8.金色の瞳の婚約者
目の前で、口から血を流して母が倒れる。立ち上がったユリウスも、その瞬間にめまいを起こして膝をつく。それでも必死に母にすがりついたが、徐々に視界が暗くなっていく。
意識を失う直前、ユリウスの耳に母の最期の言葉がかすかに届いた。
「……隠しなさい。身を守れるように、なるまでは……」
寝台で半身を起こしたユリウスは、細く長い息を吐き出すと、汗のにじんだ額に貼りついた栗色の髪をかき上げた。
クリスティーナは約束通り、ユリウスの事情を家族の誰にも話していない。だが、もし話してよいと言われたとしても上手く説明できる自信はなく、結果としてあまり負担を感じてはいなかった。
なによりも、クリスティーナ自身がまだ、事態をよく飲み込めていなかったのである。
クリスティーナが、それほど思い悩んでいる様子がないことに家族は皆、胸をなで下ろした。
しかし、夏の間をバレンシュテット領で過ごすことになった、と聞くとヨハンは渋面をつくって娘に問いかけた。
「本当に大丈夫かい?」
「大丈夫ですわ、お父様。ユリウス様が領内を案内してくださるそうですわ。夜会もあるとうかがいましたけれど、ごく親しい方々だけの集まりで、わたくしをご紹介くださるのですって」
娘が無理をしているのではないか、とヨハンは心配していたが、拍子抜けするほどにクリスティーナは淡々としていた。
ユリウスの事情とやらは聞けないが、バレンシュテット家の対応を見ていたヨハンは、重大な問題があるのだろうと想像していた。
おそらく、クリスティーナの理解が及ばぬほど複雑な事情なのだろう、とヨハンは事態をほぼ正確に把握していた。
出発の朝、アンハルト男爵邸へクリスティーナを迎えに来た水色の瞳のユリウスは、男爵夫妻とフランツに丁寧に挨拶をした。
はじめてユリウスを見たアンナとフランツは、その美貌に言葉を失った。フランツはクリスティーナの顔をまじまじと見つめ、妹から実に嫌そうににらまれた。
唯一平静を保っていたヨハンは、慇懃に礼をして愛娘を美貌の婚約者に委ねたのであった。
夏の日差しの下、バレンシュテット辺境伯家の馬車はユリウスとクリスティーナを乗せて、西の領地へと向かう。
馬車の中で、クリスティーナと向かい合って座る婚約者は、金色の瞳を三日月のように細くしてご機嫌の様子だ。
「そのように気軽にお見せになって、よろしいのですか?」
「この姿で気軽に接することのできる相手が、今までいなかったからね」
アンハルト家では完璧な貴公子であったユリウスが、目の前で足を組む姿に驚きつつも、クリスティーナは受け入れてしまっている。
ユリウスが機嫌よく寛ぐ様に、クリスティーナの緊張もゆるんでしまったのかもしれない。
「とはいえ、少し話しておかねばならないこともある」
ユリウスが指を鳴らすと、水色の光が車内をふわりと満たして消えた。
「『水』の色なのですね」
「瞳の色にかかわらず、どちらも等しく使えるよ。『風』の光が外に漏れて、人に見られたら面倒だ」
「魔力を指先だけで操る方を存じませんわ。わたくしの魔力はあまり光りませんし」
「目立たないほうがよいことも多いだろう。僕の場合は光を消すために、さらに魔力を使うことになる。そういえば、クリスティーナはどれくらいの魔法を使える?」
クリスティーナは指を折りながらこたえるが、手の動きはすぐに止まる。
「探査と、分析、おおまかにですが。あとは治癒を少し。役に立つものはそれくらいです」
「分析の魔法とは珍しいな。どのように?」
ユリウスは興味深い、といった表情で組んだ足の膝に手を乗せた。
「本当に大したものではないのです。見た目は綺麗な果物の中が傷んでいるとか、皮膚に触れると炎症を起こす植物がわかるとか、それくらいですわ。兄には占いみたいだと笑われました」
「良し悪しを判断できるということか?」
「『良いもの』は漠然としていますので、わかりません。『悪いもの』については明らかですので、良くないもの、とわかるだけです。分析というにはお粗末ですが、教えてくださった精霊術士様は『分析の魔法』と仰いましたので」
林檎の中が腐っていることはわかる、しかし林檎が一般的なものであるのか、特別に美味であるのかは、人の味覚にも依存するので分析できない。
クリスティーナの説明にユリウスはうなずいて、口角を上げる。
