5.クリスティーナの家族
ヨハンとフランツがそろって帰宅したのは、それから間もなくのことであった。
クリスティーナが着替えて自室を出ると、アンナから様子を聞いたふたりは、ともに眉間を狭めてソファに座っていた。
「なにがあったか話せるかい?」
ヨハンに向かって力なくうなずくと、クリスティーナはユリウスから、正式に婚約を申し込まれたことを話した。もちろん、この縁談に王太子の口添えがあったことも含めて。
己の愚直な働きが王太子の目にとまっていた、とは思いもよらなかったヨハンは、驚き、困惑し、最後には目まいを感じてうめき声を上げた。
クリスティーナは、今にも泣き出しそうな様子である。アンナも、これが素直に喜べる話ではないと理解しており、隣に座ってクリスティーナの肩をなでている。
重苦しい空気を破って口を開いたのは、フランツであった。
「バレンシュテット邸を訪問するティーナは、楽しそうに見えたよ。私はユリウス卿を存じ上げないが、少なくとも好意を持っている、ということでいいかな?」
「ユリウス様はお優しいし、素敵なお方です。本当に目の前にいらっしゃるのかしらとか、夢を見ているのではないかしらとか、いつも現実ではないような気持ちでしたわ」
うつむくクリスティーナの頭を見つめて、フランツは、仕方ないなと軽く息を吐き出した。
「ティーナは現実のユリウス卿と一緒に過ごして、話をしたのだろう?」
その問いにこたえたのは、ヨハンであった。
「私が最初に言ったのだよ。妙な気は起こさないように、と。ティーナが一目惚れして、あの方のもとに嫁ぐ、と言い出してもおかしくない状況だったからね」
「ああ、なるほど。まあ、そうですね」
「ですから、わたくしが婚約者になどなれないでしょう! 絵本のように『幸せに暮らしました』では済まないことくらいわかっています。わたくしが、辺境伯夫人になれるわけがありません」
フランツはさらに眉根を寄せて、涙目になった妹を痛々しく思う。だが、もう一度息を吐くと、柔らかく微笑んでクリスティーナに言った。
「それはティーナの気持ちではなくて、我が家の事情だよ。ひとりの女性として、ユリウス卿のことをどう思っているかを聞かせてくれないか?」
クリスティーナは視線をフランツからヨハンへ移すと、とうとう涙をこぼした。
「お父様、わたくし、お父様とお母様の娘に生まれて幸せだと思っています」
「うん、私たちも同じ気持ちだよ」
ヨハンは微笑んでアンナとうなずきあう。クリスティーナがなにを言いたいのか、わかっている。
「でも、もしもユリウス様とつり合う家の娘だったなら、と考えてしまって。ごめんなさい」
アンナがクリスティーナを抱きしめて、ゆっくりと背をなでる。ヨハンは少しばかり顔を曇らせた。
「謝ることはない、むしろ謝るのは私のほうだ。あれほどのお方に望まれたというのに、素直に嬉しいと言わせてやれなくて、すまない。ただ、今回の話は我が家がつり合う家格ではなかったからこそ、というのがなんともな」
これ以上ないほど眉を下げたヨハンに、苦笑しながらフランツが応じる。
「事情は聞けない、もとより断れない。なら、ティーナは自分の気持ちに素直になっていいでしょう。ただ……」
フランツは、アンナにすがりつくクリスティーナに、しっかりと聞こえるように言葉をつないだ。
「ユリウス卿はティーナのことを、どのように思っておられるのか。条件に合う娘だからというだけなら、私も簡単には賛成できないよ」
クリスティーナは、ユリウスとの会話をたどる。思いがけない王太子殿下の話、正式な婚約の申し込み。
どうしようどうしよう、と混乱してなにを話したのかはっきりとは覚えていない。でも。
クリスティーナは身を起こして涙を拭くと、ヨハンとフランツに向き直った。
「ユリウス様は、その、『殿下のことをおいても、私は貴女がいい』と仰いました……」
今日のユリウスの言葉を、やっと理解したクリスティーナは、顔を真っ赤にして下を向いた。ヨハンとフランツがそろって目をまるくする中、アンナが言った。
「それは、ティーナが好きってことでしょう?」
「今はその言葉を信じて、ティーナの気持ちを優先してもいいのではないかな。どちらにしろ、お断りはできないのだから」
恥ずかしさにうつむいたままのクリスティーナには、フランツの笑顔は見えなかった。
「そうだな、好いた方と婚約するのだから、それは幸せなことだろう。ティーナ、大変なのは確かだけれど、今は、自分の気持ちに素直になってもいいのだよ」
ヨハンの言葉に、クリスティーナはうなずいた。
アンナがクリスティーナを部屋へ連れていくと、残った男ふたりは、はからずも同時に大きなため息を吐いた。それに気づいたヨハンは、苦笑をこぼす。
「大変なことになったな……。しかし、なにもしてやれない」
「そうですね。父上にはユリウス卿やバレンシュテット辺境伯は、どのようなお方に見えましたか?」
「うん。少なくともクリスティーナや私には、もったいないほど丁寧に対応してくださった。見合いが本気だと信じられるくらいにはな。ただ、ご子息とはほとんど話していないから、人柄はわからない。容姿はこの世の人なのか、疑いたくなるほどの美丈夫だ。バレンシュテット家の嫡男でなかったとしても、引くて数多だろう。ティーナもはじめてうかがったときには、ぽおっと見惚れていたよ」
