5 婚約相手との出会い
私はゆっくりと谷川の崖へと近づいていった。
幸せとは言いがたいが、これ以上不幸になることもないのだから、これでいいだろう。
だが、飛び込む前に「待てっ!」という激昂した声が聞こえた。
山賊たちにとったら首の一つでも持って凱旋したいだろうし、待てと言いたいだろう。
あるいはアルデミラ侯爵令嬢や王子が首を持ち帰らないと恩賞を出さないとでも言っているのだろうか。
だが、声の必死さが少し違ったように感じた。
「待てっ! 死ぬな!」
再び、声がかかって、私は声のほうを向いた。
狩人のような青年が山賊の奥に立っていた。
明るい茶色の髪が西日を受けて、輝いている。
山がちな場所だし、狩人がいてもおかしくない。
だとしたら、この場に出くわしたせいで、彼も不幸にも命を落としてしまう!
「面倒だな。お前ら、とっととそいつも殺せ!」
山賊のリーダー格がそう命じた。
やはり、あの人も殺される!
こんなところで、あなたまで命を散らすことなんてないのに!
だが――狩人の青年はすぐに矢を放つと、近づいてきた男ののど元に矢を打ち立てた。
もう一人には、ナイフにしては長い刃物を抜いて、同じくのど元を切り裂く。
「悪いが、この森のあたりも敷地内なんだ。領内での狼藉は処刑してよいことになっている」
「こいつ、やけに手馴れてやがる!」
リーダーも異常を悟ったが、もう遅かった。
器用に刃物を操る青年は残りの山賊の息の根も止めていった。
あっという間に、5人いた山賊は全員絶命していた。
まさか、一人で5人を倒すなんて……。
私は茫然とその様子を見つめているしかできなかった。
「怪しい輩がうろついているという話を村の住民から聞いていて、少し張っていたんです。家督争いが起こりようもないところなので、普段は平和なんですが」
長いナイフ(ナイフと呼ぶべきかはわからないが、そう呼ぶ)を布でふき取りながら、青年が説明する。
「しかし、普段は平和なおかげで異常に早く気づくこともできたので、その点はよかったのかもしれません。婚約者の方も通る道ですし、無事に退治できてよかったですよ」
「婚約者?」
「そうです。本当に青天の霹靂と言っていいんですが、突然、王都の伯爵令嬢と婚約しろという命令を受けました。王子直々の通達なので命令と同じです。とにかく、お越しいただく準備だけはしなければと待っていたのですが……」
「なるほど。大変ですね」
「ええ。くつろいでいただける場所もろくにない田舎なので、教会の空き部屋をきれいにして、ひとまず伯爵令嬢の居所にしました。ところで、ずいぶんと大荷物のようですが、隊商の方ですか?」
「いえ、オールモット村を目指しているのです」
「あの村に用事があるだなんて珍しいですね。本当に何もないところで――――えっ? まさか……」
青年は何かに気づいた顔になった。
目が大きく見開かれている。
「もしや、薬草伯の長女、ティエラ・エキュール様でしょうか?」
「まさしくティエラです。危ないところを助けていただき、本当にありがとうございます」
青年はその場にひざまずいた。
「これは突然のご無礼を失礼いたしました!」
まだ、私も気持ちが落ち着いていなかった。
なにせ、この青年がいなければ、今頃死んでいたのだ。
「あの……あなたは子爵の従者の方でしょうか? それとも村の狩人の方でしょうか?」
すると、青年は顔を紅潮させた。
「あの、王都の貴族の方には信じられないかもしれませんが……僕がオールモット村の領主、オーキッド・ハルクスです」
「えっ! 私のほうこそ、大変失礼いたしました。従者と見間違えるだなんて……」
まさか命の恩人が婚約相手とは……。
「お気になさらないでください。そうですよね、まさか領主が狩人のような見た目をして、一人ぽつんと出てくるなんて思えないですよね。狩りを楽しんでいるとしても、従者がぞろぞろいると思うはずです」
子爵は明らかに恥じ入っている様子だった。
「その……僕には本当に一人の従者もいないのです。村長だって下男やメイドぐらいは雇っているでしょう。それぐらいの小領主なんです」
つまり、彼一人がぽつんといるということか。
いや、それでも家族がいるのではないか。弟や親族が従者に近い役目を果たす騎士のケースはよくある。
「では、ご家族は?」
ますます、彼はうつむいてしまった。
命の恩人と向き合っているというより、犯罪者を責めているような空気だ……。
「両親は幼い頃に亡くしていて、兄弟もいません。親類も何代も前に分かれた親類と呼べないほどの者のみで……ほかの領主に天涯孤独と揶揄されたこともあります」
「そうでしたか……」
そうとしか言いようがない。
ここまで何も持っていない領主なんて実在するのだろうか。
「これでおわかりかと思いますが……爵位があるだけで、とても本来はあなたと婚約することなどできない立場なのです」
つい先刻、勇敢に山賊を打ち倒した様子はみじんもない。
なんで、そんなにつらそうにしているのだろう。
「ですから、破談にしていただいて構いません。この縁談もおそらく何者かの悪意によるものでしょうし……」
卑屈になることはないのに。
胸を張ればいいのに。
小領主とはいえ、罪で領地を削られたわけでもないのだし。
いや、卑屈なのは、彼だけじゃない。
私も同じじゃないか。
むしろ、彼は私とよく似ている。
自分に存在価値などないとずっと卑屈に生き続けてきて、運命に流され続けてきた。
逆の立場になっても、私は似たことを口にしたと思う。自分に価値はないからこんな縁談はやめていいと。
私は彼の前で腰をかがめた。彼と同じ目線になるように。
「顔を上げてください、子爵」