「覚えていて損はないだろう」
「ありがとうございます。精霊術士様はもっと詳しく把握しておられましたが、わたくしにはそこまでの力はありませんので。ときどき役に立つことはありますけれど」
ユリウスは笑みを崩さずに、クリスティーナの首もとに目を向けた。
「僕の精霊石は身に着けているか?」
「はい、ユリウス様が言われた通りに。それに、こちらのネックレスも、ありがとうございました」
クリスティーナは、ユリウスの精霊石をドレスの内側に隠した上に、同じ金の鎖に天色のベリルがあしらわれたラリエットネックレスを着けている。
正式な婚約を結んだときに、ユリウスから贈られたものである。
精霊石のネックレスと鎖の形が同一であるから、二重のラリエットが三重になっているように見える。さらに同じベリルのイヤリングが耳に揺れれば、胸元に精霊石をしのばせていることは、見た目にはわからないだろう。
満足そうにうなずくユリウスは、はにかむクリスティーナに極上の微笑みをおくる。
「イヤリングまで、わたくしにはもったいないと思うのですが……」
「そんなことはない。僕がクリスティーナのために選んだものだ。よく似合っている」
「あ、ありがとうございます」
金の瞳のユリウスは高慢なようでいて、率直な言葉に取りつくろう気色はない。
頬を染めるクリスティーナは、水色の瞳の君への憧れと、金の瞳の人へのときめきが共存する、奇妙な心情を持て余していた。
――どちらもユリウス様なのよね――
「精霊石は好きにして構わないが、魔力を使ったらおしえてくれ。常に力の満ちた状態で身に着けておくように」
「わかりました」
「魔力を補えば、ほかの魔法も覚えられるかもしれないな。一度、その精霊術士にも会ってみたい」
クリスティーナが珍しく寂しそうな顔つきになる。
「お年を召された方でしたので、二年ほど前にお亡くなりになりました。わたくしも、もっと教わりたかったのですが」
「それは残念だ」
ユリウスは少し考えると、軽くうなずいて言った。
「王都へ戻ったら、僕が教えよう。身を守る結界くらいは使えたほうがいい」
クリスティーナは驚いて、少々大きな声になる。
「そのような魔法を、わたくしでも使えるようになりますか?」
「その術士は、かなり優秀だったのだろう。先日の探査の魔法は見事だった。魔力量が多ければよい、というものでもないからな。魔力の扱いはかなり上手にできていた」
ユリウスの見立てでは、クリスティーナの魔法は、必要最低限の魔力のみで効果を得られていた。
己の器以上の魔力を扱うことは難しいが、常人が多くの魔力を必要とする魔法も、クリスティーナの方法であれば、少ない魔力でも使えるようになるかもしれない。
「アンハルト家では、クリスティーナの器が一番大きいと聞いたが、君が家を出ても大丈夫だろうか?」
「両親も兄も貴族籍ではありますし、毎年納める精霊石くらいは問題ないと思います。わたくしが家を出るとは……」
「もちろん結婚後のことだが」
「結婚……」
「婚約解消はない、と言っただろう? 私の気持ちは変わらない」
金の瞳には、それ自体に魔力があるのかもしれない。ユリウスの口から流れる言葉が、急速に現実味を帯びてクリスティーナの耳に入る。
クリスティーナの顔が見る間に赤くなり、ユリウスは声を上げて笑った。
「おかしいな、真剣に伝えたことは信用されず、軽く話せば心に届くようだ。逆ではないのかな?」
「あのときは、いえ、今もかもしれませんが、わたくしがバレンシュテット家に嫁ぐなどとは」
ユリウスの手が伸びて、クリスティーナの口を押さえた。唇に触れる長い指は冷んやりとしているのに、クリスティーナの頬はこれ以上ないほどに熱い。
「僕は、クリスティーナを妻にする、ともう決めている。これから大変な思いをさせることもあるだろう。だが、僕の気持ちだけはどうか疑わないでほしい」
いつの間にか笑みが消えた一途な眼差しに、クリスティーナは目を見張る。
どうして、ユリウスはそこまで想ってくれるのか。知りたいけれど、それを口にすることは許されない気がして、クリスティーナは目を閉じてただうなずいた。
「ありがとう。誰になにを言われても、気にすることはない。必ず守るから。……本邸で気をつけてほしいことを話しておこうか」