9. 魔女と人間は似て非なるもの
防腐も獣除けもしてあれば、血抜きが終わるまで傍で待機する必要はない。休憩を挟んで魔草の採取へと向かう。人除けの内部に戻るので、人一人通れる分の穴を開けて英雄を通した。英雄にも採取用の袋を渡し、茂みを掻き分け歩く。
「それ触ったら一日激痛に苦しむやつ。あとこれがヌフォークね。…そんな警戒しなくても一本二本見える程度だし、花も咲いてないからそこまで酷いことにはならないよ。嗅いでみる?」
「やめておく」
千切ったヌフォークの葉を掲げると英雄は後退り、ルガルカは呼気で笑った。
「採るのはこれね」
一通りの注意事項を告げ終えて、ルガルカの腕一本分の長さと頭一つ分の横幅を持つ葉を指し示した。魔女の煙草になるキャナロである。一株に二十枚程ついているが半分は残すこと、蕾がついているものは避けることを言い置いて、ルガルカ自身はヌフォークの群生地を見に行く。
木々の間隔がより広くなり、陽の光が地面まで届きやすい場所まで足を伸ばすと、豊かな下草が黄色い花で彩られていた。尖った葉が茂る中に、円錐状の花がいくつも連なっているのが見える。それがヌフォークだ。
ミツリンガロウの群れがあれほどになっていたのだから、そろそろだと思っていたのだ。ルガルカは満開の光景を満足げに見渡し、腰程の茂みを掻き分けヌフォークの最中に向かって進む。魔女が魔草から受ける影響は、他の生物とは異なる場合も多い。気分の増幅も多少はあるが、判断を誤らせるほどではなく、魔女には魔法の補助にもなる。ルガルカはこれを利用して、定期的に密林全体の把握をしていた。
目を閉じ視覚を遮断して、遠見の魔法を展開する。北は山脈の天辺から南は人の整備した街道まで、意識を伸ばして実際に視察に出ているかのような知覚を得る。
山頂は国境らしく、騎士の駐屯する石造りの砦がある。砦といっても小さなもので、人員も二、三十人規模。雪深い険しい山を越えて攻めてくるような者はいないらしく、領土の主張と監視が主な目的の砦といったところだ。彼らの様子や山頂の積雪具合、山の崩れ具合を確認してゆく。数年前に家の側の川が干上がりかけた時は、これで原因を突き止め土砂崩れを取り除き、水流を取り戻したものだ。他にも動植物の分布や野盗の配置の確認も欠かせない。それから生態系に影響が出る程の乱獲をするような人間には脅しをかけにいかねばならないから、重要な作業だった。
遠くに意識を伸ばしていても、付近の気配に無頓着になるわけではない。何かが近寄る気配があって魔法を中断しかけたが、知った気配だった。重量のある者が靴底で下草を踏み締める音。何枚も重なった葉が歩く振動に合わせて揺れ、採取袋の中で擦れ合う音。英雄のものだ。英雄であればヌフォークの咲き乱れる中には入って来ないだろうから、邪魔もされないだろうと遠見を続けた。
「魔女殿!」
予想に反して緊迫した声がして、魔法は中断された。何事かとそちらを見ると、英雄が猛然と迫り、ルガルカは声を発する間もなく片腕を強く掴まれていた。採取袋は放り出され、英雄が切迫した恐ろしい形相で見下ろしている。
「な、なん」
「どこか体を悪くしているのか」
唐突な内容に、問う眼差しのまま見上げていると、英雄は気が急くようにルガルカの両腕を掴んで向かい合った。
「魔女は死ぬと世界に溶けると聞いている。体が薄い」
「ああ」
ルガルカは自分の身体を見下ろし、英雄にどう見えているのかを認識した。
魔女は人間よりも世界を構成する要素と近い。だから理に触れることが可能で、魔法という形でそこに干渉できるのだ。それ故に生命が抜ければ器も残らない。その所為か魔女には墓を作る風習が無かった。死とは世界に還ることで、一部になること。厳密には別れではないのだ。肉を持った母体から産まれるが、世界の一部が一時的に人間の形を持ったという認識である。
但し、今ルガルカは死にかけているわけではない。魔法を行使する力、魔力は魔女を構成するエネルギーだ。それが激減すれば、魔女は世界に、正確には生物に知覚されにくくなるのだ。広範囲の遠見はルガルカには過ぎた魔法で、ヌフォークの助けを借りても薄くなることがあった。
