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たびガール  作者: 諏訪いつき
一部一章 湘南編
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エピローグ 鳩サブレを食べよう

 湘南の旅の翌日、茉莉は胸の辺りと、足の痛みで目を覚ました。

 疲れから随分長く眠っていたようで、日は高くまで昇っている。凝り固まった体を痛みを感じながら伸びでほぐして、ベッドから出た。

「痛たた……」

 とにかく足が痛む。

「もうあんなに歩くことが無いといいな」

 足をさすってつぶやいた。すると寝ぼけていた頭も覚め始めて、そもそもどうしてこんなに歩くことになったのかまで思い出す。

「そういえば、『心の穴』……」

 胸の辺りをさする。昨日あんなに消えてほしいと願った『心の穴』は、確かにそこにある。そんな彼女を、大きな絶望を襲った。

 『心の穴』は埋まらねど、日々はどうしても続くことを苦しみながらも理解していた茉莉は、とりあえず朝食を摂ることにして、一階に降りる。家の中は閑散としていて、人の雰囲気を感じない。そういえば今日は少し遠くまで買い物に行くと両親が言っていた。もう昼も近いので、トースト一枚のみという少なめの内容。

 そのトーストもすぐに食べ終わり、ホットミルクを飲み干して、「ほう」とため息をついた。一月の初旬の冷たい空気に冷まされた体を、日差しとそれで温め直す。

「涼乃が来るまで、課題でもやっていよっか」

 自室に戻った茉莉は、冬休みのうちに出された課題に取り組んだ。今日は昨日の疲れがあると見越して計画を立てていたので、少なめの量ではある。さらに数時間もすれば、昨日買ってきた鳩サブレ目当ての涼乃が自宅に訪れることになっている。『心の穴』をこれからどうしようか、なんて考えながら課題に集中したり、昼食を作って摂っていたりしていたら、その時間はあっという間に来た。家のインターホンが鳴る。玄関前に涼乃の姿があった。

「はーい、いらっしゃい」

「お邪魔します」

 軽い挨拶を済ませて、自室に涼乃を招き入れた。「お茶を持ってきた」と言っていたので、あらかじめ急須と湯呑を用意してある。あとはお湯を沸かすだけ。鳩サブレについては、両親の分をすでに取り分けて、残った八枚を四枚ずつ楽しむことができる状態だ。お湯を沸かすポットを涼乃と一緒に自室に持ってきたので、準備は万端。コンセントに差して、スイッチを入れた。

 正午を過ぎた茉莉の部屋の窓にはあたたかな光が差していて、これだけを見たらまるで冬ではないようである。涼乃が厚めの上着を脱いでハンガーにかけているのを見て、未だに外の空気が冷たいことを悟った。部屋に置かれた小さなこたつからはお日様の匂いがした。昨日外に出ていた時に家族の誰かが干してくれていたのだろう。

「で、どうだった?久々のおでかけは」

「めっちゃよかったよ!海が綺麗で……ほら!」

 スマートフォンに写真を映して見せた。この旅で一番美しいものだったと思う、七里ヶ浜から江の島と富士山が見える写真。写真の中でも海は煌めいていたが、生で見たような煌めきは失われていて、美しいものを見たときの感動が心に残っていた時の感動と、一日経ただけでも色あせてしまう事への寂しさを感じた。

「綺麗……!これはどこの写真?」

「これはね、七里ヶ浜から見た景色。ここの海の音と一緒に見た景色がとってもきれいだったんだ~。鳶はちょっと怖かったけど……」

 目を閉じれば、まだわずかに波の音を思い出すこともできる。目を開いてポットの様子を見ると中の水はぐつぐつと沸き立って、スイッチが押す前の状態に戻ることでお湯ができたことを示した。涼乃はそのお湯をいつの間にか茶葉が入れられた急須に注ぎつつ、会話を続けた。

「ちゃんとリラックスできた?」

「ええと……」

 答えに窮する。確かに心は少し安らいだ気がするけれど、トラブルに襲われもしたし、『心の穴』も埋まっていない。これは休息になったのだろうか。

「あんまり休まらなかった?帰り道、大変だったもんね」

「そー!びっくりしちゃったもん」

「あの時ちょっと泣いてたでしょ」

 涼乃が意地悪な顔で笑いながら湯呑にお茶を入れた。緑茶のいい匂いが部屋を埋め尽くした。

「何で知ってるの……」

 頬のあたりに急に血が巡っていく感覚がする。あまりに恥ずかしかったのか、無意識にそっぽを向いていしまう。

「だって鼻すする音聞こえたし。さ、準備できたよ」

「もー!恥ずかしい!」

 照れ笑いの表情でそう言った茉莉は、息を整えて「じゃあ食べよっか」と鳩サブレのパックに手を付けた。

 示し合わせたかのようにパックから鳩サブレを出した二人の手が止まった。

「「どこから食べればいいの……」」

「茉莉は普段こういうタイプの食べ物どこから食べてる?」

「わかんないけど……私はもう頭から行っちゃう決心はできたよ」

 そう言うと、茉莉は鳩サブレに頭からかぶりついた。なんとなく食べる勢いの時は、目を瞑っていた。

 それを見た涼乃は少しの間呆気にとられた表情をしていたけれど、やがて決心した表情を見せて、鳩サブレの両端を持ちそれを半分に割って、しっぽの方から食べ始めた。結果的に、茉莉の皿には首が無くなったものと、涼乃の皿には上半身のみが残されている鳩サブレが残った。それはそれでなんだかおかしくて、二人でくすくす笑った。お茶をすすれば、茉莉には今この場所が世界で一番穏やかなところであるという不思議な自信があった。「美味しいね」「うん、バターのいい香り」それぞれ、そんな感想を言った。

