11.夜会
バレンシュテット辺境伯家、本邸の大広間。弦楽合奏の調べの流れる宴の会場で、ユリウスにエスコートされるクリスティーナは、貼りつけた笑顔に頬がつりそうになっていた。
隣を仰ぎ見ると、美麗な水色の視線が細く弧を描いて柔らかく降りてくる。
バレンシュテット家恒例の秋の夜会は、領内の貴族や騎士、有力な商家などが招かれる。各家の当主夫妻に、跡継ぎや未婚の娘たちが集まり、いわば領内の交流会である。
近隣の有力貴族も招待されており、王都の高位貴族の邸で開かれる夜会にも、ひけを取らない規模である。
音楽に美食に美酒。クリスティーナが物語でしか知らなかった世界が、目の前に広がっている。
そのきらきらした世界にひたる間もなく、次々とユリウスとその婚約者に挨拶する客がやってくる。
クリスティーナの青緑色のドレスには、鉱質に輝く水色の珍しい糸で、小さな花が細かく刺繍されている。
ユリウスに贈られたネックレスとイヤリングにあわせて、あつらえたものである。ところどころに縫いつけられた小さなベリルが、灯りの下で彼女が動く度に、光をまとって揺れて人目をひく。
それでなくても、次期バレンシュテット辺境伯が、男爵令嬢と婚約したことは、領内にも知れ渡っている。多くの招待客の目的は、婚約者となった、その男爵令嬢を見ることであった。
クリスティーナの手を取るユリウスは、濃い銀灰色の礼服に白いシャツ、水色に青のラインが入ったタイには、色合いの異なる琥珀を淡から濃へと連ねたピンが留めてある。
若者の装いとしてはいささか地味であるが、美貌の人は着るものを選ばない。加えて、もともと彼は人目を集める立場にある。
「疲れましたか?」
やっと人の波が途切れた合間に、ユリウスが声をかける。着飾ったクリスティーナを、彼が満足気に見ていることは気づかれていないはずだ。
「いいえ、疲れてはいないのですけれど、ずっと緊張していて。失礼がないとよいのですが」
「大丈夫ですよ。ただ、挨拶できたのはこれでもまだ半分くらいです。舞踏会ではないので、踊らなくてよいのはいいのですが。もう少し頑張ってください」
「はい」
クリスティーナへ向けられる視線は、好意的なものばかりではない。品定めをする視線、媚びる視線、そして若い貴族令嬢たちからの敵意に満ちた視線。
それらは想定内であり、先日騎士団で大歓迎されたほうが異例であったのだと、クリスティーナはあらためて思う。
ユリウスが側にいるので、あからさまな態度をとる者はいない。しかし、遠巻きになるほど鋭くなる視線が、常にまとわりついている。
若い令嬢や、その母親と思われる女性たちが、壁際でなにをささやき合っているか、聞かずともわかる。
「本当に地味な娘ね、ユリウス様には相応しくないわ」
「男爵家ですって? しかも所領もないのでしょう?」
「歴史あるバレンシュテット辺境伯家に、どうしてあのような娘が」
会場のあちらこちらから飛んでくる見えない針が、痛くないわけではない。しかし、クリスティーナとてわかっている。
ユリウスに相応しい家格か、せめて並んでも見劣りしないくらい美しい女性が、ここに立つべきなのだ、と。
「ああ、キッテル殿、今日はアルンシュタット卿の代理でしたね」
ユリウスが声をかけた相手は、四十がらみの恰幅のよい紳士であった。
「ええ若君、この度はおめでとうございます。アルンシュタット卿からも、お祝いをとことづかって参りました。本日もぜひうかがいたかった、と直前まで仰っていましたよ」
朗らかなその人は、クリスティーナにも丁寧に腰を折った。
「クリスティーナ、彼は南のアルンシュタット領で商会を営んでいるのです。キッテル殿、彼女が私の婚約者です」
「キッテルと申します。お目にかかれて光栄です。本日はアルンシュタット卿からのお祝いのワインをお届けにあがりました。私からもお祝い申し上げます」
「ありがとうございます」
にこにことしたキッテルの笑顔は、場を和ませる。商人としては得難い強みであるだろう。
「アルンシュタット卿もご令嬢のご結婚が決まったそうですね、お忙しいことでしょう。卿によろしく」
「はい。若君のご慶事には、またワインをおもちしますよ」
アルンシュタット子爵は、バレンシュテットの南に隣接する小規模な領地を治めている。
今の子爵の代になってから、ワイン醸造に力を入れて、完成した自信作を国王に献上した。そのワインを国王が大変気に入り、以来、ワインの名産地として王都で評判になっている。
アルンシュタットとは、有事の際には騎士団を派遣する取り決めを交わしている。代わりにバレンシュテットは、アルンシュタットの農産物を優先して購入できる約束となっており、近年はそこにワインも加わっている。
