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たびガール  作者: 諏訪いつき
一部一章 湘南編
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最終話 帰ろう

人でごった返しているJR藤沢駅の改札の前で、茉莉は立ち尽くしていた。

 乗る予定だった東海道線が人身事故で運転を見合わせている。そのうえ発生時刻が十数分前と近いので待っていてもどうしようもない。数分前「運転再開時刻は未定となっております」というアナウンスが聞こえたことがとどめとなっている。

「どうしよう……」

 自宅から遠く50km以上離れている知らない土地で、いつも使わない知らない路線しか通っていない駅。かろうじて調べてある乗るべきだった路線すら使えていない状況で、茉莉の頭の中が真っ白になることは必然であった。

 改札前の混乱は勢いを強めていて、ただでさえ人の多い中喧噪がひどくうるさい。一度駅員に何かを聞いてみようと考えた時があったが、同じことを考えている人が他にも多くいて駅員の手も回らない様子であった上、今では駅員を怒鳴りつけている人までいる。

 あまりにひどい混乱の様子であったので、一度外へ出ることにした。が。

「雨……」

 数時間前の晴天はどこへやら。駅一帯はそこそこ強い雨に包まれていて、気温もひどく下がっている。

 これにてとうとう八方ふさがりになった茉莉は、今度は失せた気力をどうにかして振り絞って、思考を回し始めた。

 これからどうしよう。

 お母さんに「晩御飯の時間には戻るね」って言ったんだっけ。

 これじゃあ無理だよね。

 じゃあこっちでご飯食べなきゃいけないのかな。

 雨の中は移動したくないし、お腹減ってない……。

 何とかして帰る方法ないかな、でも、おかしな路線に乗って、変な場所に連れていかれたら怖い。

 もう足パンパンで動けないや。

 なんでこんなところにまで来たんだっけ。

 そうだ、心の穴。結局空いたままだ。

 こんなことになるなら、もういっそ……。

 思考はどんどんとネガティブになって、ついに朝会った茜との約束を破ろうとする思考が現れはじめたその時、茉莉のポケットの中で沈黙を保っていた携帯が震えた。着信だ。縋れる物には何にでも縋りたいという短絡的な思考から、発信者の名前すら見ずに応答ボタンを押した。

「もしもーし、そっち大丈夫そ?」

 軽い口ぶりの話声が聞こえる。

「涼乃、どうして」

 声の主は涼乃であった。「なぜちょうどこのタイミングで電話をかけてきたのだろう」という内容を喋ろうとして、焦りでうまく言葉が出なかった。

 「スマホ見てたら東海道線が止まったってニュースが流れてきて、そろそろ茉莉が帰ろうとする時間かなーって。それに茉莉のことだから、これからどうやって帰るのかわからなくてそこらへん焦ってうろついて、『こんなことなら来なきゃよかった』って後悔する頃だろうし」

 茉莉は大きくため息をついて、「正解」とだけ返した。

「まだあきらめる時間じゃないよ。そっちから小田急線、見える?」

「うん、見える」

 ちらりと小田急線の改札を見やった。

「そしたら、新宿へ向かう電車があるはず。とりあえず新宿まで行ったら何とかなるはずだから、とりあえずそこへ向かいな」

「でも私、新宿駅迷いそう……。」

「小さかった頃の思い出があるかもしれないけど、茉莉ならきっと大丈夫。今朝も言ったでしょ?」

「また根拠のない……」

 その言葉を言い切ることなく涼乃の言葉に遮られた。

「それに!今あなたの鞄の中には私の大事な鳩サブレが入ってる。無事に持って帰ってくれなきゃ困るんだから。わかった?」

「……わかった」

 冗談を言い返す気力もなかったので、単純な返事で返した。

「じゃあ私、これからお風呂だから切るね。新宿駅でどうしても行き詰まったら連絡して」

「うん。ありがと」

 電話は切れた。

「……よし、帰ろう!」

 知らない場で予期せぬアクシデントに遭遇してしまった恐怖と心細さから出た涙を拭って、小田急線の方へと歩きだした。

 改札にICカードをタッチして、小田急線のホームヘ降りた。すると涼乃が言っていた新宿駅の電車が、茉莉の元からどんどんと遠ざかっていった。意図せずまた大きなため息が出た。

