29.平穏は守られる ──取り敢えずは
二人はルガルカの家の前に転送されていた。
マドックは状況を把握するより先に身構え、ルガルカを背に庇うようにする。ルガルカは何が起こったか瞬時に理解したので、額を押さえて天を仰いだ。マドックが見覚えのある場所であることに気付いて警戒を解いた時には、ルガルカは壁に手をついて、脱力と歯噛みという両立しない感情を戦わせていた。
「ガリィ……ほんっとあいつだけは……!」
マドックを招き入れてしまうと、追い出すのが面倒なのだ。
「あいつの仕業か。……懐かしいな。変わってない」
原因が判れば、マドックはすっかり気を楽にして辺りを見回し、愛おしむように歪んだ家を見上げた。ルガルカは疲れた目を向ける。
「あんた。まさか本当に名声捨ててきたのかい」
マドックの態度は間違いようもない。ルガルカを捕りにきていた。ルガルカはマドックの言うケリの意味を読み間違えていたのだと、悟らないわけにもいかない。
「いや。捨てようがないから利用を制限してきた」
ルガルカは距離を詰めるマドックから逃れるように横にずれ、目で説明を促した。
「俺は惚れた魔女の家を護る。その家がイアチフの領土内にあるうちは、抑止力としてのみ俺の名を使ってもいい。そういう取引をしてきた」
つまり。魔女の首輪をつけているので王家の首輪をつける余地はないが、イアチフの領土内の一部を護るのだから、英雄の護る国と公言しても嘘にはならないという理屈だ。魔女の住う妖しの森が他国に渡らない限り、英雄もイアチフのもののままである。妖しの森に攻め込むようないかれた国は隣接していない。よって現状変更する可能性を握っているのは魔女だけだ。王は魔女の機嫌を損ねないことにだけ気を付ければ良い。実質、ルガルカへ厄介事が降りかかる可能性を潰してきたのだ。
ルガルカは唖然とした。
「あんたそれ。私があんたを受け入れる前提じゃないか」
マドックは自信ありげに笑んだ。
「戦場から戻ったぞ。お前の元に。他に何が必要だ」
前提としているのではない。受け入れさせる気なのだ。新たな課題を寄越せ、こなしてやると言わんばかりの物言いに、ルガルカは開いた口が塞がらない。
「あんたなんだってそんなに私に執着してるのさ」
思い返せば特別なことをした覚えもない。成り行きで生き返る手助けをしてしまった他は、殆ど放置状態だった。
「理由が必要なのか。そうだな……敢えて言うなら、あんな風に戦に出た男の心理を理解できる女がいるとは思わなかった。ああ、まだあるな。冷淡かと思えば情もある。そんなところも堪らない。後は感覚的なものだから説明はできないんだが」
瞬きながら聞いていたルガルカの目が、僅かに逸れた。マドックに触れられて嫌ではなかったのも、何故かと問われても説明しようがない。それこそ理屈ではないのだ。マドックは目を細め、ルガルカの頬に片手を添えて逸れた視線を戻させる。
「兎に角俺は、お前を帰る場所に決めた」
ルガルカは瞳を揺らし、顎を引きそうになったが、マドックの手がそれを許さなかった。
「死に場所を此処に決めたんだ」
灰色の目には強固な意志があり、ぶれる余地を見出せない。ルガルカは言うべき言葉が直ぐには弾き出せなかった。嘘をつくなと突き放すには隙も根拠もなく、受け入れるにはあんなに拒絶をしておいて今更という躊躇いが残っている。何より、応えることなどまるで想定していなかったのだから、問題を取り除かれたことへの戸惑いも大きい。
「……信じられないか? なら、もう一度行ってくるが」
ルガルカは瞼を持ち上げた。この男は本当におかしいのではないだろうかと思った。灰色の瞳の奥にあるものを透かし見ようとしても、まるで濁りがない。確実に実行する男の目だ。
「………わかった。わかった、もういいよ」
ルガルカは宥めるように、頬を捕らえているマドックの腕に手を添えた。このおかしいくらいの一途さの前では、ルガルカの懊悩など、取るに足らないつまらないもののように思えてきた。そんなものの為に戦に送り出すなど、狂気の沙汰である。頼みもしないのに実行しているのはマドックなのだから、狂気なのはマドックなのだが、だからといって徒らに狂気を煽ることもない。
「もういい」
ルガルカは目を伏せ、深い溜息と共にぽんぽんと軽くマドックの腕を叩く。降参だ。
「死ぬ時に傍にいたら信じてやる」
今信じるとは言えない。嘘になる。だが結局のところ、ルガルカはこの男に惹かれているのだ。もしもの時は、懲りずにまた帰らない男に引っかかった、どうしようもない自分に呆れればいいだけだ。
諦念の色が濃すぎて、どこまでを受け入れた言葉なのか解釈に惑ったのだろうマドックが、考え込むように黙っているので、ふ、とルガルカの口から吐息のような笑み声が漏れた。
「ルガルカ? あー……取り敢えず、滞在は許すってことか?」
少し困ったような顔がまた笑みを誘って、ルガルカはマドックの太い首に両腕を回した。伸び上がってその唇に唇を重ねる。触れ合わせただけで顔を離すと、マドックは目を見開いていた。ルガルカは微笑みで目元を緩める。この狂気じみた男を困らせるのも、驚かせるのも、気分が良いものだ。
「抱かれてやってもいいってことだよ。あんたみたいのが禁欲なんて、辛かったんじゃないのかい」
言い終わるか終わらないかのうちに、ルガルカは縦抱きに持ち上げられていた。
「正直我慢の限界だった」
そこからはあっという間だった。マドックの使っていた部屋の寝台に雪崩れ込む。マドックはルガルカの唇を貪り、もどかしげにローブを剥ぎ取りにかかった。
「待っ…、待った、鎧くらい脱ぎなよ」
「む」
息継ぎの合間に指摘すると、マドックは唸って身を起こし、剣とマントを外しにかかる。ルガルカもこの期に及んで勿体ぶるつもりはない。自らローブを脱いだ。革鎧を脱ぐのを手伝おうかと手を伸ばしかけて、その手が止まった。寝台の上に、失くなったと思っていたものがあったのだ。ルガルカがマドックに与え、マドックが置いて行った服である。このタイミングで、とぎょっとしたが、使っていなかった部屋だ。処分に来たあれ以来、一度も足を踏み入れていない。直ぐに戻されていたのかもしれなかった。
「本当は待ってたんだな」
異様に嬉しそうな声が聞こえて見上げると、ルガルカの視線を追っていたのか、マドックもそれを見つけていた。
「……いや、それは処分しようとしたら小人が」
皆まで言う前に、ルガルカの言葉はマドックの口で封じられていた。
「悪い、本当にもう無理だ。後で聞く」
喜びがマドックの理性を持っていってしまった。ルガルカは寝台に沈みながら、キシシという小人の笑い声を聞いた気がした。
イアチフ王国北部の密林地帯にある妖しの森は、英雄の愛する妖しの森になった。銀髪の美青年吟遊詩人が事の顛末を脚色たっぷりに歌い、極彩色の魔女が頭に大きなたん瘤をこさえていたという。