三話 空っぽの大吉
江ノ電に乗って早々、茉莉は頭を抱えていた。
「茜さんの連絡先聞けばよかった……」
「『また会える』っていってくれたし、いつかまた会えるよね。」
ポジティブに考えることにした。
江ノ電は藤沢の街並みを走る。いつの間にか空の色が明るい青になっていることに気づいた。埼玉の青空と、少しだけ、けれどはっきりと違う色。何となく、海が近いのかなと感じた。藤沢の街を抜けたら、驚くことに線路が路面の中に入っていった。手を伸ばせば届く距離の横から車が通りすぎる。何もかもが茉莉にとって新鮮な景色。
先程の長距離移動で間隔がマヒしているのか、江の島駅にはあっという間についたように感じた。江の島は午後向かうことにしたので、今はスルー。次の堀越駅では、ホームの長さが足りないので後ろの車両はドアが開かないという、聞いたこともないアナウンスが流れて驚いた。
堀越駅を出ると、電車は驚くほど細い家と家の隙間を縫って走った後、カーブを曲がれば、茉莉の観たかったものが目に入った。すがすがしいほどの快晴。見渡す限り続く青い海。視界の端には展望台が刺さった江の島と、それをつなぐ弁天橋。目の前には忙しなく車が走る国道134号線。朝日に照らされた砂浜、海鳥。「わあ……。」と思わず声が漏れて少し恥ずかしくなった。この海沿いに駅があって、制服を着た人たちがたくさん降りた。見れば、近くに学校が見える。今日は休日のはずだから、部活だろうか。彼らにとっては、近くに砂浜と海のある生活が日常であって、何もそれが珍しいことではないのであろうが、茉莉にとっては特別魅力的に見えた。埼玉に海があったらと考えたが、それはもはや埼玉じゃないなと思ってすぐにやめた。
海が見える箇所を通りすぎれば、さっき教えてもらった極楽寺駅を通って、崖を通り抜ける。崖を通り抜ける際にはレンガが積まれたトンネルを通った。江ノ電唯一のトンネルらしい。神社を横切る。そのあとしばらくは住宅の脇すれすれを通り続けた。茉莉は車体が家にこすらないか心配でそわそわしていたが、それは自身がこの辺りの日常にとってイレギュラーな存在である証左でもあった。
由比ヶ浜駅に到着。茉莉はここで降りることにした。鶴岡八幡宮なら最寄りは鎌倉駅なので2駅先なのだが、それよりもやりたいことがあった。時間も十分に余っている。住宅街の中を歩いた。朝の風は冷たく、少し震える。犬の散歩をしている人がいて、いかにも朝の風景。どこかから美味しそうな匂いがする。午前八時。
ほどなくして堤防が見えた。その手前に道路があって、コンビニがある。海水浴客の対策だろうか、駐車場が有料なコンビニは初めて見た。信号を渡って堤防をつたえば海岸への階段について、見たかったものを目の前にして茉莉は階段を駆け下りた。
海岸に着く。いまだ東に傾いている日差しは眩しく、海岸から太陽までつながる光の道が海にできている。どこかでは猛禽類の鳴き声がして。そんな海岸で、茉莉は大きく伸びをした。大宮からの総移動時間が二時間を超え、ずっと座りっぱなしで凝り固まった体が癒されていく。海岸に誰もいないのをいいことに、気が済むまで何回も伸びをした。忘れないように、海の写真を一枚。潮騒が心にしみる。
海岸はもう1回訪れることにしたから、一旦海岸から離れることにした。靴に砂が入らないように気を付けて海岸を歩いて。堤防を上がった目の前には、大きな道路が見えた。
鎌倉まで行けることになった時から、1つやりたいことが思い浮かんでいた。教科書で読んだ鎌倉幕府は確か、鶴岡八幡宮から海まで伸びる一直線の道があったはずだ。昔の人みたいに、海から八幡宮まで歩いてみたい。昔の人が実際に歩いたかどうかはわからないけれど。
現代の参道は、全く普通の街道になっていた。道路わきには住宅やカフェ、コンビニなどが普通に建っている。消防署や図書館まであるこの参道は現代でもこの地域のメインストリートなのかもしれない。途中にあった鳥居から、車道を分けるように歩行者用の参道が現れた。せっかくだから面倒くさがらずにその参道を通ることにした。後悔しないように。
歩いて左手に鳩サブレの店舗を見つけた。朝早すぎて準備中。また後で来よう。
海岸からおよそ2kmを三十分ほど散歩して、鶴岡八幡宮に到着した。早朝に家を発たなければできなかった贅沢な時間の使い方。参拝客は少ないけれど、全くいないわけではなかった。けれどところどころで目につく鳩よりは少なそう。真っ白の羽を着た鳩がいて、自分だけ真っ黒な体に生まれた魚の話を思い出した。手水の作法はわからなかったから、最低限手だけは清めた。
