プロローグ Bon voyage!
年が明けて十日ほど経った頃、冬の寒さは終わりを見せず猛威を奮い、それは埼玉の街の、小さな部屋にまでも及んでいた。
胸の辺りの真ん中にチクりと痛みを覚えた少女、井町 茉莉は、そんな冷え切った部屋の中、アラームをかけていた時刻の五分前に目を覚ました。
何やら夢を見ていた気もするが、その内容はおろか、眠りについていた時の記憶も曖昧である。けれど、普段だったらベッドに入り直すか考えるくらいの寒ささえ消し飛ばす程に、今日することだけははっきりとわかっていた。
「今日こそ、この『心の穴』を埋めるんだ!」
体にグッと力を込めて気合いを入れたら、昨日のうちに用意していた服に着替えて、荷物をまとめて、まだ起きていない家族を起こさないようにこっそりと家を出た。
時刻は午前5時、吐く息は白く、張り詰めた寒さが頬を襲う。ちょっと家に戻りたくなるのを抑えて、駅までの歩みを進めることにした。最寄りの大宮駅までは、だいたい7分。
空は未だに暗く、暗闇に穴を開けたように星が光っている。そのまま歩いていると、道の先に見知った姿が見えた。茉莉の幼馴染で親友で同級生の、風見涼乃だった。
「おはよ」と二人は挨拶を交わして、いくつかやりとりをしたら、茉莉が駅に着くまで涼乃も一緒に着いてきてくれることになった。涼乃は朝の散歩中だったらしく、寒くならないのか不安になるくらいの格好に、いつもは見ないメガネをかけていた。曰く、「休日にコンタクトはめんどい」との事だった。
茉莉は不安げな顔をする。
「私、ちゃんと江の島まで行けるかな……?」
「ちょっと電車に乗るだけでしょ?」
「うう、私自力で埼玉から出たことないんだって……」
無論、茉莉だって他の県に出かけたことはあるが、大抵は学校の行事か、家族に連れられて、というケースで、自身もそれに満足していた。欲しいものはあっても、大体の物は埼玉でそろってしまう。娯楽も然りだ。ないものは海くらい。
茉莉がはじめての旅に江の島を選んだのも、これが大きな理由になっていた。久しぶりに海を見に行きたい。
「そうだ!言い忘れてたけどさ、あっちの方まで行くんならさ、鳩サブレ買ってきてよ、鳩サブレ」
「もー、人の気も知らないで……」
そんな何でもないような会話をしていたら、大宮駅はすぐに見えてきた。いつもは人がうんざりするくらいいるけれど、休日の朝の早い時間だからであろうか、視界に見える人の数もまばらである。
「じゃあ、私はここで」
「うん、行ってくるね」
まだ不安げにそう言った茉莉へ、涼乃は笑顔で手を振った。
「茉莉ならきっと大丈夫!良い旅を!」
「……うん!」