4.婚約の申し込み
クリスティーナは、はじめの顔合わせから数日おきに、バレンシュテット邸を訪れている。ユリウスから贈られた、美しいドレスやアクセサリーを身につけて。
そして、訪問の翌日には最初よりは少なくなったものの、必ずあらたな贈り物が届くのである。
行儀見習いのつもりで、とヨハンに言ったが、実際にクリスティーナは、バレンシュテット邸でマナー講習に乗馬の練習、ダンスレッスンなどを受けている。
もちろん必ずユリウスがつき添い、ダンスではパートナーもつとめてくれる。ときには、バレンシュテット家の領地や騎士団について、ユリウス自ら話すこともある。
――これは、行儀見習いというより花嫁修行だわ――
今日も何度目かの訪問で、ダンスに興じた後、クリスティーナはガゼボでお茶を飲んでいる。目に映る花は初夏のものへと移り変わっていた。
「ずいぶん上達しましたね。もとから素地はあったのでしょう?」
相変わらず人を惑わせるユリウスの笑顔にも、どうにか怯むことなく、言葉を返せるようになってきた。
「母が結婚する前にお仕えしていた伯爵家で、お嬢様のレッスンにご一緒させていただいていたそうです。そこで多少は身についたことを、教えてもらったくらいです。こちらで教わるのは、はじめてのことばかりですわ」
「男爵夫人はよい生徒であり、よい先生でもあるということですね」
「まあ、お上手ですね。母が喜びますわ」
ユリウスほどではないが、クリスティーナもお茶を飲む仕草が美しくなってきた。
添えられる菓子は、いつも王都で人気の菓子店のものや、バレンシュテット邸の厨房製である。クリスティーナが訪れるようになって、二か月以上経つが、同じものが出されたことはない。
「でも、ユリウス様はすでに身についておられることばかりでしょう? わたくしにあわせていただいて嬉しいですけれど、退屈でいらっしゃいませんか?」
「いや、繰り返し練習しないと、やはり忘れてしまいますからね。いい機会だと思っていますよ」
そんなことはないでしょう、とクリスティーナは思ったが口には出さない。しかし、この交流はいったいいつまで続くのか。
一緒に過ごす時間が長くなるほど、日常に戻ったときには、むなしい気持ちになってしまうのではないだろうか。
「私がこうした行儀作法をはじめて習ったのは、王宮で王太子殿下のお供としてでしたから。そのときの緊張に比べたら、貴女とご一緒できる今のほうがよほど楽しいですよ」
「王太子殿下のお供、ですか?」
クリスティーナにとっては、ユリウスも雲の上の人である。王宮は父の職場ではあるが、そこに暮らす人びとは物語の世界のように遠い存在だ。
「幸運にも、と言うべきなのでしょうね。私はヨアヒム殿下と同じ年に生まれたので、競争相手として選ばれたのですよ。まあ、私がどれほど頑張っても、殿下に勝てることはひとつもありませんでしたけれどね」
「そう、なのですね」
王太子殿下に勝つのは許されないのでは、とクリスティーナが考えたことは、ユリウスにも伝わったらしい。
「もちろん、父からは殿下に無礼のないように、とよくよく言い含められました。ですが、私も負けず嫌いの子どもでしたからね。かなり本気で頑張りましたよ」
でも一度も勝てなかった、と笑うユリウスの言葉は嘘ではないのだろう。
「でしたら、殿下はとても優秀なお方なのですね。当然なのかもしれませんが、次代の国王陛下になられるのですものね」
「殿下は、子どもの頃からそれをよくご存知でしたね。私が本気だったことも、おわかりだったと思います。殿下も手を抜いたりはなさらなかった。おかげで今でも親しく話していただける、得難い経験でした」
王太子、つまり次期国王の覚えもめでたい。ユリウスはやはり別世界の人なのだ。こうやって会える機会も、そろそろ終わりになるだろう。緊張してばかりだったけれど、それでもとても楽しかった。
