1.貧乏男爵令嬢のお見合い
よく晴れた日の澄んだ湖面に、風が流れて細波がきらめく。
透き通った淡い水色に、きらきらと金色の砂が舞い散るように輝く様にクリスティーナは見惚れていた。
――綺麗。こんなに美しい瞳があるなんて――
だが、風が雲を運び、陽の光がさえぎられても金色の輝きは失われない。その瞳の眼差しが次第に鋭さを帯び、クリスティーナは違和感を覚える。
――瞳の色が変わった? なにが起こっているの?――
クリスティーナを見つめる金色に変わった湖の瞳が、細く縁取られる。にっこりと微笑む口が発した言葉は、それまでの柔らかい口調とは違って、きっぱりとした意思の強さを感じさせるものであった。
「やあ、はじめまして。僕にも自己紹介させてもらえるかな。クリスティーナ・ベアトリクス・アンハルト男爵令嬢?」
クリスティーナは今まで会話を交わしていたはずの人に、「はじめまして」と言われた意味がわからず、茶色の瞳を大きく見開いて首をかしげた。
アンティリア王国が中央に座すその大陸には、精霊の加護の力が漂っており、すべての人がその力を受け止める器を持って生まれてくる。
器にはそれぞれに精霊の加護が与えられ、加護によって魔力と瞳の色が定まっている。
『大地』『水』『森』『風』『火』『氷』の精霊の加護の力は、人びとの器に魔力として注がれる。
その魔力によって魔法を使うことができるのだが、民の魔力はそれほど多くはない。
しかし、王侯貴族は大きな器を持ち、その身のうちに多くの魔力を宿す。その魔力を空の石と呼ばれる特殊な鉱石に込めると、それは魔力を留める精霊石となる。精霊石があれば、器が小さな者でも大きな魔力を用いることができるのだ。
精霊石をつくれるだけの魔力を持つことが、貴族の資格である。器が小さく、精霊石をつくれない者は貴族の家に生まれても、貴族籍には加えられない。精霊石を領民に配分して、彼らの生活を成り立たせることも貴族の義務であるからだ。
アンハルト男爵家は、領地を持たない貧乏貴族である。当代男爵ヨハン・ヴェンツェルの精霊の加護の器は、かろうじて貴族籍を得られる程度のものでしかなかった。
しかし、庇護すべき領民がそもそもいないため、貴族の責務として定められた精霊石を毎年国に納めることで、爵位を維持している。本職は王宮の事務官、しかも書庫担当という地味で、薄給の仕事に就いている。
したがって、ほぼ名ばかりの貴族である。だが、ヨハンにも、男爵位を自分の代で王家に返上するのはご先祖様に申し訳ない、と考えるくらいの矜持はあった。
そのため、やはりぎりぎりで貴族籍を得た長男フランツ・ジギスムントには自分と同じ、薄給でも安定した王宮事務官の職を勧めた。フランツはこの春に、めでたく王家の狩場の管理官の職に着任したばかりである。
フランツはどうやら幼馴染の恋人と上手くいっているようで、このまま結婚してくれれば、ヨハンにとっては一安心、というところであった。
ただ、娘のクリスティーナ・ベアトリクスについては、父親として不甲斐なさを感じていた。どうにかデビュタントの用意は整えてやれたが、その後も社交界へ送り出せる財力はない。今のままでは持参金も用意してやれそうにない。
どうか人並みの結婚をさせてやりたい、とは考えているが、見合いのあてもなく、なにより本人にその気がないようで、ヨハンは少なからず心配していた。
当のクリスティーナは父親の心配をよそに、まったく悩んでいなかった。家の事情はよくわかっているし、兄もそろそろ結婚するだろう。
兄の恋人は、クリスティーナにとっても気安い幼馴染だが、新婚家庭に姑と小姑がそろっているのもうっとうしいに違いない。
幸いにもクリスティーナは男爵令嬢である。どこか高位貴族のお邸で住み込みのメイドにでも雇ってもらえないか、と考えはじめていた。
そのような折に、アンハルト男爵家に一通の書簡が届いた。
バレンシュテット辺境伯からアンハルト男爵へ。男爵令嬢クリスティーナ・ベアトリクスと、辺境伯の嫡男ユリウス・アーダルベルトの見合いの申し込みであった。
その書簡の封蝋には魔力封が施されていた。宛名の人物にしか、書簡を開封できなくする魔法である。貴族の魔力がなければ使うことはできず、施した者の魔力を帯びるため、差出人の証明にもなる。
