7.ユリウス・アーダルベルトの事情
「ユリウス様?」
「そう、ユリウス・アーダルベルト・バレンシュテット。君の婚約者になる予定の」
その人は確かにユリウスの顔をしているのに、美しい面にはいつもの涼やかな水色の瞳がない。代わりに満月の光を閉じ込めたような金の瞳が、クリスティーナを射抜く。
水色の瞳は『水の精霊』の加護、金色の瞳は『風の精霊』の加護を表す。
「……瞳の色が、加護が違う?」
こぼれた言葉に、金の瞳は弧を描いた。
「加護が異なるのではなく、もうひとつの加護だ。『水』と『風』、ふたつの加護を持っている。だが、普段は『風』の加護を隠して過ごしている」
「ふたつの加護? そのような器を持つ人がいるなんて、聞いたことがありません」
瞳の色は加護を表すが、通常はクリスティーナのように、ひとりに与えられる加護はひとつである。
例外は、アンティリア王家の直系に現れる虹色の瞳だ。アンティリアの王族は、全ての加護を受ける虹色の瞳を持つが、その中には必ずひとつ際立って輝く色がある。
「少なくとも、現在、王家の方々以外で複数の加護を持つ貴族は、僕だけだろう。在野の魔術士まではわからないけれどね。そしてこれが、僕が王太子殿下の学友に選ばれた本当の理由だ」
「本当の理由?」
「バレンシュテット騎士団は国軍の要だ。その家に王族に次ぐ器を持つ男子が生まれた。この意味はわかるかな?」
クリスティーナは目の前で起こったことを、まだ飲み込めていない。この人は誰なのか、ユリウスと名のってはいるが、いつものユリウスではない。
「わかりません……」
なにもかもが、とは言えなかった。
「僕が騎士団を動かして叛旗を翻す、などということが起こらないように、はやいうちから釘を刺したわけだ。さらに言えば、王太子殿下に僕をからめ取らせておこうとのお考えだろう」
「貴方は誰なのですか?」
ユリウスであるはずの男は、失笑した。クリスティーナは困惑して眉をゆがめる。
「失礼。僕と王家の話など、君にとってはどうでもいい、ということに気がつかなくて。そうだな、父上は普段はユリウスと呼び、瞳が金色のときはアーダルベルトと呼ぶ、そのように分けているけれど、そもそもこれを知っているのはほんの数人だ」
「アーダルベルト様? ユリウス様とおふたりいらっしゃるということですか?」
「いや、ユリウスであり、アーダルベルトでもある。ユリウス・アーダルベルトはひとりだ、と僕自身は認識している」
彼はクリスティーナを真っ直ぐに見つめて、口角を上げた。このような表情をするユリウスを見たことがない。
「ただ、人には性格が変わったようにも、ひとつの体にふたりの人格が在るようにも、見えるかもしれない。だが、僕は水色の瞳で過ごした時間を全て覚えているし、逆に戻ったときも、今のことを忘れはしない」
「でも、『はじめまして』と仰いましたよね? わけがわかりません」
クリスティーナは途方に暮れるが、金の瞳から目を逸らすことはできない。その瞳も、クリスティーナを逃さない。
「君にとっては『はじめまして』だろう? 金の瞳で、このように話すユリウスを知らないはずだ。大きな器がふたつの加護を受けるのか、身の内にふたつの器があるのか。詳しいことはわからないが、表に出る加護が変わると僕の意識も変わる。そのこと自体は大した問題ではない。この事情を隠しているわけは、先ほど話した王家の指示によるものだ」
ユリウスであるらしい人は、クリスティーナの思考を待ってはくれない。
「僕には加護がふたつある。そして将来、バレンシュテット騎士団を受け継ぐ。幸い父上は陛下の信任の厚い忠臣だ。しかし、この面倒な器を抱えて生まれてきた嫡男に、厄介な家の娘が縁づいては困る。陛下と王太子殿下のお考えが一致して、この縁談が仕組まれた。君は巻き込まれたわけだ。アンハルト卿が野心なく、真面目な人柄であったことが、見事に裏目に出たな」
淡々と語る彼は、まるで他人事のような口ぶりである。
水色の瞳のユリウスは、婚約に前向きであるように見えたが、金の瞳のユリウスは、そうではないのかもしれない。
クリスティーナは不安に襲われるが、だからといってどうすることもできない。
「わたくしは、どうすればよろしいのでしょうか?」
「……なにもしなくていい。予定通り、近日中に正式に婚約を結び、君は僕の婚約者となる。もはや、いや最初から君に『否や』はない。そうだろう?」
冷たく言い放つ様子は確かに別人のようだ。それでも彼の言葉は正しい。今まではユリウスの気遣いによって、目を逸らす隙間があっただけなのだ。
「はい。あの、『アーダルベルト様』は祖名ですよね? どのようにお呼びすればよろしいでしょうか?」
アンティリアの貴族は、家名の前にふたつの名前をつける。ひとつ目は個人の名前であり、こちらが呼び名となる。ふたつ目の名前は、その家系に連なる人物の名を受け継ぐ。
これを祖名という。先祖にあやかり、家の一員としての証とされるが、多くの貴族は由緒ある家だと示すために、より古い時代の名をつける。
祖名は、自らが名のるとき以外に使われることはほとんどない。目上の人物に対して、祖名のみで呼びかけることは非礼にあたる。
婚約者となれば、公の場以外で呼びかけることは許されるだろうか。クリスティーナは、誰かに祖名で呼びかけた経験はない。
