9話 『シロと海原の旅』
隅田公園から直接つながる橋を渡れば、周りの景色もすぐに違うものとなった。浅草は地上部分に大体店が並んでおり、賑わう繁華街のような印象を持ったが、こちら側はただ人が住むためのマンションが際限なく立ち並んでいて、浅草に比べるとあまりに静かだ。自分の後ろの方から日差しが差し込んでいる。
悪く言ってしまえば冗長な景色だったから、茉莉はあまり景色の方に注意を向けずに考え事の方に集中していた。結局、「忘れてしまうこと」への回答が出せずにいる。それがなかったら、今日の旅もほとんど意味がなかったことになってしまう。
「そんなの嫌だ、けど……」
今日の思い出も、若干薄れはじめていることに茉莉は気づいていた。これを止める手立ても、正当化する手段も、今のところそんなに思いついていない。
『心の穴』を埋める手がかりを探すという目的なら、今日はもう十分達成していた。だからこの旅も全く意味のないものになるわけではない。だが今は、そんな結論でお茶を濁している場合ではなかった。この問題を解決できなかったら、もし明日『心の穴』が埋まったところで、日々を『忘れてしまうような無意味なもの』として過ごさなければいけなくなる。
そんな考え事の時間稼ぎとして歩いていたけれど、10分程度も歩けばスカイツリーはもう見上げないと全てが見えない距離にまで近づいていた。周囲はいつの間にか賑やかさを取り戻している。
たどり着いたスカイツリーの足元には巨大な商業施設が広がっていた。東京スカイツリータウンである。
「とりあえず、入ってみようかな」
先に東京スカイツリー駅の時刻表を見て、大体どの時間でも10分程度待てば電車が来ることを知った茉莉は、もう少し時間に余裕があったので、スカイツリータウンの中身を流し見することにした。中にはここにしかなさそうなお店もあるし、ショッピングモールではよく見かけるような店もある。そうやって見ていくと、この施設の中間部分のスカイツリー展望台受付までたどり着いた。この辺りを散策する時間はあるとはいえ、流石に展望台まで登る時間はない。
「また今度、登りに行こう」
その近くには、すみだ水族館の入り口を示す看板もあった。この水族館はペンギンやクラゲが売りの水族館で、茉莉もペンギンの文字に釣られて水族館に向かおうとしたが、やっぱり時間がない。
「ここもまた今度!絶対行く!」
茉莉の目は輝いていた。
程なくして、ちょうど良い時間に大宮に着く電車が到着する時刻が近づいてきたので、とうきょうスカイツリー駅に戻ることにした。一瞬地下鉄に乗るときに使っていた切符を使おうとして、「おっとっと」と声を漏らしては、すぐにICカードに切り替えて改札を通った。駅に戻ってきたタイミングがちょうどよかったようで、帰りの電車は7分後にはこの駅に到着するようだ。
ホームには茉莉の乗らない特急電車が止まっていた。行先表示には"東武日光"と書いてある。
「日光……この路線をずっと北に行けば、日光に行けるってことだよね」
今まで遠いものだと思っていた日光が、一気に現実的な場所になってくる。
「今ならいけるかも……!」
この数カ月で様々な場所に出かけた経験が、そんな気持ちを後押しさせる。浮足立っていたら、茉莉の目的の電車も到着した。区間急行館林行き。
「館林、聞いたことないけど、どんなところなんだろう」
聞いたことのない地名に対しての興味が、次々と湧いてくる。電車は出発して、墨田区を北上して足立区の北千住まで北上した後は、そのまま東京都から離れて埼玉県へと入った。いつも見ているわけではないけど、埼玉に住んでいれば聞いたことのある草加や越谷などの地名が案内から流れ出すたびに、今日の旅も終わるということが実感になって襲ってくる。
電車が春日部駅に到着するまで約五十分の暇な時間ができたので、やっと今日買った『シロと海原の旅』の冒頭部分だけでも読める状態になった。
『シロと海原の旅』は、海洋冒険記のような形の物語だった。海で隔絶された孤島群に住んでいる少女は、いつか退屈なこの島から出て、その海の先に何があるのかを知りたいと常日頃から願っていた。そんな時、島に数百年に一度の嵐が起きて、島の食料や木材などの資源が枯渇してしまう。そんな折、嵐と一緒に流れ着いた、人の言葉を喋る真っ白な体をしたイルカから、この海の先には、この資源枯渇問題を解決できるような宝がいくつもあることを聞いた少女は、そのイルカに"シロ"という名前を付けて、共に海原へと旅立つ決心をする……というのが、この物語のあらすじ。冒頭部分に没頭していたら、いきなり聞きなれた春日部の地名が電車の案内から流れたときは驚いた。
春日部駅の野田線ホームの階段を降りたら、行先表示を"大宮"にしている電車がホームで待っていて、旅が終わる時間はもうすぐそこまで来ている。
「秩父の時も思ったけど」
電車のドアを通る。発車まではあと2分。
「帰り道がこんなにさみしくなるのはどうしてだろう」
暖かさを失った春風が、ドアからするりと入っては抜けていく。
「でも、この感じもちょっと好きになってきた」
寂寥感に浸っていると、発車メロディーが流れて、ドアが閉まった。電車の中は暖房の暖かい空気で満たされて、ちょっと眠気すら感じる。ちょうどシートの端の席を取れてしまったので、もう本を読む気力もない。そのままシートの端の壁に寄りかかってぼうっとしていたら、各駅停車のはずの電車から聞いた最初のアナウンスは、終点大宮駅の到着を告げるものだった。
大宮駅についてしまったら、あとはもう慣れた帰り道を変えるだけだった。歩いて行けばいくほどに高層の建物は姿を消し、茉莉の住んでいる住宅街にある桜並木も、暗がりでよくわからないながらも、満開を迎えているようだ。通りを曲がれば、あっという間に家に到着した。ここまでの帰り道はあまりにあっけない。
「今日の日も、こんな風にすぐ忘れちゃうのかも」
そんな思考を振り払うようにして、家へと駆けこんだ。
それからは変わらない日常に戻るように時間を過ごした。両親とともに夕飯を食べ、その間今日見に行った桜の事を話した。明日も、友人のみんなと花見に行くことも。その後、入浴を済ませて自室に戻ったら、ベッドにいるグレイの側でスマホを見て過ごした。好きな音楽を聴きながら、今日の桜の写真はもちろん、SNSに上がっている各地の桜の写真を見ては、「ここ、行ってみたいかも」「ここも気になる……!」と次々に言葉を漏らして。
それからどれくらい時間が経っただろうか、先ほど野田線で少し寝たはずなのにもう眠気が襲ってきて、うとうとしながら桜の写真を見ていた茉莉は、何回目かの目が閉じたタイミングで眠りに落ちてしまった。途中、暖かい感覚に包まれたのち、どうやら部屋の電気が消されたらしい感覚を覚えたが、まどろみの中にいる茉莉にとってはどうでもよいことだった。
その晩、グレイと桜の木の下で花見をする夢を見た。夢の中のグレイはやけに饒舌で、その様を見て茉莉はずっと笑っていた。