あいにくヨハンには魔力を読み取る力はなく、またバレンシュテット辺境伯の魔力も知らなかった。だが、明らかに強力な魔法が施されていたので、書簡が本物であることは疑いようがなかった。
ヨハンも妻アンナ・ユーディトも、書簡を読んで理解に苦しんだ。
まったく面識のないバレンシュテット辺境伯から、なぜ我が家のような領地もない貧乏男爵家に、見合いの申し込みが届いたのだろうか。
「貴方、バレンシュテット卿と面識がおありでしたの?」
「そのようなことがあるわけがないだろう。あんな大貴族様とご縁のある仕事ではないよ。日がな一日、古書の虫干しをしているだけで」
「そうよねえ。なら、どうしてこのようなお話が……」
眉間にしわを寄せる妻を見ながら、ヨハンはうなった。
バレンシュテット辺境伯は、代々アンティリア王国の西の地を治める重鎮である。国内の辺境伯の中でも古参であり、当代国王の信任も厚い。そんなことは誰でも知っている。
「まさかとは思うが、クリスティーナがどこかで見初められた、などということは?」
「まさか! あの子はデビュタントの後、夜会どころか茶会にも招かれたことはありませんし、騎士爵より上の貴族の知り合いもいないでしょう?」
男爵夫妻はうなずきあうが、結論は見えてこない。ヨハンは大きなため息を吐くと、家族会議だな、と言って子どもたちを自ら呼びに行った。
珍しく難しい顔をしたヨハンに呼ばれてソファに座った兄妹は、互いに視線で問いかけるがどちらも首を横に振る。
アンナがお茶を淹れて、それぞれの前に置いたところで、ヨハンが口を開いた。
「お前たちはバレンシュテット辺境伯を知っているかな?」
唐突に、縁もゆかりもない大貴族の名前が出てきて困惑する兄妹は、同じような仕草で首をかしげた。
「ええと、西のほうに大きな所領のある大貴族、としか知りませんが。国境を守る騎士団をお持ちでしたかね」
首を斜めにしたまま腕を組んだフランツが言うと、クリスティーナは黙ったままうなずいた。
ヨハンはクリスティーナの顔を見て、重ねてたずねた。
「クリスティーナもか?」
「ええ、ご家名はもちろん存じておりますけれど、それは庶民ですら、というくらいの話でしょう?」
ヨハンはお茶に口をつけると、そうだろうな、とひとりごとのようにつぶやく。アンハルト男爵家は貴族といっても、庶民寄りの家である。
「そのバレンシュテット辺境伯から、書簡をいただいたのだが……。クリスティーナにご子息との見合いを申し込まれた」
「は?!」
驚きの声をあげたのはフランツである。クリスティーナは驚きのあまり、声すらでない。
そのようすを見てヨハンはかえって落ち着きを取り戻し、冷静に娘にきき直した。
「心あたりはないのだな?」
「……まったくありません。そもそも貴族の知り合いは、アグネスのお家くらいしかいないことは、お父様もご存知でしょう?」
アグネスはフランツと恋仲の幼馴染である。アンハルト男爵家とは家族ぐるみで親しくしているが、騎士爵の家柄だ。
「そもそも、その書簡は本物ですか?」
フランツが首を戻してお茶に手を伸ばしながら、テーブルに置かれた封筒を見やる。
「本物だ。バレンシュテット卿を騙って我が家を騙して、どうなるというのだ」
「確かにそうですね。詐欺にしても辺境伯の名を騙って、捕まればただではすまない。なら、本当にティーナを?」
フランツは隣でお茶を飲む妹を見る。薄い茶色の混ざったくすんだ金髪に茶色の瞳、十七歳にしては落ち着いて見えるが、歳相応の可愛らしさはある。だが、身内のひいき目で見ても、平凡な容姿である。
「お兄様、失礼です」
「なにも言っていないだろう」
「顔に書いてあります。……まあ、わたくしがどこかでご子息の目にとまった、ということはありえないでしょう。機会がまったくありませんし、容姿が十人並みなのは自分でもよくわかっています」
息子と娘のやり取りに目を細めてヨハンは、肩をすくめた。
「ティーナは大切なお姫様だが、それはあくまで『我が家の』だからな。身の程を知っていることは、美徳だと思うよ」
ヨハンが親馬鹿ではなく堅実な人であることを、クリスティーナも美徳だと思っている。たとえそれが世間の評価にはならなくても。
「ありがとうございます、お父様。まあ、ですからこのお話には、なにかわけがあるのではないですか? 我が家には想像もつかないような」