「次の新宿行きは20分後か。うん、ちょっと休も」

 半ばパニック状態だった数分前からだいぶ落ち着いた。

「お茶でも飲みますか」

 自販機で小さいペットボトルの暖かいお茶を買ったら、ベンチに座って次の電車を待った。

 お茶を飲みつつ、茉莉は空を見上げた。ホームの屋根の隙間からは真っ黒な空があって、そこから絶え間なく雨粒が落ちてきている。朝と同じ張り詰めた寒さで、手が悴む。それをどうにか抑えようと、暖かいお茶をずっと両手で包んでいた。

 予想よりも早く電車は来た。電車は藤沢駅で折り返すことが多いようで、到着した電車の乗客は全員降りて、幸運にも端の座席に腰掛けることができた。頭上の荷台にはイルカのぬいぐるみが入った手提げ袋を置いて、膝の上に背負っていたリュックサックを乗せた。

 到着が早かった分、電車が出発するまでは少し時間があった。それでもしばらくすると冷たい空気を誘っていたドアは閉じて、さっきまで座っていたベンチが右に流れていくのが見えた。

 電車は加速を初めても、暗闇を写している窓からは何も見えない。ただぶつかった雨の礫が、窓の右から左に流れていくだけ。それが心細さをまた想起させていた。これからどこを経由するのか、あとどれくらいで新宿かどうかを頭上にある案内板で調べようとしたが、湘南台、大和、中央林間と、知らない地名が並ぶだけで、何もわからない。電車の中で少し眠ろうとした茉莉だったが、眠気よりも不安が勝って、ずっと知らない駅の名前が表示されている案内板と、雨の礫を見ていた。

 「町田って、結局神奈川なんだっけ?」

 この程度の知識であるが、ようやく彼女の知っている名前の土地がぽつぽつと見えるようになった頃、一旦心も体も休まったので新宿駅での乗り換えを調べることにした。相変わらず構造図は一切意味が分からない状態ではあったが、改札を1回通らなければならない事、埼京線もしくは湘南新宿ラインを使えばこれ以上の乗り換えなしで大宮駅まで帰ることができること、幸運なことにどちらの列車も同じホームから発車することまで調べがついた。あとは実際に駅についてからの勝負。

 一通り帰り道について調べ終わったとき、幼少期新宿駅で迷子になったことを思い出した。あの時は母親の用事で新宿駅に来ていて、何かの拍子でつないでいた手が離れてしまったのだった。

「どこに行けばいいかわからなかったから、迷っただけだよね」

 何とかして母親に会おうとして、何もわからない新宿駅を考えもなしに歩き回ったせいで、かえって状況を悪化させたことを思い出して、苦い顔をした。結局、彼女の号泣に気づいた駅員が機転を働かせてくれて、ちゃんと母親と再会できた、というのが事の顛末であった。あの時は勝手にどこかへ行った自分は叱られると思って怯えていた茉莉だったが、実際のところは注意はほどほどに、むしろその日の食卓にちょっと美味しいプリンが出されたことまでを思い出したあたりで、新宿駅に到着する旨のアナウンスが流れた。

 「JR線は……。あった」

 幸運にも降りて階段を上がったらすぐにJR線への連絡口を見かけた茉莉は、わき目もふらず一目散にそちらへ向かった。電車の中の作戦会議で、「余計なことをしたら絶対に迷う」と予測していたので、痛みで少しふらついていてもその足には迷いがない。その甲斐あってか、あれほど恐れていた新宿駅の移動も案外あっさりと終わりを迎えた。帰りの通勤ラッシュでごった返す四番線ホームの中、次に来る電車にグリーン車がついていることがわかったので、茉莉は自分の足と手提げ袋をそれぞれ一瞥して一目散にグリーン券を買いに走った。

