セスの純情
セスがルガルカを初めて見かけたのは、まだ商人としては駆け出しで、道中の護衛費や宿代を節約するために同業者と協力し合っている頃だった。よく旅程を共にするレビが、予定よりも儲かったから奢ってやると言うので、適当な酒場へ向かった。セスは酒場に入って直ぐに、カウンター席に女がいることに気付いた。夜も早い時間とはいえ、女が一人でいるのが不用心で、目を引いた。質素なローブに隠れて身体の線は曖昧、露出はなく、化粧っ気もないから商売女ではない。冷たい印象を与える風貌に媚態は一切ないが、どことなく気怠げな空気が色香を匂わせて、危うさを感じる。
「お前も気になる?」
席についてからも何度も目がいっていたのを、レビに見つかった。セスはなんと答えたものか困って、口籠もるように言葉を発する。
「なんか……危なっかしいだろ」
「恥ずかしがんなよ、解ってるって。声かけてみるか、俺もできればご相伴にあずかりたい」
商売女には見えないが、一人で酒場に入るような女だ。それなりの期待はできると踏んだレビが、景気付けのように杯を呷って席を立とうとしたので、セスは慌てた。
「いや、俺はそういうつもりじゃ」
「やめとけよにいちゃん。アレは落ちねぇよ」
隣のテーブルから、既に酔い心地の声が掛かった。見れば簡素な革鎧に帯剣している、戦闘職の男だ。同席の者も細部は違うが似たような格好で、傭兵稼業と知れた。
「旦那は試し済みで?」
セスもレビも、徒歩や荷の上げ下ろしでつく類の筋肉しか備えていない。荒くれ者揃いの傭兵相手に下手な反応はできず、レビは人当たりの良い表情と声音で応対する。
「馬鹿言え。仲間の女に手出しする程下種じゃねぇよ」
その傭兵は不快そうに吐き捨てた。ただ、歪んだ赤ら顔は苦笑いに近く、沸点が殊更に低いというわけでもないようで、セスは胸を撫で下ろす。
「待ち合わせですか、なら心配ないですね」
俺は心配してただけですよ、とさりげなく主張する。実際セスはそうだったのだから。
「来ねぇよ」
「え?」
「来ねぇ。あいつぁアレを、置いていっちまったからな」
セスもレビも黙った。行ってしまったのか逝ってしまったのかは判らないが、先の言は現在進行形で仲間の女と認識しているような口振りだった。おそらく後者だとセスは思った。
「俺ならあんないい女なら女の方選ぶけどなぁ。クソ勿体ねぇことしやがる」
別の傭兵が、やりきれないように語尾を酒で流す。
「まあしょうがねぇけどな」
また別の傭兵が、飽いたような慣れたような色の濃い苦い吐息を落とし、同席者は皆似たり寄ったりの表情をする。その表情の意味を正確には把握できず、セスはレビの様子を窺ったが、レビも似たようなものらしく、セスを窺う目と合った。適切な言葉を選び出せず、発言を譲り合っているうちに傭兵の一人が口を開く。
「だからって遊び半分で手ぇ出すなよ」
音にされていないのに、殺すぞと凄まれたかのような背筋の冷えを味わって、セス達は背筋を伸ばして頷いていた。
酒もつまみも安い割には味が良いので、それからもその酒場を訪れるようになり、その度にその女を見かけた。初めて訪れた時にセス達を見咎めた傭兵達も、誰かしらがいることが多く、女に対して良からぬことを考える客に目を光らせているようだった。だからといって、直接話したことはないという。いっちまったあいつとやらから話をよく聞いていて、大事にしていたことを知っていたから、なんとなくそういう習慣になったということだった。素敵な友情ですねと言ったら、そんなんじゃねぇよと、またセス達には窺い知れない感情を内包した溜息をついていた。
レビは帰らない男を待ち続けるなんて切な過ぎて辛いと言うが、セスはそうではないのではないかと思っていた。女には悲嘆に暮れて憔悴した気配があるわけでもなければ、その目線が入り口に向くこともないのだ。酔っ払いの発する騒音に掻き消されないように、その酒場の入り口には戸が開いたら判るように鐘がついているのだが、待っているのならそれが鳴る度に目が向くのではないかと思う。
それに、とセスは杯を傾けながら女を観察する。どうも女には、周囲の話に耳をそば立てているようなきらいがある。それを受けてなのか、その瞳が憂いを帯びる時もあるが、大抵は己の内に沈むような色が伏せられた睫毛の合間から垣間見えて、思索に耽っているようにも見えた。何を考えているかまでは判らない。ただ、己の中に何かを落とそうとしているのではないかと思った。その姿は酷く理知的に見えて、それがセスには哀しく映った。恋人が帰らないと判った時にも、感情に任せて泣くということができなかったのではないだろうか。もしかしたらそういう時期が過ぎただけなのかもしれなかったが、己のうちに湧き上がるものがあって、セスは席を立った。
