7話 一番綺麗な紫陽花をあなたと
鎌倉駅をゆっくりと出発した江ノ電は、相変わらず住宅街の合間スレスレを縫いながら藤沢の方へと進んだ。角とその隣の席が取れた二人はリラックスモード。
「涼乃はさ、今日が雨でも、どうして誘ってくれたの?あたし、雨だったからちょっとだけ迷ったんだ」
「1つは今日が世間だと平日だから、茉莉を混雑で嫌な思いにさせづらいかなって」
「それと?」
「紫陽花だけは雨の日が一番綺麗だって思うから。晴天よりも、ずっと」
「そんなに?」
「だって、今日のも良かったでしょ?綺麗な花に雫が滴って」
「ふふ、確かに」
今日は雨だったから見れた景色ばかりだ。
目的の長谷駅にはあっという間に到着した。改札を通って踏切を渡る。電車に乗っている間に雨は止んでいて、今日はつくづく変な天気と思う。少し気味の悪い湿気が体の横を通り過ぎてゆく。
「長谷寺って、確かこの道をまっすぐだったよね?」
「それは大仏。長谷寺は左だよ」
涼乃は茉莉を誘導して、長谷寺の方へと連れていった。
長谷寺の方へと向かう道にはある程度参拝客に見える人々がいたけれど、紫陽花を見るために何十分も待つ必要はなさそうだ。心なしか、気温が上がり始めている気がする。
拝観料を払って境内に入った。入って最初のうちは、いつもと変わらない庭園の風景が見える。
「ここは、はぁ、階段が、江ノ島みたいに、キツいんだよね」
紫陽花が咲いている場所までは、まず一旦展望台まで登らなければならない。既に茉莉は息が切れ切れになっていた。
「確かにキツいけど、そんなに息切れる?最近、運動してないんじゃない?」
「確かに、あんまり、外出てなかったかも……。よいしょ」
力んだ声と共に、茉莉はこの階段の最終段を登り切った。ここは階段の中腹。先が思いやられる。
「ちょっと休憩したら次行くよ」
「え……もうちょっと待って……」
「ほら、もうちょっとだから。また雨降ってきたら傘さしながら階段登らなきゃいけないよ」
「それは……確かに嫌だ……ちょっと待って」
茉莉は大きく息を吸っては吐いて、「よし」と声を出した。
「もう行けるの?」
「うん、頑張る」
「じゃあ、行こう」
気合を入れていた割に次の階段はあっけなく終わって、見晴らし台がある高さの場所まで到着した。
「ゴール、ってことで良いの?」
相変わらず息切れしている茉莉に、涼乃は冷酷な事実を突きつける。
「これから紫陽花を見に行くんだよ、ほら、あっち」
指さした方向には「あじさい路」と書かれた看板が。
「う……」
「もうここまで来ちゃったんだし、引き返すのはもったいないよ」
「それはそう……ごめん、ちょっと休憩しない?見晴らし台あるしさ」
「ちょうどのど乾いたし、そうしよっか」
二人はいったん「あじさい路」のあじさい鑑賞券を買いに行った。入場時間によって区切られているこの券は、混雑している日には事前予約が必要そうだが、今日は平日ということもあって混雑していないので今の時間の入場券も買えるようになっていた。休憩するという話になっていたので、一応1つ後の時間の入場券を買ってから、近くの自販機で茉莉はスポーツドリンクを、涼乃は緑茶を買って、二人は見晴らし台のベンチに腰掛けた。
「階段登ってるときは『雨がまた降るかも』って言ったけど、こうしてみるともう雨は降らなさそうだね」
いつの間にか雲の色が、重苦しい灰色から白に近いものへと変わっていた。
「じゃあ焦る必要もなかったんだ~。まあいいけど。階段、登る気になったし」
見下ろせば灰色の海が波打っていた。目を瞑れば、涼しい風が吹く。
「また来年も来れたらいいね」
「茉莉、来年は受験だよ」
「あ」
「もしかしたら紫陽花を見に行くくらいの時間はとれるかもしれないけど、確実に行くなら再来年だね」
「受験かぁ……なんか実感わかないな」
「行きたい大学とかないの?」
「うーん、あんまり」
「そっかー、志望校選び、大変だもんね」
「ねぇ、そろそろ時間」
「ほんとだ、足は休まった?」
「うん、もう行ける!」
二人はあじさい路の入口で券を見せて、散策路に入った。
そこには青と白、そして赤に似た紫が美しい紫陽花の花畑が広がっていた。葉さえも生き生きと色づいている。ほぼ予約なしで入れる状況だったとはいえ、散策路には少なくない人数の花見客がいたけれど、むしろそのおかげで一輪それぞれをじっくりと見る時間があった。
「どれもきれいだね」
綺麗に咲く真っ白な紫陽花を写真に収めながら茉莉は言った。
「うん、とっても」
涼乃も来れてよかったと言わんばかりのうっとりとした表情をしている。
瞬間、驚くべきことが起きた。頭上の雲が裂けて、日差しが差し込んできていた。
「晴れてきたよ!今日は本当にラッキーだね」
鶯がさえずる木々の中、紫陽花の花畑もさらに鮮やかさを増しているように見えた。特に白や紫の花が明るく輝いて、心の震えるような感覚がする。紫陽花と長谷の街、そして相模湾を見下ろせる場所に来た二人は、そろって感嘆の声を上げた。
「綺麗だねえ」
茉莉がうっとりとした表情で言っている。
「綺麗って言葉しか出ないのが悔しいくらいだね」
涼乃は本気で思っていたことをそのまま口に出した。綺麗という言葉が安いくらいには、目の前の光景が美しい。紫陽花にこれまで降った雨の雫が日の光を反射して宝石のように輝く。花は言わずもがな、葉すらあでやかに輝いて見える。
「茉莉、写真撮るよ」
「撮ってくれるの?」
「もちろん、その代わり、できるだけの笑顔を頂戴」
茉莉はそれに応えるように今出せるだけのありったけの笑顔を作って見せた。スマホのファインダー画面を見ていた涼乃も思わず顔がほころぶ。
「こんなに笑顔でいるの、結構久しぶりかも」
嬉しそうに話す茉莉を見て、急速に価値観が塗り替えられていく感覚を感じる。涼乃の脳裏に目の前の紫陽花の光彩が親友の笑顔とともに焼き付いて、それが一番きれいな紫陽花だと知った。




