3.婚約者『候補』
迎えも帰りも、バレンシュテット家の馬車である。向かうときには、豪華な馬車に乗っただけでガチガチに緊張していたヨハンであったが、帰りは席に座った途端にくずおれた。
「はあ、緊張した。はじめて王宮にあがった日よりも緊張したよ」
「おつかれさまでした。お父様」
どこか現実感のないまま訪問したクリスティーナより、辺境伯とふたりで話をしなければならなかった下級官吏のヨハンのほうが、荷は重かったに違いない。
「それで、閣下はご子息がティーナに同じ話をすると仰っていたが、どのようなことをお話ししたのか教えてくれるかい?」
「まずは、本気の見合いだと仰いましたわ」
「……ああ、やはりそうなのか」
ヨハンは両膝に肘をついて手で額を覆った。辺境伯の話は息子の同意を得ていないのではないか、という一縷の望みが絶たれたのだ。
父の気持ちが手に取るようにわかったクリスティーナは、苦笑しながらユリウスと話した内容を説明した。
「……こちらから断っても、お父様とお兄様に不利益が及ぶことはない、とお約束くださいましたけど。こちらからお断りはできませんよね?」
「その通りだよ。そんな恐ろしいことはできない」
父と娘の認識は、語らずとも一致していた。
「でもお父様、まだ婚約者の『候補』ですわ。婚約者になる可能性は少ないと思います。ユリウス様のご事情とやらはわかりませんけれど、それが解消されればやはり家格の見合ったご令嬢を、となるでしょう?」
クリスティーナが示した藁に、ヨハンはすかさずすがりついた。顔を上げて大きな声を出す。
「そうだな! うん、そうだ。そうすれば先方からお断りいただけるな!」
「ですから、それまでは行儀見習いのつもりでうかがおうかと思います。こんな機会は二度とないでしょうし」
ヨハンはようやく一息ついて、クリスティーナを正面から見つめた。
「それがいい。間違っても、妙な気は起こさないようにしなさい」
ヨハンの心配はもっともなことだ、とクリスティーナも思う。今日の短い会話の中でも、幾度も見惚れて我を忘れそうになった。
ユリウスの美貌は、精霊かと見紛うほどである。若い娘なら、一目で恋に落ちてしまってもおかしくない。
だが、アンハルト男爵家の人間は身の程をわきまえている。
「お父様、あれほどお美しい方だからこそ、やはりわたくしをお望みになるとは、とても思えませんわ。お会いできるだけで、一生の思い出になります」
「……いい経験にはなるだろう。私の身が保てばよいが」
胃の辺りをさすりながら苦笑するヨハンに、クリスティーナもぎこちない作り笑いになる。
「辺境伯様は、ほかになにか仰いました?」
「あとは、器のことを聞かれたな。『大地の精霊』の加護で、我が家ではティーナの器が一番大きいが、それでも貴族としては小さいものだ。辺境伯夫人などとてもとても、と正直にこたえたのだが……」
ヨハンは少しだけ声を小さくした。
「ご子息の器はかなり大きいそうで、問題ないと」
「ますます、わからないですわね。それならいくらでも候補はいらっしゃるでしょうに」
クリスティーナはユリウスの事情が、精霊の加護の器にかかわることではないか、と考えてていた。
アンティリア王国では、一人息子の器が小さいために廃嫡となり、爵位が傍系へ移るということは、多くはないが、ときに起こる。
傍系にも該当者がいなければ最悪は、爵位を王家に返上しなければならない。
ユリウスの器に次期当主として不安があるとしたら、うかつに見合いをして、相手にそれを知られたくはないだろう。婚姻を強要され、婚家が辺境伯家に口出しをするようになる可能性もある。
しかし、その心配はないらしい。ヨハンが声をひそめたのは、器が大きすぎることもまた脅威と見られるからだ。だが、婚姻を結ぶにあたっては優位に立つ材料となるだろう。
「その件について、興味を持つのはやめなさい。アンナとフランツにも黙っているように」
「……はい。わかっています。知ることはないまま、このお話はなくなるでしょうし」
ヨハンはうんうんと激しく首を縦に動かすが、自らを納得させようとしているようだ。
「ティーナは、ほかにご子息とお話ししたことはないのか?」
「ああ、ええっと」
「ん?」
「あの、わたくしも緊張しておりまして。ユリウス様は最後になにか要望はないか、と聞いてくださったのですが、つい、住み込みのメイドの話を……」
ユリウスが笑ってくれて本当によかった、とクリスティーナは今更ながら安堵した。少なくとも、本気の見合いである、と聞かされた後にお願いすることではなかった。
「クリスティーナ、お前、それは……」
「ですから、わたくしも平常心ではいられなかったのです。望みはないかと問われてつい、頭にあったことをそのまま口にしてしまったのです。反省しております。それにユリウス様は笑って許してくださいましたし、婚約が成らなかったときには、お心あたりをご紹介くださると」
ヨハンは、肺の中が空になる勢いでため息を吐いた。これからも、このように心臓に悪いことが起こるとしたら、本当に身が持たないかもしれない。
しっかりした娘だと思っていたが、それでも十七歳。釘は刺しておかねばなるまい、とクリスティーナの目を見すえた。
