10.バレンシュテット辺境伯領
つかの間、優しい沈黙が満ちて、ふたりともに馬車の揺れに心地よく身を委ねていた。
このまま時が止まってしまえばいい、とユリウスは心底思ったが、ひとつため息を吐き出してから再び口を開いた。
「叔父もギーゼラも、僕がクリスティーナと婚約したことに激怒しているそうだ。嫌味のひとつですめばいいが、なにをしてくるかわからない。夜会以外で会うことはないと思うが、夜会には必ず来る。当日は僕の側を離れないようにしてくれ」
「ギーゼラ様はおいくつですの?」
「僕の五歳下だったかな。今年十九になるはずだ」
クリスティーナが顔を曇らせる。それを見て、ユリウスも苦笑をこぼした。
「そう、僕と結婚するつもりでいたのに、あてが外れた。その意味でも怒っている。だが、そもそもこちらは承諾していない。それに、ギーゼラの母親は自分はヴラジエンの王女だ、と言い放つような人でね。そのような人物を、バレンシュテット家に入れることは陛下がお許しにならない。母親については、以前から父上が出入り禁止を言いわたしている」
なぜ結婚できると思っているのか不思議でならない、とユリウスは肩をすくめた。
十九歳の貴族令嬢が未婚であること自体は、それほど珍しくない。だが、婚約者だと吹聴していた相手が別の令嬢――しかも格下の男爵令嬢――と婚約したとあっては、かなり自尊心が傷つけられたことだろう。
さらに、今後あらたな相手を見つけることも難しいようすである。クリスティーナに対するノルトガウ子爵家の恨みは、かなり大きくなっているかもしれない。
黙り込んだクリスティーナを見て、ユリウスの眉が下がる。
「こうした事情を知っている貴族は、我が家を避けるか、あるいは利用しようとするかだ。僕の加護については極秘の扱いなので、知る者は限られる。だが、今回の婚約の話は王宮に出入りする貴族には、ある程度広まっている」
「夜会にはそうした方々もいらっしゃるのですか?」
クリスティーナにとって、社交界など縁遠い世界であった。貴族社会の軋轢や力関係など、まったくわからない。だが、これからしばらくは、その中に入っていかねばならないのだ。
「いや、今回は領内の富裕層と、近隣の我が家とつき合いが長い貴族だけだ。基本的には、バレンシュテットが平穏であることを望んでいる人たちだ。陛下や父上は、王宮の最後の夜会へ一緒に出席しろと仰っていたが、そちらは有象無象の巣だからな。クリスティーナは、いきなりそのようなところへ連れて行かれても困るだろう? まずは領内の夜会で、と話をつけた」
クリスティーナは目と口を大きく開いた後、慌てて口を手で覆った。ユリウスは顎に拳をあてて、くすくすと笑った。
「……ありがとうございます」
「まあ、もっともらしく聞こえるから、僕が王宮を避けるための言い訳にしただけだ」
王宮に行くとろくなことがない、とユリウスはわざとらしく顔をしかめた。
王宮にあがるなど、一生縁がないと思っていたクリスティーナは、背筋に冷たいものが流れるのを感じながら、当惑した表情を隠せずにいた。
「このような話を聞かされて、不安にもなるだろうが、夜会は王都へ帰る直前だ。それまではバレンシュテットを楽しんでいってくれ。自然豊か、と言えば聞こえはいいが、まあ田舎だ。僕は気に入っているけれどね」
ユリウスの笑顔をクリスティーナは、ずるいと思う。
その笑顔を向けられたら、クリスティーナは自然とうなずいてしまうのだから。
バレンシュテット辺境伯領を案内するのは、水色の瞳のユリウスだった。
バレンシュテット辺境伯家の最も重要な役割は、騎士団による国防である。いずれ辺境伯夫人となるのであれば、これを避けては通れない。
まずは騎士団の見学に連れ出された。
鍛錬場では剣のぶつかり合う音におののいたが、そっと背中にまわされたユリウスの手に、支えられた。
最後に、騎士団長の挨拶を受けた。
騎士団長は、その任に相応しい大柄の壮年の男性だった。クリスティーナに騎士としての礼をとると、ユリウスになにやら耳打ちし、にらまれていた。
一通りの施設を見てまわり、帰途につく頃には、クリスティーナは少なからず疲れていた。
「騎士団の規模は国内有数ですが、女性がご覧になって楽しいものではないでしょう」
「騎士の方々にお会いするのも、鍛錬場を見学するのもはじめてですから、興味深く拝見しましたわ。剣を交える訓練は流石に緊張しましたけれど。ユリウス様も、普段は参加しておられるのですよね?」
ユリウスはクリスティーナの歩調にあわせて、ゆっくりと進む。
「こちらにいるときは、毎日顔を出しますね。辺境伯を継ぐよりも先に、騎士団を任されるでしょうから。ここの騎士たちに認められるだけの実力は、身につけなくてはなりません」
クリスティーナは、ユリウスの腕に添える手に少し力をこめて、しっかりと握った。ユリウスが振り返ると、濃い琥珀色の瞳が彼を見上げている。
「お怪我には気をつけてくださいね」
はじめて剣を握る騎士の姿を目にして、恐ろしかった。ユリウスの腕前は知らないが、強い魔力で身を守れることは剣術でも有利に働くだろう。
それでも、日常の鍛錬ですらあれほど怖い思いをしたのに、実戦に向かうことを考えると恐怖を感じる。
硬くなったクリスティーナの表情に、ユリウスはおだやかな声をかけた。
「もちろんです。貴女に心配をかけないように」