「そういう気分だったんだよ」
「気分」
英雄は疑わしげに眉を寄せ、表情が晴れる様子はなく、腕を掴む力が緩まることもない。
これはおそらく、不安が増幅されているのだとルガルカは思った。それによって、ヌフォークへの警戒を飛び越えてここまで来てしまったのだ。
「そのうち戻るからほら、ここ出るよ。ヌフォークのど真ん中に居るの、判ってるだろ」
「悩みがあるなら聞く」
英雄は遮るように言葉を被せ、真剣な眼差しで見下ろしている。ルガルカは戸惑い、言葉の意味を考える。
「あ、あー、そうか、そういう風に受け取れるか。死にたいとか考えてたわけではなくてね、魔女には薄くなる日もあるってこと」
「誤魔化してないか? 俺とは付き合いも短いから話しにくいのかもしれないが、そんな風になるまで溜め込むのは良くない」
適当に答えた為に疑いの念ももったようだから、厄介なことになってしまった。それこそ付き合いが短いのに、こんなに親身になる要素はない筈なのだ。にも拘わらず、英雄の目には不安と焦燥、苛立ちが見える。
「溜め込んでないし遠慮もしてない。あんた今おかしくなってるから、先ず移動しよう」
「移動したら話すか」
頷くまで頑として動かない決意のようなものを強い眼差しに感じて、ルガルカは渋々頷いた。英雄は離すのを恐れるようにルガルカの手をがっちり握って、来た道を戻る。採取袋は眼中にないようだったので、ルガルカが拾った。ヌフォークの野から出たら、川岸に出たら、家に着いたらと、なんとか英雄を誘導し帰り着いた。
荷物を片付ける間も英雄は手を離さず、話をせがむ。暫くこの状態が続くのかと思うと、ルガルカは頭痛のする心地だ。食卓の席について一服することには成功したが、向かい合って座っている英雄が、食卓の上でルガルカの手を握っている。ルガルカは自由な方の手で煙管を取り出し、キャナロを喫煙していた。
「何聞きたいんだっけ」
ルガルカは英雄が納得する話をでっちあげようと道中考えていたのだが、だんだん面倒になって忘れてしまっていた。
「魔女殿が死にたくなる程の悩みを抱えている話だ」
「あ、それか…英雄サマがヌフォークに侵されてて辛い」
「……それは後付けだろう」
英雄は眉を顰め瞳を揺らしたが、騙されなかった。
「だが、それで余計辛いなら俺は、俺が魔女殿を殺すことになるのか」
「ごめん私が悪かったならないから痛い痛い手握り過ぎ」
騙されなくても、不安なあまり思考が悪い方向にどんと落ちた。抗議によって握る力は緩んだが、逆の手がルガルカの手首に触れた。存在を確かめるように撫でる手つきが、上に向かうに従い怪しくなってくる。不安を解消したくて仕方がない気持ちが高じ、原始的な欲求に繋がりかけている予感がして、ルガルカは慌てた。
「待て英雄。これほんと関係ない、私は心身共に健康! 魔女の事情ってのがあるんだよ!」
「俺には言えないようなことなのか」
「あんたどういう立場なの…いやあんたじゃなくても言わないけどね! あんただって常態ならとっくに引いてるって気付け!」
二の腕を這わんとする英雄の指を、反対側に折り曲げようとルガルカが必死になっていると、その手が止まった。
「常態? …今俺は……ああ、ヌフォーク……だが…」
ルガルカから意識が逸れて、英雄の手が緩んだ。その隙にルガルカは逃げた。寝室に。そこは人除けが施された安全地帯だ。
「魔女殿!? 待ってくれ、魔女殿!」
英雄は追ってはくるものの、入ることができずに戸の前でうろうろしている。目の前からいなくなって不安が膨れ上がったようで、呼ぶ声が止まない。説明しないのなら見える所にいてやるのが優しさだろう。だが身の危険を感じる。それにルガルカはもう疲れているのだ。存在が希薄になるほど疲れているのだ。ローブを床に脱ぎ捨てて寝台に倒れ込むと、直ぐに睡魔に身を委ねた。無事か、姿を見せてくれと、懇願する男の声を聞きながら。