最終話 グレイ、あのね
秩父鉄道を走る急行『秩父路』は、有料で乗ることのできるもので、秩父鉄道の主要な駅のみに停車する。有料と言っても全区間200円というリーズナブルな価格設定で、運行本数が少ないことを除けば秩父から熊谷、羽生方面へと素早く移動できる便利な車両である。車内は前席クロスシートになっており、わざわざ首を曲げたりドアの前に立たなくても外の景色を堪能することが可能である。そんなわけで茉莉は、中途半端に飲み残した水を飲みながら、流れていく景色を眺めていた。行きの時に見たまだ何も植わっていない味気のない田んぼが一面に広がっている景色も、夕日のオレンジに染まっていて、数時間前に見た景色よりも美しく見えた。
電車はあっという間に来た時に止まった駅を通過していって、もう山肌は見えない。今日も無事に行程を終えられた満足感でうつらうつら外の景色を見ていた茉莉は、ついには眠りについてしまった。その間にも次々と駅を通過しては停車した電車は、乗り換えるはずだった熊谷駅すら茉莉を乗せたまま発車していった。電車はまた東へ東へと向かっていく。結局、終点の羽生駅まで到着してしまった。
「お客様、終点でございます」
その言葉を聞くまで目覚めなかったくらい、深い眠りについていたようだ。
駅を乗り過ごしたことに加えて、駅員に起こされた時に寝ぼけて驚き、自分でも訳がわからないような素っ頓狂な声を出して二重に恥ずかしい思いをしたけれど、とりあえず電車から降りることにした。自分の顔が少し熱いような気がした。
「羽生駅なんてあんまり聞いたことがないけど、多分ちゃんと調べれば帰れるよね」
普段だったら、二ヶ月前の自分だったら取り乱していたかもしれないとふと思い出して、成長を実感しながら帰りのルートを探す。1つは、これから熊谷駅まで戻って、今朝来た道をそのまま帰る道。もう1つは、羽生駅を通るもう1つの路線、東武伊勢崎線で南下するルートだった。答えはすぐに決まった。
「ここまできちゃったら、新しい道を試してみよっと!」
今日ずっとお世話になった秩父鉄道のホームから離れて、伊勢崎線に乗り換えた。幸運なことに、電車はすぐにきた。各駅停車久喜行き。
時刻は17時を過ぎていて、外の景色はほとんど見えない。ただどこかの街灯や家の明かりが見えるくらい。することもないので今日の写真を見ながら終点までの到着を待った。南羽生、加須、花崎と、知らない地名の駅を通っていく。撮った写真が橋立鍾乳洞の辺りの物になったところで、終点の久喜駅に到着した。ここからはもう20分程度で大宮駅に戻れてしまう。
駅の階段を上がって乗り換え用の改札を通ると、普段だったら来ることのない構内を、看板を見ながら手探りで南行きのホームまで移動した。それまではそんな気もしなかったが、ホームに到着した緑とオレンジ色の長い電車を見て、旅が終わることを実感して寂しく感じた。一瞬だけ電車に乗るのを躊躇って、それから電車の中へと入っていった。
「ちょっと前まで遠くに行ってみようなんて思ってもみなかったのに、今は帰ることがさみしく感じるなんて」
大宮駅に電車が到着するまでの間、茉莉はそんなことを考えていた。
大宮駅には18時を少し過ぎた時間に到着した。階段を登った改札階には、部活帰りの学生や仕事を終えて疲れた表情の人たちがせわしなく歩いていくのが見える。
「秩父じゃありえない光景だね」
一瞬だけ目を閉じて、浦山口駅の風景を思い出した後、家のある西口の方へと歩いた。今日も酷使した足は悲鳴を上げていたが、「もう帰るだけだから」と、自分の足に対して意味のない説得をした。
10時間以上ぶりに見る自分の家は、思っていたよりも変わらないように見えた。「たった10時間で自分の家が様変わりしてたら、それはそれで怖いね」そんなことを考えながら、ドアを開ければ、いつものように母の瑠璃が「おかえり」と出迎えた。
自分の部屋に戻って、いつの間にか重たくなった荷物からも解放された茉莉は、少しづついつもの生活へと戻っていった。違う事と言えば、食卓での会話の内容が秩父の旅の思い出となったくらい。埼玉の西には山に囲まれた自然が広がっていたこと、秩父鉄道の西の果て、さらにはバスでもっと奥の方へと一人だけで向かえたこと、山のすぐそばにはいつもきれいな川が流れていたこと、挙げていけばきりがない。『心の穴』が開いて以来初めて両親の安心したような表情を見た茉莉は、そこでやっと自分の口数が久しぶりに増えていることに気づいた。
その日はもう疲れてしまっていたので、次の旅で読む本を少し探してからすぐベッドに横になった。グレイも朝と変わらない姿勢でベッドに横たわっている。せっかくだから、眠りにつくまでグレイにも秩父の旅の出来事を話す事にした。
「グレイ、あのね……」