夜会には毎年、子爵がワインを土産に参加していたが、今年は一人娘の婚礼準備に忙しく、キッテルを代理に遣わしていた。
「ぜひ、そのときにはお願いするよ」
ユリウスがにこやかにこたえると、キッテルはもう一度クリスティーナに笑顔を向けてから離れて行った。
「アルンシュタット卿とは、親しいおつき合いですのね?」
「そうですね、子爵は領地経営で見習うべきところも多い方ですし、近隣にそうした相手がいることは有り難いですね」
「あら、こちらの騎士団をあてにされているのですもの。属領といってもよいくらいですわ。それくらい、バレンシュテットの者なら知っていて当然ですわね」
近づいてきたその人は、ゆるやかに波打つ金髪に翠玉のように輝く緑の瞳が、白い肌によく映えて美しい。
しかし真っ赤な唇から放たれた言葉が、その美しさを損なっていることに気づくようすはない。
「ギーゼラ……」
「久しぶりだなユリウス、それが例の男爵の娘か」
娘をエスコートするのは、父親であるノルトガウ子爵ロイドルフ・ブルーノである。
ユリウスは不快をあらわに美貌をゆがめ、叔父と従妹に形ばかりの挨拶をするが、クリスティーナはそうはいかない。目上に向けての礼の姿勢をとった。
クリスティーナに目を向けることすらせず、ロイドルフはユリウスに文句を連ねた。
「お前はいったいなにを考えているのだ。このような話が通るわけがあるまいに」
「貴方の考えのほうが理解できませんよ。私はもうクリスティーナ嬢に決めましたので」
クリスティーナが顔を上げると、ギーゼラが美しい顔に険しい目つきをのせているが、口もとだけは笑っていた。
「ギーゼラ・マティルデ・ノルトガウですわ。貴女がどこぞの男爵家の娘ですのね、困ったこと」
口紅と同じ真っ赤なドレスは、ギーゼラによく似合っている。全身にまとった自信あふれるオーラに気圧されて、クリスティーナは震えそうになる足をどうにか支える。
「クリスティーナ・ベアトリクス・アンハルトでございます。はじめまして」
クリスティーナの頭の先からドレスの裾まで、視線をゆっくり下ろすと、ギーゼラはわざとらしく大きなため息を吐いた。
「まあいいわ、貴女はユリウスの気まぐれに巻き込まれただけですものね。身の程はわかっているようだし、わたくしは無駄なことはしない主義なの」
どうやらギーゼラは、いずれユリウスとクリスティーナとの婚約は破棄されるもの、と思っているらしい。クリスティーナも同じことを考えているし、そう思われることでギーゼラの敵意がやわらぐのであればありがたい。
下手な返答で機嫌を損ねるよりは、とクリスティーナは曖昧な、自信のない風に微笑んだ。
ギーゼラは、格下のクリスティーナの気弱な態度に満足して、より高慢な笑みを浮かべる。
「今日のワインもアルンシュタットのものよ。今、王都の夜会ではどこにでも置いているわ。貴女、口にしたこともないでしょう。味わっておいたら?」
二度と口にする機会はないわよ、とは表情で語り、ギーゼラは給仕のトレイからワイングラスを取って、クリスティーナに差し出した。
アルンシュタットのワインどころか、酒をまともに飲んだことのないクリスティーナは躊躇したが、少し口をつけるだけでいいだろう、とグラスを受け取ろうとした。
そのとき、ギーゼラの視線がクリスティーナからそらされた。
ほんの一瞬であったが、その不自然な瞳の動きが、クリスティーナには引っかかった。ずっとにらむように彼女を捕らえていた視線が、グラスのボウルの部分に向けられ、そしてわずかにゆがんだ。
――なにかを気にしている?――
クリスティーナはグラスを受け取った左手に、そっと胡桃色の魔力をまとわせた。
ギーゼラの視線はクリスティーナの顔へと戻り、赤い唇の端がゆっくりと上がる。
クリスティーナの左手から背筋にかけて、ぞわぞわとした嫌悪感が走り、大きく目を見開いた。
そのとき、隣でロイドルフと話しながらも、クリスティーナのようすをうかがっていたユリウスが、すっと腕を伸ばした。
「クリスティーナ嬢は、まだ酒に慣れていないから、これは私がいただこう」
――だめ!!――
グラスをユリウスに渡すまいと、クリスティーナが思わず左手に力をこめる。
ギーゼラが細く整えられた眉をゆがめて、ユリウスをさえぎろうとする。
三人の手が、それぞれの意思をもって別の方向へと動き、グラスがかたむいて中身がこぼれた。
「きゃあ!」
大声を上げたギーゼラが、グラスの脚に指先をかけて、ワインをクリスティーナに浴びせかけようとする。
クリスティーナは、視界に飛び散る紅い液体を避けようとした。だが間に合わない、と思ったそのとき、目の前に花火が広がるようにワインの雫が円を描いた。
ユリウスが張った結界に阻まれた邪気が、流れ落ちる。
クリスティーナはその赤い線を見つめながら、気を失って倒れた。




