1話 桜咲く都へ行こう
道の両脇に大きな桜の木が生えている。大きく腕を伸ばしているそれは道に覆いかぶさるほどの大きさで、花の咲き方もすさまじく、花曇りの空と混じっていることもあって、空の色が上手く見えない。花びらが今にも降って来そうで、それを手で受けたくなる。そんな写真を、満員電車のドアの脇で井町茉莉は眺めていた。
写真は数年前に行った権現堂の写真。埼玉有数の花見スポットであり、春には桜だけでなく、菜の花もきれいに咲く。鮮やかな薄桃色と黄色で染められたカメラロールの中には、その菜の花の写真と、それと同じくらいの満開の笑顔を見せる茉莉自身の写真があった。確かにこんな写真を撮った覚えはあるが、どんな流れで撮ったのかなどは思い出せない。
「あたし、こんないい笑顔できたんだ」
あいにくの曇り空であるのに、それを全く気にしていないような顔をしている。今の茉莉には曇天に気圧されてうまく笑えない自信があるから、自分の表情なのにこの写真がどこまでも羨ましく思えた。
「でも、今日は多分大丈夫」
スマホから目を話せば、窓の外には澄んだ青と、その下には自信ありげに咲く桜。春休みも終盤に差し掛かった春の日に、東京へ花見に行く途中である。今は浦和と赤羽のちょうど中間地点で、ここに至るまでにもいくつかの桜の木が満開を迎えていたのを目にしている。普段は他の木々と変わらないような葉をつける木でも、この時期だけは咲いていればそれが桜だとすぐにわかる。
赤羽駅ではさらに多くの人が乗ってきた。今日は春休みの終盤の方であるが、社会にとっては平日。この路線では日常的なことではあるが、それにしても通勤ラッシュがすさまじい。もうスマホも持てないくらいの混雑になっていたので、おとなしくドアの窓から外の景色を眺めていた。尾久へと向かう車窓。ここまで来たのは今年一月以来二度目の事である。
「たった三カ月前のことなのに、なんだかもう懐かしいや」
藤沢へと向かったときのことを思い出す。その車窓も……。
「そういえばあたし、もうこの辺で寝てたな」
日の出前のこの区間があまりにも退屈だったせいで、当時の茉莉は夢の中である。当然車窓の記憶もないので、懐かしむ余地が無かった。
立地のわりに小さく見える尾久駅を超えて5分もすれば、上野駅に到着した。今日はここで乗り換え。この電車に乗っていた多くの人たちもここで下車して行って、ホームは人以外見えないような混雑模様となっている。その中を何とかかき分けて地下鉄のホームへと向かう。東京散策の計画を立てているときに友人の涼乃が『東京花見の唯一のデメリットは人が多すぎること』と言っていたことを思い出した。
JR上野駅の改札を抜けたらすぐに、地下鉄の方向を示す看板を必死になって探した。幸いそれはすぐに見つかって、緩やかな下り坂が見える地下への入口へと進んだ。
「地下鉄に乗るの、久しぶりかも」
そんなことを考えながら。
改札前の自動券売機で、『東京メトロ24時間券』の発券をした。前回とは違って、駅員に話しかけずとも発見が済んでしまい、「カルチャーショックって多分このことを言うんだよね」と思いながらチケットを受け取る。柄が無く、ただの切符のようなデザインになっているのも過去発行した二種類とは違う点。
改札にその切符を滑らせて、目黒方面へ向かう電車が来るホームで電車を待った。この時間帯は2,3分に1回は電車が来るような時間帯らしく、電車はすぐに来た。相変わらずとてつもない乗車率である。
「この時間の東京って、全部こうなの?」
不満に似た疑問とともに、電車になんとか乗りこんで自分のスペースを確保した。
東京メトロ日比谷線は、北千住を始点としてそこから銀座まで南下した後、銀座から中目黒まで西進する路線である。24時間券を存分に使いたいなどの理由があると、虎ノ門から西は他の東京メトロの路線へ乗り換えられないため、中目黒まで東京メトロで行くなら虎ノ門より東でこの路線に乗り換えければならない。ならば最初に中目黒へと向かってしまおうというのが、茉莉の計画の第一段階であった。『行くのが面倒臭そうなところは先に行っちゃおう作戦』の再来である。
中目黒へと向かう電車は、秋葉原や銀座、霞が関や六本木など、どこかで聞いたことがあるような駅に止まって進んでいく。その駅のすべてで異常なほどの人の入れ替えが行われていく様を見ていた。外の景色が見えないので、自分が今秋葉原や銀座にいるという実感が持てず、乗車中も風景を見るという暇つぶしができず、cmしか流れない液晶を見ていた。それも5個くらいのものをループさせていることが判明して、暇な時間はすぐに戻ってきた。車内アナウンスは次の駅が恵比寿であることを無機質に告げる。
恵比寿駅では多くの人が降りて、残っている乗客は軽い服装の人たちが多くなっていた。この人たちも花見に行くのだろうか。客ばかりをじろじろ見ていても変に思われるので一瞥で済ませて、またドアの窓から外を眺めるようにして、次の駅を待った。次は待ちに待った終点の中目黒駅。地下鉄はずっと外の風景がトンネルだったから、今まで乗ってきた電車の中でも一番暇を感じていた。暇を感じていると、思考は自然と『心の穴』の方へと向かって行ってしまう。それが心に現れてからもう三カ月は経つ。旅の合間にも、満たされない心に対して様々なアプローチをしたが、成果は得られないままだったことを思い出して気分はどんどん沈んでいく。結局、茉莉の心には指のささくれのような不快感を植え付け続ける穴が今も埋まらないまま存在し続けている。
沈んだ気分とは裏腹に、電車はどんどんと坂を上って、地下から出ようとしているようだった。窓から見える壁面がどんどんと明るくなっていって、ついには壁一色だった風景に空の青と目黒の街並みが映った。路線は地下から高架へと移動して、ドア窓の風景は街を見降ろせるものとなって、風景に飢えていた茉莉は食い入るようにそれを見ていた。
「まもなく終点の中目黒」そのアナウンスを裏付けるように電車はどんどん減速していく。変わらず窓から街並みを見ていた茉莉の少し元気のない顔をふわりと笑顔にさせる光景が映る。川に沿って、優しい桃色の花を枝いっぱいにつけた木が無数に並んでいた。光景から推察するに、これが今日初めての目的地、目黒川の桜並木だろう。
数秒のうちにその景色が見れなくなって、電車は終点の中目黒駅に到着した。運よく開く方のドアの前に立っていた茉莉は、さっき心を奪われた景色を早くもう一度見たくて、ドアが開いた瞬間に目立たないくらいの速足で改札の方へと歩いて行った。「あたしの一番好きな季節がやってきたんだ!」その実感と、春風を纏いながら。




