2.ユリウス・アーダルベルト・バレンシュテット
バレンシュテット辺境伯家の王都別邸には、四季折々の花に彩られた庭園がある。その美しい庭園の入り口には、可愛らしいドーム状の屋根がついたガゼボがあり、季節の花をながめながらお茶を楽しめる。
そのガゼボで、クリスティーナはユリウスとテーブルを挟んで向かい合っている。ガゼボから見える本館の大きな窓は、先ほどまでいた応接室のもので、中ではオットーとヨハンが話を続けている。
「私と父はあまり似ていないでしょう。バレンシュテットの後継としては、父のようにいかにも騎士だ、という風貌のほうがよいのですが。亡くなった母に似てしまったので、こればかりは仕方がないですね」
「……お母様もお美しい方でいらしたのでしょうね。でも目元のあたりは、辺境伯様にも似ていらっしゃるように思いますわ」
顔だけを見ると、ユリウスの美貌は女性的である。背が高く、鍛えられた体つきであるから、性別を間違われることはない。しかし、顔の印象だけで人品を判断するような人間には、侮られることもある。
そのような事情をクリスティーナが知るはずもなかったが、当たりさわりのない返答をなんとかひねり出した。
ユリウスは柔らかく微笑んで、ティーカップを手に取る。ひとつひとつの所作が美しく、無駄がない。
クリスティーナは震える指先を叱咤して、ゆっくりお茶を口に運んだ。鼻に抜ける爽やかな香りに、ため息がこぼれそうになる。
「ありがとう。悩ましいところですが、いつかは父のような騎士になれればと、鍛錬に励む日々ですよ」
「我が家は父も兄も文官ですから、辺境伯様やご子息のように鍛錬されている方を本当に尊敬しております」
「そのように堅苦しくしないでください。ユリウスと」
ユリウスのような美丈夫の笑みを正面から受け止めるには、クリスティーナの経験は少なすぎた。
ましてや、相手は本来なら会うことすら難しい大貴族の嫡男である。名前を呼ぶなど難度が高いにもほどがある。
開けた空間で側にメイドが控えているとはいえ、ふたりで会話をするだけで精一杯だ。
クリスティーナの様子から、ユリウスにもそれは伝わっている。あたふたするクリスティーナに目を細めると、話題を変えた。
「クリスティーナ嬢、今回の話を貴女はどのように思われましたか?」
「あ、ええと」
どのようにこたえるべきか、クリスティーナは悩んだが、取りつくろうことでもない、と思い直して正直に告げる。
「あの、なにか事情がおありなのではないか、と考えておりました」
ユリウスは目を大きく開いて面白そうに眉を上げたが、そのまま続きを促した。
「辺境伯様、とユ、ユリウス様にお目にかかったことはないと思うのですが」
ユリウスはゆっくりうなずいて、肯定する。
「そうですね、今日はじめてお会いしました。父もそのはずです」
「我が家は所領も持たない男爵家です。父も兄も文官として出仕しておりますが、辺境伯様にお目にかかれる職務ではございません。そのような家の娘に、過分すぎるお話です。失礼ながら、本気でわたくしとの婚約をお望みとは思えません。ですが、お話はうかがってみようと家族で話して、本日は参りました」
ユリウスは再び笑みを浮かべて、楽しそうにクリスティーナを見つめる。その視線に頬を強張らせたクリスティーナは、身じろぎもできなくなった。
「そう、確かに事情があります。ですが、まだそれについてお話しすることはできない。ただ、これはお伝えしておきましょう。婚約については、父も私も真剣に考えております。決して徒らに、貴女を惑わすつもりで申し込んだわけではありません」
「え?」
驚くクリスティーナに、ユリウスは笑みを崩さず、組んだ手をテーブルの上に置いた。
「ご不快でしょうが、アンハルト卿や兄君の働きぶり、貴女の評判などは前もって調べさせました」
「ああ、いえ、それは」
当然のことだとクリスティーナにもわかるので、首を横に振る。
「おふたりとも実直に職務をこなしている、とても真面目な方だとの評価でした。兄君は任官したばかりでも、目立たない仕事にも真摯に取り組んでいると」
「……そうですか」
クリスティーナにはほかに言いようがない。ヨハンもフランツも、実に地味な仕事に就いている。ただ、ふたりとも真面目さだけが取り柄なのは確かである。
「貴女については、特に噂のようなものはありませんでしたが、貴族の令嬢としては、むしろそれは好ましいことです。そしてご家族の仲がとても良いと」
ユリウスの麗しい笑みがきらきらしい。ともすると夢見心地に陥りそうになるのをこらえて、クリスティーナは己を保とうと努める。
「あ、ありがとうございます。我が家の唯一の財産だと思っております」
今度はユリウスのほうが、まぶしそうな表情を浮かべてクリスティーナを見つめている。
「貴女がそのように思っていることが、アンハルト卿の財産ですね」