鶴岡八幡宮は、もともと由比ガ浜に祀られていた源氏の氏神、八幡神を源頼朝が現在地に移したところが基礎だそうな。少なくとも八百年の歴史があることになる。茉莉が途中通ってきた参道は若宮大路というらしく、鎌倉まちづくりの第一歩として、朱雀大路を参考に整備されたといわれている。武家発祥の地としての名が確立されている鎌倉は、江戸時代にはすでに社寺の保護などに手を加えられ、観光地としての地位を確立し始めていたらしい。8ヘクタールを有する境内には、大規模な神社らしく八幡神以外の神が細かく祀られている様子も目に付く。運が良ければリスに会うことでも知られるが、このリスは実はタイワンリスという外来種であり、鎌倉市は処理に手を焼いている。エサをやることもあまり褒められたことではないだろう。境内に話を戻そう。10年くらい前までは、歴史的な事件を見届けたことで有名な巨大な銀杏の木があったが、強風にあおられて折れてしまうという事件が起きた。幸い、再生のため手厚い保護を受け、この銀杏の木には再び新芽が顔を出した。そんな新芽を、ちょっとの間眺めていた。
さて、茉莉が新芽を見ていたのには2つの理由があった。1つは単純にこの銀杏の再生力に少し感動していたから。そしてもう1つには……。
「この階段、登らなきゃダメ?」
目の前に立ちはだかる61もの石段相手には、そんな感想がでる。ため息をつく。けれどここまできて社殿をお目にかけられなかったら。
「後悔するよなぁ……。」
ため息1つで登ることにした。
下から見れば果てしなく見えた階段も、意外と集中して登っていれば少し短く感じる。登り切った時の達成感のために後ろは振り返らない。
何分かけたかわからないけれど、階段を登り切れば、階下からほんの少しだけ見えていた社殿が目の前にある。ここでやっと後ろを振り返ることにした。
「わぁ……。」
いろんな景色を見て、同じような感嘆詞しか言えないのが惜しいとも考えるが、そんな考えを晴らすような景色。自分が歩いた階段と、さらに向こうには参道も見られる。自身は気づいていないが、この景色に特別な価値を与えたのは、この道を歩いてきた茉莉自身であった。惜しくも海までは見えなかったが、建物が海の近くで途切れているのが見えたし、昔は海までみえたと、朝の参拝に来ていた老人二人が話しているのを聞いた。
綺麗な赤が目立つ門をくぐって、賽銭箱にお金をいれたら、目の前の看板にある通りの作法にしたがった。二拝二拍一拝。これからの旅の安全と、「心の穴」のことと、もう1つ、茜にもう一度会えるよう祈った。欲張りでごめんなさいと、心の中でちょっと謝りながら。
社務所に立ちよって、少し悩んだ後に交通安全守をもらった。茜にもう一度会うなら縁結びも必要かなとか、「心の穴」には健康のお守りの範囲内なのかなとか考えたが、とにかく無事にいろんなところを回っていればもしかしたら何とかなるかもしれないと考えていたから、とりあえず自分の身の無事を守ってもらうことにした。
おみくじも一応引くことにした。茉莉は大吉以外を出したことなく、最近は逆に大吉以外を引くことが怖くなってきたから大事な時にしか引かなくなっていたが、今日引かなかったら当分引かないような気がして、勇気を出して引くことにした。お金を入れて、箱の中に手を入れる。ピンときた紙を引き抜いたら、結果を見た。途端微妙な顔をする。やっぱり大吉。
人にとって、おみくじとは時に参考にしたり、悪い結果が出れば少しでも戒めになったりすることがあるだろう。しかし、茉莉にとってはそれはどこかフィクションの中のお話のように感じるのだった。何度でも述べるが、本当に大吉しか出ない。あまりに奇怪な現象であるので、涼乃を含めた茉莉の友人3人で近所の神社を回り検証会を行ったことがあるが、結果は茉莉の全勝であった。茉莉が放った「こういうのって、あんまり引きすぎると罰が当たったりしないかな」という純粋な言葉を前に、全員が負けを悟った表情をしていたことを思い出した。
とにかく、心に穴まで開いた一大事なのに、おみくじに書かれているのはいつも通り「すべてがうまくいく」みたいな文言ばかり。肯定してくれるのはいいけれど、それでも今くらいは何かが悪くあってほしかった。素直に喜べないし受け取れもしない。今日何回目かのため息をついて「神頼みはいけないってことか」と、少し苦しい咀嚼をして納得することにした。
時間は有り余っているので、境内を少し散歩した。目に映ったものは整えられた森と、点在するいくつかの小さな社殿と、鳩くらいだった。いつも通りの運の良さでリスも見つけたが、写真を撮ろうとしたとたんに逃げられてしまった。散歩中、もう少し知識があれば見える景色も変わったのかなと少し考えたが、今日はここまで来られただけでも及第点な事を思い出して、八幡宮を後にした。これからどこに行くかもわからないまま。