18.王太子の客人
クリスティーナが帰宅してふた月ほど、王都アンスリーに小雪が舞いはじめた。アンスリーの冬はそれほど厳しくないが、街が白く覆われるほどに降ることもある。
細かい雪が石畳の上に落ちては消えていく。白い結晶は、石の上でほんの一瞬だけ光って、すぐに溶ける。
バレンシュテット本邸の事件の後、クリスティーナは四日間滞在して、騎士団の聞き取りや調査に協力した。本邸の使用人たちには心配され、過保護なほどの扱いを受けた。
クリスティーナにかかわることが一通り終わると、今度は辺境伯家の馬車で自宅へと送り届けられた。ユリウスは随行したが騎馬で並走し、客車にはクリスティーナひとりで乗り込んだ。
その間もその後も、ユリウスは事件の処理に追われて、クリスティーナと話す時間はなかった。
家族のもとで普段の生活に戻ったクリスティーナは、すべてが夢であったかのように茫然と過ごしていた。
ただ、部屋にあふれるドレスやアクセサリーは、否応なく目に映り、ユリウスの存在を思い出させた。
そして、カードもなにもない、淡いピンクの薔薇の花束が「バレンシュテット辺境伯家の若君からです」と週に一度、届いた。
雪の中を届けられた、美しい薔薇を見つめているクリスティーナのぼんやりした表情を、ヨハンが心配そうにうかがう。視線に気づいたクリスティーナは、ぎこちない笑みを浮かべる。
「もうそろそろ、終わりになると思うのですけれど。お花が届いている間は、大人しくしておきますわ」
かける言葉がみつからず、ヨハンは愛娘の頭を優しくなでた。
部屋にこもり気味のクリスティーナだったが、花束が届いたときには、必ず自ら受け取りに出ていた。
その後も花束が幾度か届き、クリスティーナが作る永久花が、小さなアンハルト邸を埋め尽くす頃。
「ティーナ、ティーナ!」
ヨハンに大声で呼ばれたクリスティーナは、部屋の扉を開けて階段を下りた。
「お父様? どうかなさいました?」
ヨハンの側にアンナとフランツもいるが、三人とも顔をこわばらせて、クリスティーナを見つめてくる。
「どうかしたのですか?」
「……これが、今届いて」
ヨハンの手にある真っ白な封筒には、クリスティーナの名前が書かれている。受け取って裏返すと、クリスティーナも家族と同じ表情になって固まった。
差出人の記名はない。中央の閉じ口に濃い青の封蝋がなされている。
蝋にそっと指先を触れると、予想よりもはるかに美しい虹色の光が現れた。その色は、アンティリアに暮らす者なら誰もが、見たことはなくとも知っている。
「……王太子殿下の」
すべての『精霊の加護』が宿る虹色の魔力は、アンティリア王家の直系にしか現れない。王族はそれぞれ、虹色の中にひとつ突出した加護をもつ。
虹色の魔力をまとった青い封蝋、『氷の精霊』の加護が強く現れている王族は、ただ一人。王太子ヨアヒム・ディートリヒである。
クリスティーナだけが開けられるその封を解き、中からカードを取り出す。
書かれていたのは、簡潔な要件のみであった。
「明日、迎えを遣すので、王宮へあがるように、とのことです」
顔を見合わせてうろたえる家族に、クリスティーナは努めて落ち着いた笑みを見せて言った。
「バレンシュテット卿が、わたくしを王宮の女官に推薦してもよいと仰ったのです。王宮勤めなどおそれ多いので、お知り合いのお屋敷を、とお願いしたのですけれど。もしかしたら、本当にお話を通してくださったのかもしれません」
翌日、雪は止んでいたが凍てついた空気の中、王家の馬車に乗せられて王宮へあがったクリスティーナは、王太子宮の応接室へ案内された。
緊張で震える手足をなだめて、ソファにかけると胸元に手をあててユリウスの精霊石を確かめる。
王宮へあがるのに、強い魔力の精霊石を身につけていけば、咎められるかもしれないと思ったが、特に言及されることはなかった。
指先に感じる石の形をなぞっていると、詰めていた息が流れて少し楽になった気がした。
扉が開く音が聞こえて、クリスティーナは急いで立ち上がる。バレンシュテット家で教わった王族に対する礼を取る。習ったときには、まさか実践する機会が訪れるとは想像もしていなかった。