騎士団を見学した翌日には、西の樹海に沿って街道を巡り、領内の精霊殿へ向かった。
「バレンシュテットは広いですが、この樹海が占める部分が大きいのです。領民の住む村落や街は、それほど多くないのですよ」
「そうなのですね。とても広い領地を治めておられるとしか、存じませんでした」
広大な田舎です、とユリウスは笑う。
馬にふたり騎乗のため、クリスティーナは背中に感じる体温と、頭の上で響く声にずっと翻弄されている。
彼女の声がうわずっていることにユリウスも気づいていたが、淡々と所領について説明する。
夏の日差しは樹海の樹々に和らげられて、葉の影を浴びながら南に進む。
「領地の広さのわりに、活用できる土地や人が住める場所は限られています。騎士団の詰所がある街では、ある程度人も集まって栄えていますが、外れた地域では貧しい領民も多い。父の代になってから、騎士団中心の領地経営を見直していますが、まだまだです」
領地をもたないアンハルト男爵家には、まったく縁のない悩みである。
バレンシュテット辺境伯家は、国軍の将軍としての任を長年負ってきた。だが、ヴラジエン王国との外交が表向きは上手くいっている現在、その意義はいくらか薄れている。
その昔、ヴラジエンの前王家が侵攻を試みた際には、樹海の一部を切り拓いて攻め込んできた。皮肉にも、そのときにヴラジエン軍が作った道が、今では両国を結ぶ街道となっている。
街道上の国境警備と、樹海から迷い出る魔獣の討伐が主な任務となり、騎士団は樹海周辺に多く配備されている。
以前は街道の整備にも人員が割かれており、樹海に沿って巡る街道を網羅できるようになったのは、近年のことである。
領内の東側はいまだに手薄だが、そちらはアンティリア国内の領邦であることから、国境のほうが優先されている。
東側でも近隣へつながる街道沿いには、それなりの街もある。しかし、そこから外れた土地には、日々の暮らしにもこと欠く領民も多い。
「騎士団はバレンシュテットの存在意義そのものです。ですが、騎士団はなにも生み出しません。むしろ維持には、かなりの負担がかかります。父は騎士団を私に譲って、領地経営に専念したいようなのです。そのためにも、はやく結婚しろと」
バレンシュテット騎士団は国軍に属するとはいえ、所属する騎士たちは辺境伯家の家臣である。
主家の若君であり、実力も充分であるユリウスが上に立つことに異論のある者は少ない。しかし、妻を迎えてようやく一人前、と考える家臣は古参になるほど多いものである。
「ユリウス様のお歳なら、急がれる必要はないのでは、と思っておりましたけれど、そういうことでしたのね。騎士の皆さまがわたくしに優しくしてくださったわけがわかりましたわ」
「はは、若い連中は王都の貴族令嬢に接する機会がないから、緊張していたようですね」
「まあ、そのように大層な者ではありませんのに」
昨日、クリスティーナは「男爵家ごときが」といわれるのを覚悟して、騎士団の門をくぐった。だが、下にも置かない丁寧な扱いをされて、驚いた。
「うるさい古株たちも、貴女のことをほめていましたよ。まあ、失礼な言い方ではありますが。ギーゼラより、よほど素直なご令嬢でよいではないか、とね」
ユリウスが苦笑しながら、教えてくれた騎士たちの言葉に、クリスティーナも同じく苦笑を返すしかなかった。
「よい印象なのでしたら、よかったですわ」
「ええ、私も安心しました。ああ、見えてきました。旅の精霊術士が住み着いたと聞いて、父が数年前に正式に精霊殿とするよう、陛下の許可をいただいたのですよ」
貴族ではない民の中にも、精霊の加護の器が大きく、相当の魔力を有する者が生まれることがある。そうした人物が精霊殿で修行を積み、認められると精霊術士を名のる。
精霊術士は、各地の精霊殿で魔力を用いて、民を助け、導く役割を担う。
その術士は、資格は得たが精霊殿には属さず、旅の中で求められれば力を貸し、また別の土地へと旅立っていく魔術士のような暮らしを続けていた。
しかし、旅を続けることが難しくなった折に、バレンシュテット領へとたどり着いた。
各地の精霊殿はすべて、王都にある大精霊殿の分殿とされる。また、新たな精霊殿を建てるには、統括する精霊術士が必要であるが、術士の数は常に不足している。
王家との縁が深いバレンシュテット領であっても、辺境伯の城に附属する精霊殿がひとつあるのみであった。そのため、精霊術士の恩恵を受けられる領民も限られていた。
旅の術士をユリウスの父が口説き落とし、国王の許可も取りつけて、小さいながらも精霊殿を設けたのが、十年ほど前のことである。
「そのときの精霊術士様が今もおられるのですか?」
「そう、足を痛めて旅を続けることを諦めたそうです。たしか父と同じくらいの歳だったはずです。バレンシュテットに用もあったらしく、そのまま留まってくれています。ああ、見えてきましたよ」
ユリウスの視線の先に、王都のバレンシュテット別邸の庭にあったガゼボと同じ色合いの、こぢんまりした石造りの建物が現れた。
門の前で馬から降りたユリウスが、クリスティーナへ手を伸ばす。その手を頼りにクリスティーナも地面を踏み、ユリウスの腕に手をからめた。
それが自然とできるくらいには、一緒に過ごしている。少しでも長くこのときが続くように、とお互いに想い合っていることは、まだ届いていない。




