19.王命
「なにもアンハルト男爵家と縁を切って、というわけではありませんよ。頼る実家が増えると思ってくれればよいのです。もちろん、ときどきは里帰り先に我が家を選んでもらいたいですがね」
ヘルスフェルト伯爵が金色の瞳で、水色の瞳のユリウスによく似た口調で話す。
クリスティーナにとって心地よい、その声音につむがれる言葉が、なにを意味するのかまったく理解ができない。
「あの、それはどういう……」
クリスティーナがようやく口を開こうとしたとき、ヨアヒムが人の悪い笑みを浮かべた。
「ああ、来たようだ」
バタン! と大きな音を立てて扉が開いた。前ぶれもなく耳に届いた音に驚いて扉のほうを見ると、そこにはクリスティーナが会いたくてたまらなかった人が立っていた。
「不礼な奴だな。ここがどこかわかっているのか?」
つかつかと無言で部屋へ入ってきたユリウスは、射ぬくように鋭くヨアヒムをにらみつけた。
その瞳はどこまでも透き通る湖に、金の粉が舞い散るように光っている。
「どうして、クリスティーナがここに?」
「私が招いたからに決まっているだろう」
ユリウスは大きく息をを吐き、不快をあらわに眉間にしわを寄せた。
「殿下はご自分に逆らえない立場の者に、もっと寛容であるべきです」
ヨアヒムがうっとうし気に眉を上げる。
クリスティーナは、ユリウスの放つ言葉が不敬にあたるのではないか、とはらはらしていた。
ヘルスフェルト伯爵に助けを求めるように視線を向けるが、伯爵は笑いを噛み殺すようにして目尻を下げている。
「ユリウス、クリスティーナ嬢が困っているよ。落ち着きなさい」
ヘルスフェルト伯爵がなだめると、ユリウスははっとしてクリスティーナのほうを見た。
その瞬間、王太子は右手の親指と人差し指で輪をつくると、ユリウスへ向けてその指を弾いた。
「痛!」
ヨアヒムの指先から放たれた氷の礫が、ユリウスの額を強かに打った。
「まったく。私は己の権力を、正しく国のために行使している。お前にとやかく言われる筋合いはない。身の程をわきまえよ」
額を押さえながら、ユリウスはもう一度ヨアヒムに向き直ると、あらためて騎士の礼をとった。
「失礼しました。しかし、彼女はもう殿下がお望みになった役割を、充分に果たしております。これ以上を求めることは、どうかおやめくださいますよう、お願い申し上げます」
ヨアヒムは、一向に引く気配のないユリウスの態度に呆れつつも、愉快そうに笑みを浮かべる。
「今回、ふたつ確認できたことがある。まず、バレンシュテットは強固でなければならない。だからこそ、ユリウスの婚姻には王家が口を出す。面倒な家と縁づいては困るからな」
そこでヨアヒムはわざと言葉を切って、ユリウスの反応を見ている。
ふたつの加護があらわになったユリウスの瞳は、硬く引き結んだ唇とあわせて、無言の抗議を示す。
クリスティーナはヨアヒムのいわんとすることがわからず、不安を感じて、無意識に服地の上から胸もとの精霊石に手をあてていた。
「ゆえに、ベルトルトを呼んだのだ。ユリウス、お前はヘルスフェルト伯爵令嬢を娶るように。父上もこの話はご存知であるから、王命と心得よ。ヘルスフェルト伯爵家も、バレンシュテットとの縁を結び直しておいて損はなかろう」
「ヘルスフェルト伯爵令嬢?」
ジークリンデの実家、ヘルスフェルト伯爵家には現在、妙齢の娘はいないはずだ。ユリウスが伯爵に視線を移すと、ベルトルトはおだやかに笑って甥に言った。
「殿下からクリスティーナ嬢を我が家の養女に、とのお話をいただいたのだ。私も妻もぜひ進めたいと思っている」
「クリスティーナ嬢、そなたが拒否することは許さぬ。王命により、ヘルスフェルト伯爵家の養女となり、その上でバレンシュテット辺境伯家の嫡男ユリウス・アーダルベルトに嫁ぐように」
ヨアヒムは、まるで物語に出てくる悪役のように重々しく告げると、クリスティーナに虹色の瞳を細めて見せた。
クリスティーナは、ぽかんと開けた口を慌てて閉じると、頬を赤く染めてうつむいたが、はっきりとこたえた。
「ご下命、謹んで賜ります」
満足してうなずくヨアヒムとベルトルトは、はくはくと口を開けては閉じるユリウスの顔を見て、ふたり同時に声をあげて笑い出した。
「まったく、そのような精霊石まで用意しているとは。通常ならよくて門前払いか、悪ければそのまま地下牢行きだぞ」
「命の危険に晒されていたのですよ。最大限の準備をするのは当たり前でしょう」
クリスティーナの隣にユリウスが座り、彼女の手を握っている。その態度に開いた口がふさがらないベルトルトは、話題の転換を図った。
「そういえば、先ほど殿下は『ふたつ確認できた』と仰いましたが、もうひとつを教えていただいても?」
その意図を汲んだヨアヒムも鷹揚にうなずく。
「歳の近い兄弟を競わせるとろくなことがない、ということだな。我が子の教育にあたっては、心しておこうと思ったよ」
オットーとロイドルフの確執の経緯を、ヘルスフェルト伯爵も知っている。哀しむような、あるいは諦観したような色を瞳に映して、小さくため息を吐く。