「……君の好きに呼べばよい。どちらも僕の名だ」
クリスティーナには金の瞳がほんの少しだけ、揺らいだように見えた。それが意味するものはわからなかった。
「でしたら、今まで通りユリウス様とお呼びします。わたくしは、ユリウス・アーダルベルト様の婚約者になるのですから」
金の瞳が一際大きく開かれた、その直後にユリウスは声を上げて笑い出した。クリスティーナはその様子を呆然と見つめる。
「あの、ユリウス様?」
「いや、失礼。それで、クリスティーナ、君のほうから聞きたいことはなにかあるか?」
「今のユリウス様も、わたくしとの婚約をお望みですか?」
不安そうなクリスティーナの表情に気づいたユリウスは、やっと少しだけ柔らかい笑みを見せた。
「先ほどの言葉は僕のものでもある。『ともに歩んでほしい』、それも変わらない。クリスティーナは受け入れてくれるのだろう?」
クリスティーナは金の瞳の中に水色の光を探すが、それは一筋たりとも見あたらなかった。
「はい」
「よかった。ほかには? まあ、これから話す機会はいくらでもあるだろうが」
「お約束の通り、わたくしがユリウス様のご事情を話すことは、誓っていたしません。ですが、どなたがご存知でいらっしゃるのか、うかがってもよろしいですか?」
笑みを消したユリウスは鋭い眼差しでうなずき、口を開いた。
「まず、父上と陛下、王太子殿下は当然ご存知だ。あとは、当家の家令だが、これは今この別邸にいる執事ではなく本邸にいる者だ。同じく本邸にいる母上の侍女であった侍女頭も知っている」
クリスティーナは、ひとことも聞き逃すまいとユリウスの視線を受け止める。
「こちらの別邸には知る人はいない、ということですね」
「その通りだ。そして、父の弟であるノルトガウ子爵も知っている。そしてこれを快く思っていない。今後クリスティーナも会うことになるだろうが、気をつけてほしい」
「叔父様にですか?」
ユリウスはうなずき、表情を変えることなく続ける。
「もともと、自分こそがバレンシュテットの継承者である、と思っている人でね。現当主が父上であることにも不満を抱いている。僕のこの事情にも、次期当主に相応しからず、と事あるごとに噛みついてくる。今のところは王家の手前、表立っての行動にはなっていないが、この婚約を耳にすればなにか言ってくるだろう」
「あの、ユリウス様」
クリスティーナの困惑と不安を、ユリウスがようやく拾い上げる。
「叔父にはギーゼラという一人娘がいる。僕の従妹だが、これを僕に嫁がせようとしていた。だが、ギーゼラの母親は、エッツォーネン伯爵家の娘でね」
エッツォーネン伯爵家、クリスティーナは聞いたことのない家名である。ユリウスもそれは承知しているから、彼女の反応を待たない。しかし次の言葉は、クリスティーナにも事態の深刻さを理解させた。
「エッツォーネン伯爵家は、ヴラジエン王国の旧王家に連なる家柄だ。つまり、ギーゼラはその昔アンティリアへ攻め込んできた王族の末裔になる」
旧王家の侵攻を退けたのは、当時のバレンシュテット騎士団であった。その後、衰退した旧王家を廃して立ったのが、ヴラジエン王国の現王朝である。
現王朝との関係を刺激するような婚姻を、アンティリア王家が認めるはずはない。
ノルトガウ子爵の婚姻が成ったのは、子爵がバレンシュテットを継ぐことがなくなったからこそである。
子爵の思惑はバレンシュテット辺境伯も理解しているが、それが叶うと子爵は本気で考えているのか。
「陛下は叔父をどうにかしろ、と父上に以前から仰っている。しかし、今のところは、明確に叛意を表したわけでもない者を、どうすることもできない。クリスティーナが巻き込まれたのは、こういう事情の上の話だ。申し訳ないがもう引き返せない。僕の力の限りクリスティーナを守る。どうか、許してはくれないか?」
クリスティーナは、見慣れない金色の瞳を見つめ返す。彼は『クリスティーナ』と呼び、言葉を取りつくろわない。水色の瞳のユリウスよりも深沈たるようにみえて、クリスティーナに対しては距離を詰めてくる。
反対のようで表裏一体であるのか、それとも欠けた断片を埋める存在なのか。
「思っていたよりも大きなお話で、驚いています。わたくしなりに覚悟をして参りましたが、どのように身を処せばよいのか、見当もつきません。どうか、よろしくお導きくださいませ」
「これを」
ユリウスは上着の隠しから細長い箱を取り出して、差し出す。クリスティーナは受け取って、促されるままに蓋を開けた。
長めの金の鎖に、金の台にのる連なったふたつの石。クリスティーナの小指の先ほどの大きさの、水色の石と黄金色の石が並んでいる。
「僕の精霊石だ。常に身につけておいてほしい」
「常に、ですか?」
「石が見えないように、ドレスの内側に隠して。そのために鎖を長くしてある」
クリスティーナは言われた通りに身につけて、精霊石の飾りを胸元に沈めた。
「外に飾るものは、またあらためて贈る。……もうすぐ、本邸に戻るが、クリスティーナも婚約者として来てもらう。なるべく一緒にいるようにするが、四六時中とはいかないだろう。必ずそれを身につけておいてくれ」
「承知しました」
クリスティーナを見つめる金色の瞳は、冷たく突き刺さるように光る。それは、言い知れない憂いを含んでいるように見えた。