「え、おい、セス、酔ってるのか? 駄目だろ。手出すなって」
その時傭兵達はいなかったが、セスが見据えている先に何があるのか見てとって、レビが慌てた。
「遊びじゃなきゃいいんだろ」
一歩近づく度に高鳴る鼓動は、酒のせいなんかじゃない。一方的に見知っているだけだが、もう他人のようには思えなかった。抱え込んでいるその悲しみを打ち明けて欲しい。一人で苦しまないで分け与えて欲しい。みっともなく泣き喚いても受け止めるから、慰める用意だってあるから、だからどうか、どうか───
「俺と結婚してください」
想いが突き抜けて第一声を間違えた。当然のように断られた。
セスは酒が入ってなければもう少しましな声のかけ方ができた、タイミングも今じゃなかったと落ち込んだが、程なく開き直り、ルガルカを見かける度に話しかけ、求婚し続けている。
「望みないのによくやるなあ」
何百回と振られる日々の中、セスはレビに何回目かの呆れた声をかけられた。
「あの酒場にはもう顔出さなくなって随分経つだろ。そろそろ次に目を向ける余裕ができてきてると思うんだよ」
「その随分経った間に、これっぽっちも仲進んでないのに折れないお前を尊敬していいかどうか、俺は迷っている……」
「進んでないわけじゃない。偶に頼りにされる仲にはなってる」
初めは煩わしがっていただけのルガルカの態度に徐々に呆れが混じるようになり、つまりそれは、拒絶から許容への移行に他ならなかった。求婚し続けなければ得られなかった変化だと、セスは思う。それからもずっと粘り続けているから、ルガルカの方から声をかけられるまでになったのだ。
「都合の良い男と思われてるだけじゃ」
「上等だよ。初めの頃は害虫を見るような目で見られてたんだからね」
「そ、そうか、そうだな……? そうだな、駆除対象から利用対象に格上げだな……?」
セスにとっては大きな前進なのだ。いっそ誇らしげで、レビは惑わされる。
「けどさ、そっからが進めてないだろ。せめてやり方変えたらどうなんだよ。一旦引いてみるとかさ」
「それはちょっとでも脈ある場合じゃないと使えないだろ」
セスとて解っているのだ。自分がそういった対象として見られていないことを。それどころか、セスが接触を断ったら、ルガルカは存在をあっさり忘れるだろう。
「だいたいお前の求婚、もう挨拶みたいな扱いになってんだろ」
「うん。いいんだ。ほら、女ってさ、期限あるだろ。子供産むにはさ。だからこのままずっと姐さんのお眼鏡に適う奴が現れなかったら、妥協する時が来る。妥協したくなった瞬間に求婚する男がいたら、選んでもらえるんじゃないかと思ってさ」
セスはそこに賭けているのだ。意識されていないからこそ、好意を主張し続けなければ、選択肢にも上がらないだろうと思っている。レビは話を聞くうちに、呆れから哀れみの表情になった。
「お前、プライドは…」
「プライドで愛は得られないんだよ」
セスは遠くを見通すように目を細めた。そこに至るまでに数多の苦悩があったのだろうことが窺える、達観した佇まいである。
「お、おお……そう、」
レビは気圧されたように頷いたが、直ぐに我に返る。
「だな、じゃねぇわ。あっぶねぇ。名言聞いた気分になるとこだった。そこのプライドは捨てんな。しっかりしろ」
レビはセスの両肩を掴んで揺さぶった。セスはレビの両手を掴んで揺れの軽減を試みる。
「自棄になってるわけじゃないよ。たとえ妥協でも長い時間一緒にいれば、いつかの段階で、何かの拍子に、気の迷いかもしれなくても、好きになってもらえるかもしれないからさ」
そう、これは自棄ではないのだ。男と女だ、何が切っ掛けでどう転ぶか判らない。情から愛が生まれることだってある。それを見据えた、思慮遠望なのである。
「うわなんかもう俺泣けてきた」
セスは目を潤ませたレビによって、もう呑もう、吞むしかない! と酒場に連れ込まれた。
それから暫く、英雄の求愛戦争の噂が広がり、事の顛末を歌う吟遊詩人が人気を博し始めた。セスはまさかそれがルガルカのことだとは思っていなかったので、市井の人々と同じようにその物語に親しんでいた。ルガルカが英雄と暮らしていることを知った時には暫く放心状態だったが、少し落ち着くと、英雄が傭兵稼業であることを思い出した。そしていつかルガルカが言った、互いに難儀な質だという言葉も。
「レビ。こういうこと、願っちゃいけないのは解ってるんだけどさ。解ってるんだけど。……俺は諦めなくても、いいのかもしれない」
「………お前のしぶとさには脱帽するわ」
酔い潰れる寸前の友の背を、レビは見守りの境地で優しく叩いた。