クリスティーナの様子を思い出して、少し目尻を下げたヨハンであったが、不安が晴れるわけではない。
「『貴女がいい』という言葉が本心だ、と信じるしかないですね。事情とやらがどういうものなのか、想像したくもないですが、ティーナがひとりで抱えきれるものではないでしょう。事情を知ることができない私たちが、どれだけ支えてやれるのか。それも辺境伯家が相手では……」
お互いの顔を見ることなく、しかし、同じように渋い顔でうなずく。
「ティーナの気持ちが、ご子息に向いていることが唯一の救いだが、今後どうなるかわからない。バレンシュテット卿がその気になれば、我が家など吹き飛んでしまうからな」
「覚悟はしておきますよ」
諦めというよりは、無力感に苛まれている様子のフランツに、ヨハンは苦笑しつつ首を振った。
「私は社交界には縁遠いが、バレンシュテット卿は武人らしい明朗な方だと聞いた。理不尽なことは仰るまい。だが、ティーナが婚約者のまま終わる、ということはあるかもしれない」
フランツは隣に座るヨハンに向き直った。
「ティーナも言っていたのだが、事情とやらが解決すればやはり家格の見合ったご令嬢を、となるだろう。それを我が家は拒むことはできない。この話の目的はその辺りにあるのではないかな」
フランツの表情が苦いものになる。
「そういうことですか。不愉快ですが、確かにどうすることもできないですね」
「いや、私の想像だ、間違いであるよう願っているがね。もしそうなったら、ティーナには奉公先ではなく代わりの縁談を、となるかもしれないが、本人がその気になるかどうか」
「あの様子では、難しいでしょうね」
「まあ、そうなったときに考えるしかないだろう。しかし、この件の見通しが立つまで、アグネスには待ってもらうことになる。お前のほうは大丈夫か?」
ヨハンは、フランツが妹を思いやる心に安堵しつつも、息子の幸せも考えねばならない。
「ややこしい縁談のようだ、とだけは話しました。ティーナのことを心配していましたよ。アグネスはわかってくれます。大丈夫ですよ」
「すまないな。不甲斐ないことだ」
「父上のせいではないですよ。もどかしいですが」
フランツは、クリスティーナが上っていった階段に視線を向けた。
クリスティーナの部屋は広くない。手紙を書ける程度の小さな机と書棚、衣装棚、寝台があるだけだ。ユリウスから贈られたドレスは小さな衣装棚には納まらず、衣装部屋で過ごしているような状態になっている。
クリスティーナとアンナは寝台に並んで座った。
「ティーナはユリウス様をお慕いしているのでしょう?」
アンナの顔を見て、クリスティーナはうなずいた。
「はじめは、そのような気持ちは本当になかったのです。本来なら、わたくしがお会いできるような方ではないのですから。でも、一緒にいるととても優しくしてくださって、緊張しているのに居心地はよくて、なによりいつも、時間があっという間に過ぎてしまって」
「いろいろ考えてしまうでしょうけど、ユリウス様を信じてみてはどう?」
クリスティーナもそうしたいと思う。だが、ユリウスの事情とはどのようなものなのか、それを知った後も彼を想う気持ちが変わらないか、自信がない。
「ユリウス様にも、不安はあるのではないかしら?」
アンナの言葉に、クリスティーナは首をかしげた。
「ユリウス様が?」
「簡単には人に話せない事情を抱えていらっしゃる。それをついこの前まで、顔も名前も知らなかったティーナに打ち明けるというのは、勇気のいることではないかしら」
「そう、なのかもしれません。わたくし、自分のことばかりでユリウス様のお気持ちを、少しも考えていませんでしたわ」
ぽかんとしたクリスティーナに、アンナはにっこりと笑う。
「それはいいのよ、ティーナは自分のことを考えないと。でもね『貴女がいい』と仰ったのは、正直なお気持ちかもしれないわよ」
「どうしてですか?」
「だって、こちらが断れないことはご存じでしょう? ユリウス様は『婚約する』と言うだけでよいのよ。もし、承諾しやすくするために仰ったのだとしても、それはティーナへのお心遣いだわ。なにも思わない相手に、そんなことはなさらないのではないかしら」
そうなのだろうか、アンナの言葉はあまりにも楽観的に思える。だが、そうであってほしいと思うほどには、もうクリスティーナの心はユリウスを想っている。
「それにね」
アンナは、クリスティーナの顔をのぞき込みながら続けた。
「ティーナには重荷でしょうけれど、事情をお話しになったらユリウス様は、少しお気持ちが楽になるかもしれないわ。側にいるだけで、支えになれることもあるのよ」
「わたくしに、できるでしょうか」
「できるわよ、お慕いしている方から望まれたのよ。とても素敵なことだと思わない?」
アンナの考えはどこまでも純粋な乙女のようだ。その素直な気持ちが、今のクリスティーナには最も必要なものかもしれない。
「お母様、ありがとうございます。大好き」
クリスティーナは、アンナの首に腕を回して抱きついた。あらあら、とアンナは娘の髪をなでる。
「でもね、どうしても頑張れないと思ったら、無理しなくていいのよ。ティーナの幸せが一番なのだから、そのときは家族みんなで考えましょう」