屋に飾られた写真が証明していた。
「だから、ほかに思いつくことがあれば旅じゃなくてもいい、一歩踏み出して何かをしていることが『心の穴』を埋める糸口になるんじゃね。とは言っても……『心の穴』のことはみんなよくわかんないから、具体的に何をした方がいいとか言えないのがむずがゆいけど」
その言葉を聞いて、茉莉はちょっとだけふわりと浮き上がるような気持ちになっていた。
「今の聞いてるだけでまたどこかに行きたくなってきたよ、ほんとにちょっと楽になった!」
「よかった」
それだけ言った結城は、抹茶味の鎌倉半月を食べきった。「これ美味いな」、と袋の後ろ側を見ている。
「でも、次はどこに行こう」
ここまで半年のうち1回を除いて違う場所に行っていた茉莉は、自分の関東知識の中でのネタ切れにも悩まされていた。
「何か見たいものはある?街並みとか、自然とか」
涼乃が助け舟を出してくれた
「うーん、海かなぁ。真っ青な海が見たい」
「そうなると茨城か、千葉か、神奈川になるかな。東京の海は……見てもしょうがないもんね」
拓也が地図を見ながら言った。
「それなら、写真のない千葉か茨城に行ったほうが良いのかな」
「神奈川でもいいんじゃないか?別に同じ県に何度も行っちゃいけないってルールはないんだからさ」
「神奈川なら交通の便もいいし、ちょっとアクシデントがあってもリカバリーが効くから、また足掛かりにしてみるのもいいかもね」
結城と涼乃も地図のほうを見ている。
「確かにそれなら神奈川でもいい気がしてきた……本当にどこにしよう」
「本当は茉莉が自分で決めるのが一番よさそうだけど……3人でおすすめ提案してみる?私は茨城の大洗とかがいいと思う。鳥居のある海の景色がきれいで、水族館とかもあっていいところだよ。拓也は?」
「僕は……小田原かな。海も見れて、それだけじゃなくて小田原城もある。海産物も楽しめると思うよ。」
言い終えた2人の顔が結城のほうへ向いた。結城は何も考えついていなかったようで、驚いた表情をして自分の顔を指さした。それを見て、2人は深くうなずく。
「えぇっと……」
「無理しないで良いよ!あたし自身でも考えてみるから!」
茉莉としては、もう十分頼りになっている友達にこれ以上無理強いする気分にはなれなかった。地図を見る。
「そうだ!千葉は?千葉はいいところないの?」
やっぱり関東の東側に迎えていないことが気になる。
「千葉は……いいところはあるんだけど、向かうのが難しかったり、観光スポットが散らばったりしてるから、ちょっと難しいんだよね。それでいうと、大洗も向かうのはちょっと難しいかも」
そこまで言って、涼乃がお茶を口にした。
「そっか……それなら確かに、いきなり次行くのには向いてないかも」
「思い出した!三浦半島はどうだ?あそこは景色がすごい良かった記憶がある。かなり昔に行ったことがあるんだ」
結城がちょうど三浦半島を指さした。
「でもこの半島も、周るの大変そうじゃない?」
「確か三崎口駅から電動自転車を借りられるはずだ、これを使って城ヶ島とか、マリンパークとかにも行ける」
結城はスマホでレンタサイクルのページを見せてくれた。
「ちょっと、行ってみたくなってきたかも……!」
3人は茉莉の顔がふわりと明るくなるのを見逃さなかった。
「決まりだな」
「なんかちょっと悔しい気持ちある。今度また茉莉におすすめの観光スポットプレゼンしようかな」
「僕もちょっとリサーチしてみたくなった」
「あ、あたしも自分で調べてみるから、あんまり無理しないでね」
茉莉は闘志を燃やす3人に若干引いていた。
4人はお菓子がなくなった後もお茶を飲んで、他愛もないことを喋るゆったりとした時間を過ごした。日が暮れるのが遅くなったのも相まってこの夕方がいつまでも続くように思えたが、時間はあっという間に過ぎて行っていたようで、いつの間にか時刻は18時。今日の集まりはお開きとなる流れになった。
「俺、そろそろ帰らないとだめだ」
「じゃあ僕もお暇しようかな」
「それなら私も。茉莉、また困ったとこがあったら言ってね」
「うん。……あ!」
「早速?」
「期末テスト、乗り越えなきゃ」
それを聞いて結城は笑った。
「確かにな、テストを乗り越えないと。科目がなかなか合わないから、俺たちはあんま手伝えないかもしれないけど」
「それでも、また勉強会もしようよ。僕も涼乃のお茶があれば集中できるし。日程は……またお昼を食べるときにでも決めようか」
結城と拓也を見送った茉莉は、涼乃が茶器を片付けるのを手伝ってから、涼乃も玄関まで見送った。
「そういえば、前言ってた琴音ちゃんとは会う約束した?」
「それがまだなんだよね」
「いろいろ考えすぎて足が重くなる前に会っておいた方がいいと思うよ、明日にでも」
「うん、わかった」
涼乃がそう言うなら、という気分で納得をした。
入浴と食事を済ませて、寝る前に少し茉莉は琴音に会って開口一番何を言おうかと考えていた。今まで会いに来れなかったことを謝るべきか、軽く「久しぶり」と元気に言おうか……いくつか考えたけれど、正解がわからない。ふと地図に貼られた、今日の食事後に現像したての紫陽花の写真が目に入った。
「そうだ!」
会ったときの言葉は思いつかなかったけれど、良いことを思いついて、茉莉はその日を終えることにした。明日久しぶりに会うことになる琴音の顔を思い浮かべながら。
茉莉の認識が変わったことで、以下のサブタイトルが変更になりました。
5章 1話「電車酔いをした」→「世界遺産のある地へ行こう」
2話「ひどい混雑にもまれた」→「東照宮を巡る旅」
3話「バスに乗っているだけで疲れ切った」→「いろは坂だって超えて」
最終話「今日はなにも良いことが無かった」→「奥日光探訪、揚げ饅頭を添えて」
エピローグ「風邪をひいた」→「次の旅へ」