「そうだろうね。こちらからお断りできるような立場ではないし、お話だけでもうかがってみようか」
ヨハンの言葉にうなずきながら、クリスティーナは思いついたことを口にした。
「お父様。お兄様も任官されたことですし、わたくしもメイドに雇っていただけるお邸を探そうと思っておりましたの。バレンシュテット家のお邸でなくても、お心あたりがないか、おききしてもよろしいでしょうか」
「ああ、先方からこのような書簡をいただいたのだし、それくらいでお気を悪くされることもないだろう。そうだな、バレンシュテット卿にご縁のあるところで雇っていただけるなら、安心だ。そちらの話のほうが我が家としては、ありがたいな」
現実的な決着をみた家族会議であったが、最後にアンナが笑いながら言った。
「まあ、夢のないこと! うちの可愛いティーナが、バレンシュテット辺境伯のご子息に、見初められたのかもしれないのに!」
ヨハンとフランツ、クリスティーナも、アンナの顔を見ながら声をあげて笑いあった。
ヨハンはバレンシュテット辺境伯家へ返信を送った。
大変光栄なお話ではありますが、おそれ多いことです。ご意向をおうかがいしたい、と知る限りの言葉を尽くし、無礼にならないよう配慮した書簡に、さらなる返信はすぐに届いた。
そして、ヨハンとクリスティーナは、バレンシュテット辺境伯の王都別邸へと招かれたのである。
「やあ、よく来てくれましたね。この度は驚かせてしまい、申し訳ない」
バレンシュテット辺境伯オットー・ロタールは、武門の人に相応しい体躯の持ち主である。
アンティリア王国の西の国境を預かる家に生まれ、その任に誇りを持っている。
バレンシュテット家は、辺境伯自らが率いるアンティリア王国でも有数の規模の騎士団を持つ。
アンティリア王国と、西の隣国ヴラジエン王国との境には、精霊の加護の力が濃く漂う樹海が広がっている。過去には、ヴラジエンがこの樹海を超えて攻め込んできたこともあるが、数代前にヴラジエンの王朝が交代してからは、表面的には友好関係を保っている。
そのため、現在は樹海に生息する魔獣が、領民の居住地へ侵入した際の討伐や、治安維持がバレンシュテット騎士団の主な任務となっている。
それでも、バレンシュテット辺境伯家がアンティリア王国の西の雄であり、騎士団が国防の要であることに変わりはない。
当代バレンシュテット辺境伯は、その任に相応しい風格と実力を兼ね備えていた。
対するアンハルト男爵は緊張しきり、額から流れる冷や汗を幾度となく拭きとり、手に持つハンカチーフはすでにしっとりと濡れていた。
「い、いえ、お目にかかれて大変光栄に存じます。こちらが、娘のクリスティーナ・ベアトリクスでございます」
クリスティーナも緊張の中、持てるお淑やかさを総動員して淑女の礼をとった。
親娘の様子を微笑ましく見るオットーは鷹揚にうなずき、着席を促した。
「緊張するな、というのも無理なことでしょうな。この度の話は我が家からの申し出ですから、ご安心いただきたい。さてと、ユリウスはまだか?」
オットーが口髭の立派な執事に問いかけると、お呼びして参ります、と部屋を出て行った。
少しして部屋に入ってきたのは、濃い栗色の髪に水色の瞳、その目は切れ長ではあるが瞳の柔らかい印象をさえぎることはない。控えめに言っても容姿端麗な貴公子であった。
「ユリウス、今日のことは伝えてあっただろう。お客様をお待たせするものではない」
「申し訳ありません。ユリウス・アーダルベルト・バレンシュテットです。はじめまして」
ユリウスは悪びれるわけでなく、その美貌を惜しまず爽やかな笑みをクリスティーナへ向けた。
クリスティーナは思わず見惚れていた。これまでの人生で出会った中で、最も麗しい人が自分に微笑みかけている。十七年ではじめての出来事であった。
しかし、ヨハンにとっては明日の我が身を考えて、最善を尽くさねばならない相手である。場合によっては首が飛びかねない。比喩でも問題だが、先方は物理的にそれを飛ばすことも可能な権力をもっている。
「ヨハン・ヴェンツェル・アンハルトにございます。クリスティーナ、これ、ご挨拶を」
父に促されて我に返ったクリスティーナは、頬を真っ赤に染めて、なんともたどだどしく礼をとったのであった。