 どこを見ても人のいる自分の周りに目を回しているうちに電車は到着した。見慣れた色と行先のそれに急ぎながら乗ったら、荷物を適当に置いてグリーン車の特権、空いた席に腰掛けて間もなくリクライニングを倒した。次の駅は池……。

「間もなく、大宮、大宮です。お出口は、左側です。」

「え?」

 意識を失った記憶すらないが、意識を取り戻した瞬間には既に大宮駅が目の前になっていた。ずっと知らない景色ばかりを目にしていたので、見慣れた大宮の景色が始めて恋しく思える。ここまでは予想できていたことだけれど、その恋しさの中に、少しの寂しさがあるのには驚いていた。

 あとは見慣れた道を歩くだけ。思えば長い旅だった。太陽が昇る前に大宮を出て、太陽が沈んでいる時間帯に戻ってきているから、どこか不思議な気持ちを抱えて痛んだ足とともにとぼとぼと家までの帰路を歩いた。やっぱり見慣れた景色は安心するなぁと思いながら。

「ただいま~」

「おかえり、大変だったね」

 玄関で母親の井町瑠璃(いまちるり)が出迎えた。見慣れた、穏やかな目をしている。

「本当!電車がちょっと怖くなっちゃったよ」

「ご飯もうできてるから、荷物置いてすぐ降りてきて」

 持っていた手提げ袋を見てそう言われた。何が入っているか詳しくは聞かれなかったが。

 14時間ぶりに戻ってきた部屋は、明かりをつければ何も変わらない。それはこの上ない安心感を与えてくれるもので、すぐにベッドに入りたい気持ちを抑えて、食卓へと向かった。

 食卓では父親の井町柊(いまちひいらぎ)が先に食事をとっていた。藤沢駅を立つ頃くらいには平静を取り戻して家蔵とも連絡を取り合っていて、「ご飯先食べて」と送っていたので、もうすでに食事は半分程度済んでいた。

「おかえり、茉莉」

「パパ、ただいま!」

 食卓にはオムライスが置かれている。「いただきます」と小さく唱えて、それに手をつけた。

「どうだった、江ノ島は。リラックスできたか?」

「楽しかった……けど、歩き回ってたからリラックスとはいかなかったかも」

「そうか」

 その言葉の後、不思議な沈黙が流れた。まるでここからどうやって話を続ければいいのか忘れたかのように、言葉が続かない。居た堪れなくなったと思わせてしまったのか、それとも単純に自分の分を食べ切っただけかは定かではないが、柊は食卓を離れた。

 入れ替わるように食卓に座った瑠璃といつもと同じような会話をしながら晩御飯を済ませたあと、疲れた体雨を癒すためにお風呂に長めに浸かった。リラックスがしたくて伸びをしたのに、『心の穴』が痛んで顔を顰めた。

 入浴も終えて疲労もピークに達したから、部屋に戻って早めに眠ることにした。置かれたイルカのぬいぐるみ見かけて取り出したら、「一緒に寝よっか」と囁いたら、飛び込むようにベッドの中に入って、布団をかけた。電気を消したら途端に瞼が重くなって、自分に蓄積された疲れの重みを知った。

 閉じた瞼の裏で、茉莉は多くの景色を見た。道すがら偶然出会った優しい人。緑色の、小さくて可愛い江ノ電。鳩いっぱいの鶴岡八幡宮。自分の何倍もある大仏たち。見たかった、何処までも青く続く海。シーキャンドルから見た景色。鼻には潮の香りが、耳には潮騒がほんの少し残っていて、横たわれば電車の中にいるような揺れを感じた。それらをぬいぐるみと抱えて、深い眠りへと向かった。

「明日には、この『心の穴』が無くなってるといいな」

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