最終話 これからも幸せになるから
父の書斎は以前ほどの入りづらい空気はなかった。
たくさん並べられた本が発する独特の匂いも今となってはなつかしくさえある。
書斎に入ってすぐに気づいたのは、父の机に向かい合うように椅子が一つ置かれていたことだ。
「そこに座れ」
命じられたのだからそのまま従うことにする。
椅子が気づかいの現れかどうかはわからない。父がしかめっ面なのもいつものことだし。今のところ、違いと呼べるようなものはない。
「どういったご用件でしょうか?」
堅苦しい態度のようだが、これは元からだ。さらに今の私はオーキッドの家の人間として来ているのだから、余計にそうだ。
「まず、ヘルティアを助けてくれたことには改めて礼を言う。居候のこともそうだが、看病もしてくれたらしいな」
そんな話は先ほど出ていなかったはずなので、となるとヘルティアが手紙でも出していたのだろう。それしか理由はない。
「看病といっても、風邪に対する一般的な施薬です。薬草伯家の人間ならできて当然のことです。ヘルティアが回復したのも、薬草のおかげではなくて本人の体力によるものです」
「それぐらいはわかっている。それでも、お前が看病をしたのは事実だ。その点には報いなければならないと思う」
父の視線が本棚に向いた。
「あそこに並んでいる本はいずれももっと状態のいい本を手に入れる目途がついた。なので、すべてお前に譲る。それと、貴重な写本も予備が手に入った。馬車に載せて、持って帰れ」
「えっ! いいんですか!」
私が声を上げたのは相当貴重な本が何冊も混じっていたからだ。ナクレ州を悪く言う気はないが、ナクレ州で探し回っても、ほぼ見つからないだろう。
入手ルートも私にはないし、それは率直に言ってありがたい。
薬草学の腕前は知識の量にかかっている。薬草の乾燥や樹液の抽出の上手い下手もあるかもしれないが、知識がないとどうにもならない。
「ああ。店を開いているのだから、参照できるものは多いほうがいいだろう。それぐらいは持っていけばいい」
風邪をひいただけの人間を看病して、ナクレ州では大金を積んでもそもそも入手しようがない本を大量にもらえるなんて、あまりに恵まれた話だ。
感覚としては、あいさつが元気なだけで荘園を三つもらったとか、それぐらいに破格の待遇と言っていい。
「では、お父様の気が変わらないうちに早めに持って帰りたいと思います。過ぎたる褒美だとは思いますが、それでももらえるものはもらいます」
「ああ、そうしろ。お前には薬草伯家を継がせることはできないからな」
父がうつむいた。
まるで頭を下げているように見えた。
「継がせることができないって、それは何重にも当たり前のことでしょう。婿をとる嫡女でもないですし、まして薬草伯を女子が継いだ例はありません。しかも、たとえ候補者の一人だったとしても私は遠方の領主の妻となっています」
「すべて承知のうえだ。まったく、お前が男だったら別家を立てさせるぐらいのことはできたのだがな……」
その時、私は父が薬草学の知識については自分を評価してくれていたのだと初めて気づいた。
薬草伯家に生まれたからには男女関係なく、親の身分も関係なく、薬草学の精髄を知るべきである――その点だけは父はブレなかった。
もし、母親の身分が低いからということで、勉学の機会を与えられなかったら、私は何者にもなれなかっただろう。
「何を今更。実績があるなら多少は褒めてくれないとわかりませんよ。最近の教育は褒めてやる気にさせるほうが効率がよいという話ですよ」
「別家のようには扱えんが、それなりの援助はする。それは陛下からも言われているからな」
「そういえば、前にお金が送られてきたことがあったような……」
「お前が危難を乗り越えたことは陛下もよくご存じだ。少しは贖おうという意図をお持ちなのだろう」
「では、それもありがたく受け取ります。賄賂などでないのであれば、所領経営の助けになるのはありがたいですから」
今後、オールモット村に飢饉がやってくる年もあるかもしれない。その時、お金のたくわえがたくさんあれば、遠くから食料を運んでくることもできる。備えはあったほうがいい。
「話は以上だ。ゆっくり休んでいけ」
久しぶりに戻った実家はなんとも私に優しい場所に変わっていた。
〇 〇 〇
オールモット村が近づいてくると、出立の時より雪が溶けているように感じた。
馬車は目的地を目指してのんびり進んでいく。
「もっと、ゆっくり王都を観光してもよかったんですよ」
「いや、大都会は僕には慣れないんだよ。数日で十分さ。このへんも、だいぶ春が近づいてきたね。いや、もう春に入ってると考えていいのかな」
隣に座っているオーキッドが楽しそうに言った。
「そうですね。そろそろ薬草探しができる季節になってきました」
「あのさ、またお金をもらえるとかいう話だけど、本当にいいのかな……?」
遠慮がちにオーキッドが聞いてきた。
オールモット村に着く前に懸念を先に話しておこうということだろう。
「小さな地方領主がもらうにしては大きい額なんだけど……」
「あくまでも私の実家が援助として送ってくるわけですから、オーキッドは気にしなくていいんですよ。常識の範囲内です。もちろん所領経営に使っても大丈夫です」
「僕が得してばっかりで申し訳ない気がするよ。田舎でしがない領主をやっていただけなのに」
私は謙遜するオーキッドの手を自分の手で包んだ。
「私の命を救ったのは、どこの誰ですか?」
強い語調で私は言った。
「え、それは……僕だけど」
そう、それが答えだ。私はにっこりと微笑む。
「オーキッドは私を守るために山中にじっと隠れていたんですよ。普通の領主ならそんなことまではしません。その行為が巡り巡って、幸せを呼んできたんです」
「ありがとう、ティエラ」
オーキッドは私の手を放すと、私を少しかき抱いた。人の目がないからか、いつもより大胆だ。
「それは私のセリフですよ、オーキッド」
オールモット村に最初に向かう時は酔いそうになった馬車だが、今ではこの揺れが心地よいぐらいだ。
私とオーキッドはこれからも幸せになる。
幸せになってやる。
●終わり●
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