「わかっているだろうが、これからお会いする際には今日以上に気をつけなさい。とにかく失礼のないように。閣下やご子息が、どれほど親しくしてくださったとしても、だ」
「はい、心得ます」
「まあ結果としては、よかったのかもしれないな。よい奉公先を、本当にご紹介いただけるかもしれない」
ヨハンもクリスティーナもそうなることを、心から願っていた。
だが、その翌日。
アンハルト男爵家は、朝から男爵夫人の大きな声で揺らいだ。
「まあ、まあまあまあまあ。ティーナ! ティーナ!」
狭い男爵邸の隅々まで響き渡ったアンナの声に、呼ばれたクリスティーナだけでなく、ヨハンとフランツも玄関に現れた。
「どうした、そんなに大声で……」
ヨハンの目に入ったのは、小さな玄関にうず高く積み上げられた大小の箱である。
「なんだこれは」
「バレンシュテット家からの贈り物ですって!」
緑の瞳を爛々と輝かせて、アンナはクリスティーナに封筒を差し出した。
受け取った封筒の封蝋は、見覚えのある水色の魔力をまとっている。クリスティーナが封を解くと、中には淡い水色のカードが一枚。
「……ティーナ」
不安を隠しきれないヨハンに、クリスティーナは強張った笑みを向けた。
「昨日の、お礼、の品だそうです。あと、次にうかがえる日を知らせてほしいと」
「そうか、お礼とお返事を差し上げなさい。私は仕事にいかねばならないし、お前宛てに届いているのだから」
「わかりました。いってらっしゃいませ」
ヨハンが、この状況に単純に浮かれる人物であれば、そもそもクリスティーナが候補にあがることはなかった。
なんとも皮肉な事態となった。大きなため息を残して、ヨハンはそのまま出かけていった。
数々の箱には、色とりどりの可愛らしいリボンがかけられている。おそらく中身は高価なアクセサリーやドレスだろう。
クリスティーナとて、嬉しくないわけではないが、ヨハンと同様に不安のほうが大きい。
少なくとも昨日の短い会話だけで、ユリウスに気に入られたとは、とても思えない。
クリスティーナは、素直にはしゃいでいるアンナを横目に見ながら、そら恐ろしい気さえしてくる。
父と妹の様子を黙って見ていたフランツが、口を開いた。
「ティーナ。私ももう出かける。口出しはできないのだろうが、話を聞くことはするから。とりあえず父上の言う通りにしなさい」
フランツはアンナよりは、事態を冷静に認識しているようだ。兄の言葉に少し落ち着いたクリスティーナは、小さくうなずいた。
「ありがとうございます、お兄様。いってらっしゃいませ」
フランツはクリスティーナに笑顔を見せると、ぽんぽんと妹の頭をなでて出かけていった。
残ったのはふわふわと浮かれているアンナだけである。
まずはこの母を落ち着かせないと、なにもできない。クリスティーナはアンナに向き直った。
「お母様」
「ティーナ、すごいわねえ。やっぱりご子息にどこかで見初められていたのかしら。それとも昨日、よほど気に入られたの?」
うきうきとした母は可愛らしく、かわいそうな気もしたが、現実を見てもらわねばならない。
「いえ、お母様、確かに素晴らしい贈り物ですけれど、バレンシュテット家にとっては些細なものだと思いますわ。おそらく、昨日のわたくしの装いをご覧になって、不足に思われたのを、このような形で補ってくださったのではないでしょうか」
「あら、確かにそうね……。でも、そのようにお気遣いいただいて、次の機会をもうけようとしてくださってるのね。少なくとも、また会いたいと思われたということよね?」
アンナも普段は、身の程を知るアンハルト男爵夫人である。しかし、娘が見初められて名家に嫁ぐ、という夢物語に浸らずにはいられないのだろう。
会った翌日に山のような贈り物が届いたことは、夢見心地になるには充分な状況である。
クリスティーナも己のことでなければ、アンナのように浮かれていたかもしれない。
「昨日は本当に、顔合わせだけでしたわ。気に入っていただけるような場面もありませんでした。ですから、あと何度かはお会いできるでしょうけれど。候補はわたくしだけではないでしょうし、皆様に同じだけの贈り物をされているかもしれませんよ?」
当の本人が落ち着いている様子に、アンナもさすがに冷静さを取り戻した。
「そう、ね。……ごめんなさい、クリスティーナ。ちょっとはしゃぎすぎたわね。貴女のほうがよほど大人だわ。旦那様に呆れられてしまったかしら?」
「ふふ、大丈夫ですよ。わたくしも本当はとても喜んでますよ? お礼状を書く前に、いただいたものを確認しないと。お母様、手伝ってくださるでしょう?」
しょんぼりしかけたアンナの顔が、再びぱあっと明るくなる。
「ええ、もちろん!」
父と母のように、裕福でなくとも互いに思い合った、愛情深い夫婦がクリスティーナの理想である。
歴史ある辺境伯家の令室などと、身の程知らずな夢を持ったりはしない。だが、今後どのように振る舞えばよいのだろうか。
クリスティーナは、一番上の水色のリボンがかかった小さな箱を手に取って、途方に暮れた。
バレンシュテット辺境伯は、騎士団長としての役割が重視されている人なので、敬称は「閣下」になります。