多少のぎこちなさは否めなかったが、どうにか形になっていたのは、花嫁修行の成果であった。
ヨアヒムはひとり掛けに座ると、クリスティーナにも着席を促して微笑んだ。短いが輝く金髪に整った顔立ちは気品にあふれ、それだけで気圧されてしまう。
生まれながらの支配者の顔には、クリスティーナがはじめて目にする虹色の瞳が煌めく。青玉が蛋白石の中に閉じ込められているかのようなその瞳は、確かに魔力封の魔力と同じ色である。
「よい、楽にせよ。と言っても、無理かな。今日は私的に呼び出したのだ。ユリウスの想い人の顔を見てみたかったのでね」
テーブルのお茶に手を伸ばしながら、ヨアヒムが口を開く。
「クリスティーナ・ベアトリクス・アンハルトでございます。お目にかかれて大変光栄に存じます」
今にも倒れそうに張り詰めたクリスティーナの顔を、ヨアヒムは面白そうにながめる。
「うん、なるほどね。いろいろ聞いてはいるが、私はよい仕事をしたようだな。実はそなたに会いたいという者がいるのだ。今日はそれを引き合わせるつもりで呼び出した。そなたにとっても、会っておいたほうがよいだろうと思ってね」
ユリウスとの婚約を、最初にもち出したのはヨアヒムである。その解消までを見届けるということなのか、クリスティーナはユリウスが現れたら、どのような顔をすればよいのか、わからなかった。
心底会いたかった人に数か月ぶりに会えるというのに、心は締めつけられるように苦しい。
しかし。ヨアヒムの合図で開いた扉から入ってきた人は、ユリウスではなかった。
歳はオットーと同じくらいに見える。金の瞳に少し暗い色合いの金髪のその男性は、顔立ちがユリウスに少し似ていた。
クリスティーナは瞬きをして、その人を見る。
「ヘルスフェルト伯、久しいな。まあ座れ。こちらが噂のアンハルト男爵令嬢だ」
ヘルスフェルト伯爵、クリスティーナが聞き覚えのある家名を頭に巡らせる。ジークリンデの実家だ、と思いいたるのにさほど時間はかからなかった。
「殿下、この度は誠にありがとうございます。このご恩は臣の忠誠をもって、必ずお返しする所存です」
ヘルスフェルト伯爵ベルトルト・リウドルフは、ジークリンデの実兄であり、ユリウスの伯父である。顔立ちが似ているわけだ。
妹の不慮の死に際し、伯爵家の者がかかわっていたことをおおいに悔いており、遺されたユリウスに、なにくれとなく世話をやいている人物である。
ユリウスの線の細い美貌よりも、凛々しい印象である。
「相変わらず堅苦しい奴だな。もともと私の意向だ、そうでなければ許さぬよ。おおむね期待通りの結果が得られたから、仕上げだな」
伯爵が座ったところで、王太子は虹色の瞳をクリスティーナに向けた。
「ヘルスフェルト伯だ。知っているかな?」
「お名前は、うかがっております」
「バレンシュテットを訪れる機会も減りましてね。ユリウスの母親の兄にあたります。お会いできて嬉しいですよ。クリスティーナ嬢」
生真面目であるが親しみのこもった口調は、水色の瞳のユリウスによく似ていた。自然と笑顔になるクリスティーナは、少しだけ緊張がほどけた。
「ありがとうございます。そのように仰っていただけて嬉しいですわ」
「ヘルスフェルト伯にはふたり息子がいるが、ずっと娘が欲しかったと言っていたな?」
王太子が唐突に話し出した内容に、クリスティーナは目をぱちぱちとさせる。いったい、なにを話しはじめたのだろうか。
「そうですね。贅沢な望みでしょうが、私も妻も娘がいたらどれほど楽しいだろう、とよく話しておりました」
にこにこと笑みを交わすふたりの様子をクリスティーナは、失礼にならないように、と気遣いながらうかがうが話は見えない。
なにやらまた、背筋に冷たいものが流れそうな気配がする。
「そう、そこでクリスティーナ嬢を、ヘルスフェルト伯爵家に養女として迎えてはどうかと話したら、伯も夫人も乗り気でね。話を進めようと思うのだ」
王太子の口もとは笑っているが、美しい瞳には怪しい光が宿っている。
なにを仰っているのかまったくわかりません。
クリスティーナは喉もとまででかかった言葉を飲み込んで、大きく目を見開いた。