ユリウスの言葉に誠実さを感じて、クリスティーナは自然と笑顔になった。裕福でなくとも、優しくあたたかい家族はクリスティーナにとって、かけがえのない大切な存在である。ユリウスにほめられたことが、くすぐったくも嬉しかった。
「こちらの事情は、先ほども言ったようにまだ全ては話せませんが、ひとつには高位貴族との婚姻を避けたい、ということがあります」
一段下がったユリウスの声音に、クリスティーナは緩んだ頬を引き締める。
「かと言って、高位貴族でなければよい、というものでもない。我が家と縁づくことによって、野心に目覚めるような家では困りますので」
つまり、身の程を知る下級貴族が望ましい。
ああ、とクリスティーナは己が選ばれた理由に納得し、安心した。
アンハルト男爵家は、バレンシュテット家が求める条件に確かに合致する。そういったことであれば、むしろ気負うことはないのかもしれない。その条件が必要である理由は気になるが、今それを問うことはできない。
しかし、それならこの見合いは本気だということになる。クリスティーナにとっては想定外の事態である。
押し黙るクリスティーナをながめながら、ユリウスは続けた。
「もちろん、アンハルト卿や貴女の意向を無視するつもりはありません。今日のところは顔合わせ、貴女がよろしければ今後、婚約者候補としておつき合いいただきたいと考えています。その間に貴女から断られたとしても、アンハルト卿や兄君に不利益が及ぶことはない、と約束します」
ユリウスは笑顔でクリスティーナに話しかけているが、その瞳の奥で、彼女の心情を推し量ろうとしている。それはクリスティーナにも伝わっていた。
「お話はわかりましたけれど、やはり、わたくしにはもったいないお申し出だと思いますわ」
「貴女がそのように仰るのは、私には好ましいことです。今の時点では充分だと思います。もちろん、今後のおつき合いの中で、こちらから断ることもありえます。その場合にも同じことを約束しますよ」
「はあ。それは、ありがとうございます」
淑女らしからぬ声が出てしまったが、クリスティーナには断るという選択肢ははじめからない。
どれほど気を遣われても、貧乏男爵令嬢が有力辺境伯家の嫡男を袖にすることはできない。
おそらくこちらが断られることになるのだろう、と少しばかり気が楽になったのだ。
だが、ユリウスの表情から笑みが消えて固い声が響くと、すぐに当初の緊張が戻ってくる。
「ただ、正式に婚約を結ぶ、となったときには、先ほどの事情をお話しすることになります。そうなってからは、婚約破棄はないものと考えてください」
つまり、ユリウスにはなにかしらの秘密がある。それは貴族社会の中では弱味になるもので、高位貴族には知られたくない。だが、一人息子であるからには結婚して、跡継ぎをもうけなければならない。
バレンシュテット辺境伯家と縁戚になっても、分不相応な野心を抱かず、また、秘密を知っても黙らせることができる家の娘を探した、ということらしい。
クリスティーナはユリウスの言葉を反芻していたが、今はまだ婚約者候補である。
自分が婚約者に選ばれる自信など、もとよりない。
ユリウスのような美貌の貴公子とおつき合いできる機会など、もう二度とないだろう。候補から外れるまで、人生勉強をさせてもらえると思えばいいのかもしれない。
そう考えると、おそれ多い気持ちよりも、好奇心のほうが強くなってくる。
「お話はわかりました。お声がけくださいましたことを光栄に思いますし、お気遣いも大変有り難く存じます。わたくしは庶民に近い暮らしをしておりますから、ふつつかな点も多いことと思います。ユリウス様に相応しくない、と思われましたらいつでも仰ってくださいませ」
ユリウスの水色の瞳が細く弧を描いたが、クリスティーナは受け止めきれずに視線を逸らした。
「ありがとう。こちらの要求ばかりでは申し訳ないですから、貴女からもなにか要望があれば仰ってください」
その言葉にクリスティーナは、緊張に押しつぶされそうになりながらも、ここを訪れた当初の目的を思い出した。
「わたくし、住み込みでメイドとして雇ってもらえる先を探しておりまして。ああもちろん、辺境伯家でとは考えておりません。ですから、お心あたりがおありでしたら、ご紹介いただけませんでしょうか」
クリスティーナの要望は、まったくユリウスの予想外のものであった。候補とはいえ婚約者に就職先の斡旋を依頼されるとは。
ユリウスは驚いて大きく見開いた目を再び細めると、喉の奥で笑いを噛み殺しながら言った。
「わかりました。貴女が婚約者にならないとなったときには、心あたりを紹介しましょう。ですが、そのために貴女から断りを入れる、ということはなしにしてくださいね」
結局こらえきれずに笑い出したユリウスの様子に、クリスティーナは今度こそ顔を真っ赤にして、下を向いたのであった。