少し寂しい気持ちにはなるかもしれないが、日常に戻ればきっと、一生の思い出になる。
クリスティーナが、己に言いきかせるように考えていると、ユリウスがその思考を一蹴する言葉を放った。
「実はアンハルト卿と貴女のことを、私に教えてくださったのはヨアヒム殿下なのです」
「……え?」
ユリウスは困ったような顔をしている。クリスティーナを困惑の渦に叩き込んだのは、彼のほうであるというのに。
「殿下は勉強熱心な方です。今でも、執務にあたって疑問に思われたり、興味を持ったりすると、専門家を招いて解説させるほどです。もちろん、ご自身でもよくお調べになるので、王宮の書庫からは毎日のように書籍を取り寄せるそうです」
クリスティーナは、黙ってユリウスの話を聞いている。少しずつ、掌に汗がにじむ。
「あるとき、殿下は特定の分野の書籍が、ほかのものよりもはやく届けられている、とお気づきになられた。その理由を秘書官にたずねると、担当のアンハルト男爵が丁寧に目録を作っているから、すぐに用意されるのだと」
父の仕事が、王太子殿下のお目にとまった、喜ばしいことだ。お礼を申し上げなければ、クリスティーナはそう思うのに体も口も動かせない。嫌な予感に背筋が冷える。
「貴女もご存知でしょう、殿下には昨年王子殿下がお生まれになった。私の子と机を並べさせたいからはやく結婚しろ、とまるで父のようなことを仰いましてね。殿下は私の事情もよくご存知です。その上で、アンハルト男爵の令嬢ならお前の条件に合うのではないか、と仰ったのです」
クリスティーナの心臓が早鐘を打つ。その音はユリウスにも聞こえてしまうのではないかと思うほど大きく、クリスティーナの頭の中にガンガンと響く。
「この話を持ち出すことが、卑怯だとわかっています。ですが、殿下のことをおいても、私は貴女がいい。私と正式に婚約してくれませんか?」
こちらから断れることではない。
それはアンハルト家だけではなく、バレンシュテット家にとっても同じであった。
王家がかかわっている話を反故にすることなど、アンティリア王国のどの貴族にもできはしない。
「……わたくし、のほかにも候補のご令嬢がいらっしゃるのだと思っておりました」
クリスティーナはやっとのことで口を開くが、なにを話せばいいのかわからない。
「それほど器用な男ではありませんよ。それに殿下からいただいたお話に、そのようなことはできません」
「そう、ですね」
「アンハルト卿も貴女も、我が家から断りがくることを望んでいるとわかっています。でも、私は貴女がいい」
ユリウスの美しい顔に輝く水色の瞳、その瞳に映るクリスティーナは泣き出しそうな顔をしている。
「……父と話してから、あらためてお返事をいたします。それで、よろしいでしょうか?」
「ええ、次にいらっしゃるときに、聞かせてください」
クリスティーナはゆっくりうなずいて、もう一度ユリウスの瞳を見つめる。
「父にはどのように話せばよろしいでしょうか?」
「卿の仕事振りを殿下がご存知だということは、お伝えください。話がはやいでしょうし、なにより名誉なことには違いないですからね」
ユリウスの言う通り、本来ならとてもありがたい話である。アンハルト家なら、家族でお祝いしようとするだろう。
「正式に婚約者となったら、貴女には例の事情を話します。ですが、アンハルト卿やご家族には伝えることはならない。それはご承知ください」
「はい」
不安をこらえたクリスティーナの茶色の瞳に、ユリウスのぎこちない笑みが映る。彼はまるで、クリスティーナを憐んでいるかのように見えた。
その日、帰ってきたクリスティーナを迎えたアンナは、愛娘を思わず抱きしめた。
クリスティーナは、迷子になってようやく母のもとへ帰ってきた、そんな顔をしていた。
「どうしたの? ティーナ。なにかあったの?」
「……お父様は帰っていらっしゃる?」
王太子殿下のお子様はアルトゥール王子です。