プロローグ1 琴音
桜もあっという間に散り、芽吹いた緑は勢いを増して、新年度が始まってからもう一週間が経とうとしていた頃。休日の一日を病院の診察に使うことになってしまった井町茉莉は、診察が終わった待合室でため息をついていた。『心の穴』が空いたころ起きた不調で一月から頻度は少ないとはいえ、通わされている診察もこれで5回目。今日も身体に目立った不調は見つからなかった。
「だからママには『大丈夫』って言ってるんだけどな」
今日の診察では「またこれ以上悪くなったらまた来てください」としか言われなかった。面倒な診察もこれで終わりと考えれば、少し気持ちは楽になるけれど。
診察後の手続きも終わり、会計の待ち時間は『シロと海原の旅』の続きを読んでいた。島を出た少女とイルカが立ち寄った最初の島は、桜をはじめとした花が一年中咲いている常春の島だった。そこで出会った退屈そうな少年をかなりすんなりと航海の仲間に引き入れ、二人と一頭はさっそく再度航海の旅に出た。しかし出航して間もなく少年の体調が悪くなってしまい、一行は船を引き返すことに。たった一日だけでも見なかったことで、帰ってきた常春の島の美しさに初めて気づいた少年の話を読み終えたころに、茉莉は会計に呼ばれた。
会計の機械にお金を入れて、レシートを受け取って少し歩くと、何やら必死そうな少女が「あの!」と声をかけてきた。背中の方まで伸びた髪の毛は良く手入れされていて、背は茉莉より2回りくらい小さく、小学生高学年くらいに見える。どこかで見たことがあるような面影なのも気になる。総じて、幼さと端正な佇まいが共存したような少女が、目の前にいる。ここまで走ってきたのだろうか、息を切らしていた。
「お願い!私を海に連れて行って!」
「いいけど……その格好で行くの?」
特に目を引いたのは少女の格好だった。この病院に何回か通った茉莉には、その格好が入院服であることを知っていた。だから、本心からそのままの格好で外出をするのは味気ないという気持ち半分、断ったら悲しい顔をされそうで、どうにか彼女の機嫌を損なわないように病室に連れ戻そうという気持ち半分が入り混じった言葉を選んだ。
「それでもいいの!私、どうしても海を見に行きたいの!」
どうにか言葉を選んでいた茉莉も、その言葉には答えに窮した。一度いいと言ってしまった手前憚られる「ごめんね」の言葉を口にしようとした瞬間、思わぬ方向から、思わぬ声が聞こえてきた。
「琴音!?どうして病室から出てるの?」
その姿に見覚えがあるのにも驚いた。心のどこかでは、その人はもう会うことが無い人なのではないかと思っていたからだ。
「茜さん!?」
思わず茉莉も声がでる。
「あなたは……」
「あたしです!茉莉です!江の島に行くときに会った!」
「ああ!あの時の!」
思いもよらぬ再会と思っていたのは茉莉だけではないというのが、茜の表情から読み取れた。
「えっと……」
一方の琴音と呼ばれていた少女は、この二人を取り巻く空気についていけないようだ。
それを見た茜は、改めて茉莉に話しかけた。
「茉莉ちゃん、ここで立ち話するのも良くないし、琴音の病室に来ない?琴音も。いったん戻りましょ」
「わかりました。琴音ちゃんも、もっとちゃんとお話を聞かせてくれない?」
「はーい……」
どうしても海に行きたそうな琴音は、この流れになってしまって少し落ち込んでいるようだった。
琴音の病室はこの病院の三階、ベッドが大部分を占める個室になっていた。部屋の隅には誰かが生けた花が飾ってある。
途中から疲れ切ってしまって動けなくなった琴音は、茜に抱えられてベッドまで連れ戻された。終始納得がいかないような表情をしていて、それを見ていた茉莉は心がちょっと痛んでいた。
「琴音、茉莉ちゃんに自己紹介してあげて」
「えっと……朝霧琴音、です。12歳……で、茜お姉ちゃんの妹です」
さっき『海に連れて行って!』と話しかけてきた勢いが噓だったように、たどたどしい自己紹介をした。
「初めまして!あたしは井町茉莉。茜さんとは出かけた時に偶然電車の中で会ったの。呼び捨てでもなんでも、好きに呼んで」
琴音の緊張を解こうと、精いっぱいの笑顔を作って茉莉も自己紹介をした。
「それよりさ、その枕元にあるの、『シロと海原の旅』だよね?私も今読んでるんだ」
本を指さすと、琴音の目は再び輝いた。
「その話をしたかったの!茉莉さんの鞄についているそれ、シロよね?」
「うん、お店で買ったら貰ったんだ」
「私、この物語にあこがれて、どうしても海に行きたくなったの。それで、病室をでて……シロのストラップが見えたから、この人なら海までどう行けばいいか知ってるかもって思って。それで茉莉さんに話しかけたの」
「だからあんな場所にいたのね、全く、もうちょっと安静にすれば退院なのに」
茜はため息をついていた。
「もうちょっとってあとどれくらい?私、もうあんまり待てないわ」
「長く見積もってもあと三カ月くらいよ、夏には退院できる」
「まだまだ退屈そうね」
琴音は心底残念そうな顔をしていた。まだ年端もいかない少女にとって、この病室は退屈過ぎるのだろう。
「じゃあ、琴音ちゃんが退院したら、私が海に連れて行ってあげよう!それなら、もうちょっと待てる?」
見かねた茉莉は、自分の中でも深く考えないうちに琴音へそんな提案をした。