「仰る通りですな。仲の良い兄弟ばかりとはいかないでしょうが、強いて反目しあうように仕向ける必要はありませんな。しかし、殿下、それでは?」
ヨアヒムの頬がゆるやかに紅潮する。ありのままの表情は明るく、はじめて青年らしい顔つきになった。
「ああ、来年にはもうひとり子が生まれる。妃の体調も落ち着いてきたから、数日のうちに公表する」
「それは、おめでたいことですな。お祝い申し上げます」
「だから、はやく結婚しろと言うのに、ユリウスがごねるものだから」
「お言葉ですが、王子殿下の学業の場に臣下の子を侍らすことも、ぜひご再考ください。子どもには荷が勝ちすぎます」
ヨアヒムが口の端を上げて、ユリウスをあおる。
「経験者の言葉は重みがあるな? ユリウスほど適任の子は、そういないだろうなあ。まあ、お前たちの子が生まれるのを待っていては、アルトゥールの教育が遅れるからな、あきらめよう」
ユリウスは実に不服そうな態度を隠さず、ヨアヒムは満足したらしい。
クリスティーナは赤くなった顔を伏せて、重ねられたユリウスの手から、目を離すことができなくなった。
「それよりも、父上のお許しが出たのか、よかったな」
ヨアヒムの表情と声音が、少しだけ柔らかさを帯びた。ユリウスは顔を引き締め直して、真っ直ぐヨアヒムに瞳を向けた。
「はい、今後は明らかにしてよい、とのお言葉をいただきました」
クリスティーナがはっとして、顔を上げる。ユリウスの『水』と『風』の『精霊の加護』を表す瞳は、今、あらわになっているのである。
アンティリアの王族以外に、『精霊の加護』を複数もつ者は、極稀にしか生まれない。
在野に生まれた者は王都の大精霊殿の預かりとなり、精霊術士となることが強制される。そして生涯、片方の加護は秘して生きなければならない。
王家にとって、王族に次ぐ力は脅威となり得るとの判断からの施策である。
貴族の家に生まれた子は、加護が明らかになる一歳前後に大精霊殿の精霊術師によって器を検分される。
ユリウスの瞳は、生来の色が淡い水色であった。その瞳に金の光が見えはじめた頃、バレンシュテット家では『風の精霊』の加護だと信じて大精霊殿を訪れた。
国内の精霊術士の中でも随一の器を持ち、国王に任じられた精霊術師が、ユリウスの器を検分した結果は、直ぐに王宮へと伝えられた。
高位貴族の家に複数の加護をもつ者が生まれたのは、ユリウスがはじめてであった。
こともあろうに、バレンシュテット辺境伯家の嫡男。国王はロイドルフの不審な動きについても、もちろん把握していた。
可能な限り混乱を回避するためにユリウスの加護を秘し、ヨアヒムの学友として監視、教育することが決定された。
二十余年を経て、ロイドルフは断罪された。ユリウスがバレンシュテットを継ぐに相応しい実力を備え、王家への忠誠を誓った今、在るべき姿を回復したのである。
陽の光を映す湖の瞳は、真にユリウス・アーダルベルト・バレンシュテットとして認められた。
己を取り戻したユリウスが自信に満ちて、隣のクリスティーナに極上の笑みを見せる。
クリスティーナの茶色の瞳に靄がかかり、今にも涙がこぼれそうになった、そのとき。ごほん、ごほん、とおおげさな咳払いが聞こえ、あわてて涙をこらえる。
口もとに拳をあてたベルトルトはにやにやしながら、ヨアヒムに確かめた。
「私は詳しいことはもとより存じませんが、今の姿が本来のもので、今後はユリウスの加護は公になる、ということでよろしいのでしょうか?」
ロイドルフの件が一応の解決を見たことで、ユリウスのふたつの加護は極秘事項ではなくなった。積極的に公表することはないが、今後ユリウスは瞳を装うことなく過ごすことが許される。
バレンシュテット騎士団がアンティリア国軍の要であり、ユリウスがその団長となることは既に決まっている。
ユリウスの特別な加護は、王家の力の一端を担うものとして周知されるのだ。
今後、ほかの貴族家に複数の加護をもつ者が生まれたときには、ユリウスの事例が基本となるように、という国王の方針が示された。
「在野に生まれた場合の対処は、また考えねばならないだろうが、ユリウス個人についてはその通りだ。多少の面倒は起こるかもしれないが、正式に騎士団長となれば表向きは収まるだろう」
「では、手続きを急がねばなりませんな。我が家から娘を嫁に出す準備もせねば。忙しくなりますな」
ヨアヒムとベルトルトの笑顔とは対象的に、ユリウスは苦り切って顔をしかめている。
ヨアヒムが、ユリウスとクリスティーナの婚姻を王命として進めるのは、バレンシュテット家とユリウスを、王家にこれまで以上に強固に縛りつけるためである。
幼馴染としてのお節介がまったくないわけではないだろう。それでも、王太子としての判断を上回ることは決してない。
なにより、ユリウスにとっては隣に座る愛しい婚約者を、独力で繋ぎ止められなかったことが、腹立たしくも、情けなくもあり、複雑な思いとなっていたのだ。