「それで、これからはどうするの?」

「どうするのって……何を?」

「まさか、ずっとその浮かない顔のままこれから生きていくつもり?」

「……」

 言葉に詰まった。このままではいけないことは十分承知しているけど、前回の旅があってこれではもう打つ手がないと感じていた。だから、ばつの悪い顔をして黙っているしかない。そんな茉莉をよそに、涼乃は目の前で悠長にお茶をすすった。どこまでも人の気を知らないなと思ったけれど、その気持ちを伝えていないのは自分だったことをすぐに思い出して、さらに言葉が出なくなる。しばらくは二人とも鳩サブレとお茶を交互に口に入れる時間になった。なかなか気まずい空間になってしまったので、観念してぽつぽつと話す事にした。

「私……は……、自分の中で何かが足りないような気がして、でも何が足りないのかわかんなくて……。色々試してはみたんだけどダメで……。だから、『どこかに出かけてみたら?』って言われて、それなら何か満たされるのかなって私も思ったんだけど、結局ダメだった。だけど、私はどこもそんなに具合悪くない。これくらいのこと、誰かに相談するまでもないし、するとしてもどう言えばいいかわからなくて。こんなの……ヘン、だよね」

 雰囲気を何となく誤魔化そうとして、ぎこちなく笑顔を作った。涼乃はそれを聞いて鳩サブレを少し咥えて固まったあと、我に帰ったように食べ切ってお茶をまた飲んだ。

「そっかあ」

 そんな返事が返ってくる。こんな話、漠然としすぎているし、反応に困っただろうと思っていたから、この返事の薄さでも何も文句はなかった。

「茉莉にとってはもう何も打つ手がないと思ってる?」

 自分の不調の話はさっきの返事で終わりだと思っていたから、その質問は不意打ちのようであった。

「うん。これ以上はわかんないや」

「でもさ、それで何もしなくなるようだったらいつまでもそうやって辛いままだよ」

「うーん……」

 また思考の渦に飲まれる。自分がこれ以上できそうな、『心の穴』を埋める手段。でもそんなのってあるの?と自信のない問いは消えなくて、何も浮かばない思考はさらに深く沈む。涼乃の助け舟が出るまでは。

「たとえば、またどこかに行ってみるとかね。観光地って湘南だけじゃない。今まで見なかったような景色に出会えれば、何か変わるかも」

「うーん……」

 その提案には不信感があった。湘南で、見たような景色を見ても、しなかったような体験をしても埋まらなかった『心の穴』は、果たして同じことを繰り返しても埋まるのだろうか。

「自分でどこかに動機を作れないなら、私が作ってあげる。またこうやってお菓子と一緒にお茶したいから、お茶に合うお菓子を買ってきてよ、私もいいお茶持ってくるから。とにかく、行動あるのみだと思う!何もわからなくたって、とりあえず体を動かしてみない?」

「行動あるのみ……ねぇ……。涼乃だったら、次はどこに行けばいいとかある?」

「それは……この前も言った気がするけど、自分が行きたいところに行くのがベストなんだから、茉莉が決めるべきだよ」

「う……」

 「自分が行きたいところ」という項目について全く頭が回らない。自分の観光地についての知識があまりに薄いことを恨んだ。

「また江の島みたいな遠いところじゃなくてもいいと思う。具体的にどこがいいとかは私もわかんないし、それは茉莉が決めることだけどさ」

「そっか、確かに」

 盲点だった。成果があるかどうかもわからない所へ移動に時間とコストがかかってしまう点でどこかへ行くことを渋っていたが、それなら……と多少の活力が湧いてくる。

「ま、今日急いで次やることを決めなくてもいいんだし、じっくり考えてみてもいいんじゃない?昨日いろんなことがあってまだ疲れてるだろうし」

「うん、でもまたなにかやってみようって気になった。ありがとうね」

 茉莉はくすぐったそうに笑った。久しぶりに、心の底から笑った気がした。

「いいってことよ、お菓子、楽しみにしてるから」

 そういって涼乃も満足げにほほ笑んだ。何が満足だったのかはわからないけれど。

 その後は二人で何でもないような談笑をして過ごした。なぜだろうかこの時間を大事にしなければいけないような気がして、同じように鳩サブレも大事そうに食べきった。

「そのイルカ、水族館で買ってきたの?」

 昨日連れてきたイルカを指さしてそう聞かれた。

「そう!かわいいでしょ」

 せっかくなので持ってきた。毛並みも表情も柔らかい。

「名前は決めたの?」

「え、名前って付けるものなの?」

「せっかくならつけた方が愛着よくない?」

「うーん……確かに?」

 それから少し考え込んで、そのあとひらめいたような顔をした。

「あなたは灰色だから……グレイ!どう?」

「いいじゃん、きっと喜んでるよ」

 いつの間にか頬杖をついていた涼乃は柔らかい表情をしている。

 陽が赤くなり始めたあたりで、お茶会はお開きとなった。涼乃と「またやろう」と約束して、玄関先まで見送った。今度はもう少しだけ友達を増やしてするのもいいねという話をした。

 部屋には緑茶の良い匂いがして、眠気すら誘ってくるようだ。あまり寝てはいけないと思いつつも、「横になるだけ」と言って、グレイとベッドへ向かった。

 その日、結局夕食の時間まで眠ってしまった茉莉は、晩に寝付くまでずいぶん苦労した。

 

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