「ほんとに!?」
「ほんと。ちょうどあたしも夏の江ノ島に行ってみたかったし」
「茉莉ちゃん、いいの?」
「はい!これもなにかの縁なので」
「ありがとう!」そう言うと琴音は茉莉に頭を下げた。
それから、病室に生けてある花を変える作業を茜がして、茉莉もそれを手伝った。そうしている間、茉莉はこの3カ月間の事を茜に話す流れになった。江ノ電のチケットを貰った後の話、川越の和菓子の話、埼玉の西の果てまで行ってみた話、東京の桜を見て回った話……。そうやって旅を続けることになったきっかけの一部には、茜の存在もあったことも。茜も興味津々に聞いていたが、もっと目を輝かせて聞いていたのは、琴音の方だった。
「その話、もっと聞かせて!江の島の話とか、お姉ちゃんとの話も!」
「いいけど、今日だけじゃ全部は話せないから……これから琴音ちゃんが退院するまでの間、またここにお見舞いに来るよ」
「いいの!?その……お手を煩わせたりしないかしら」
「大丈夫!だから琴音ちゃんも、楽しみに待っていてね」
小学生にしては大層な遠慮の言葉を耳にして、茉莉はそれをはねのけるようにした。
作業を終えて、茉莉と茜が出会ったときの話を琴音にしていたら、気づけば時間も夕方になっていた。何かを言おうと悩んでいたような仕草をしていた琴音が、意を決したように口を開いた。
「今日はごめんなさい、その……急に話しかけたりして」
「琴音?」
諭すように茜に名前を呼ばれた琴音は、ハッとした表情をしてから、また言葉をつづけた。
「今日は外の世界のお話が聞けてとっても嬉しかった。ありがとう」
「どういたしまして」
「私、『大好き!』って思えるものを増やしたいの。今はママとパパとお姉ちゃんと……それから……」
琴音はそれらを指を折って数えてから、しきりに窓の方を気にしていた。
「この時間の空の色くらいしかないわ」
間もなく日没の時間、空は夕焼けと夜の色が混じった幻想的な色に染まっていた。あれは確か、マジックアワーって言うんじゃなかったっけ。
「素敵」
「でしょう?」
「これからもっと増えるよ、増やしていこう!」
「ええ。約束よ」
そう言うと琴音は小指を差し出してきた。茉莉もそれに応じた。
その時、茉莉の携帯が鳴った。見れば、母からの着信だった。どうやら帰りが遅くなったのを心配したらしい。そういえば、今日琴音に呼び止められてから1回も連絡を取っていない。
「いけない、あたし帰らなきゃ」
「私も、そろそろ時間ね」
茜は携帯で時間を確認した。
「あら、残念」
琴音が本当に残念そうな顔をしているのに、ちょっと心が痛む。
「来週また会いに来るから、楽しみにしてて」
そう言うと、琴音のそんな顔も少しほぐれたように見えた。
二人は琴音に別れを告げて、病室を後にした。この病院から大宮駅まではおよそ20分くらい、バスを使うかちょっと悩むような距離であるが、茜と話す時間が欲しかったから、大宮駅まで歩くことにした。
「琴音ちゃん、ずっと入院しているんですか?」
「そうね……生まれつき体が弱くて、ずっと入院と退院を繰り返してるの。今回は特別長かったから、もどかしさが溜まってたのかも。『病室を抜け出すなんて!』ってもうちょっと怒ろうと思ったけど、とてもじゃないけど言えなかったわ」
茉莉が何と言おうか迷っているうちに、茜は言葉をつづけた。
「でも、今日は茉莉ちゃんがいてくれて助かったよ、琴音、最近で一番楽しそうな顔してた」
「良かったです」
「私としても助かるけど、本当にお見舞いをお願いしてもいいの?」
「はい!私も話していて楽しいので」
「そっか、よかった」
胸をなでおろすような言葉を茜は口にした。
「茜さん、琴音ちゃんに言い聞かせてることってあるんですか?」
「というと?」
「1回琴音ちゃんに注意を促すように呼び止めてた時があったなって」
「ああ、あれね。琴音、生まれてから長い間あの調子だから口癖みたいに『ごめんなさい』って言う子だったの」
「今日もちょっと言ってましたよね」
「そ。だから言ったことがあるの。『ごめんなさいって言われるより、ありがとうって言われる方が嬉しい』って」
「確かに今日、『ありがとう』って言われて嬉しかったです」
「でしょ?悪びれる必要なんて本当はないんだから」
話を続けていたら、大宮駅はもう目の前になっていた。空はすっかり暗くなって、街灯と車のヘッドライトが眩しい。
「そうだ、前回は忘れちゃったけど、今度こそ連絡先教えてください!」
大宮駅の改札前で茜と別れる寸前、一月の心残りをギリギリで思い出した茉莉は、急いで携帯を取りだした。
「そっか、教えてなかったね」
「良かった……私、あの時の旅の事とか、お礼とかを連絡できないのが心残りで」
「そんな風に思ってたんだ、気を遣わせちゃうのも悪いかなって思って教えてなかったけど、それなら最初から交換してればよかったね」
「ごめんね」と軽く微笑みながら、茜は茉莉のQRコードを読み込んだ。
改札から大量に人が出てきた。どこかの電車が到着したのだろうか。
「ヤバっ、電車来ちゃう。またね、茉莉ちゃん」
「はい、また」
茜は軽く別れの言葉を告げると、急ぎ足で改札を通って階段を下りて行った。
急に一人になってしまった茉莉は、旅の後に似たようなさみしさを覚えて、家の方角へと足を向けた。
「あたしも帰らなきゃ」




