24. 狂気と正気に裏も表もない
少し進軍すれば刃交えられる距離に野営を敷き、互いに睨み合っている状態では、完全な眠りに落ちるわけにはいかない。歩哨の交代で誰かの気配が動く度に浅い眠りから覚める。身体を休めるために目を閉じたままのマドックの耳には、交代中の人間の会話と、近くで雑魚寝している傭兵仲間の寝息、森の動物が交わす遠くの鳴き声が入ってくる。
馴染んだ空気だった。
戦場には全てがある。生も死も、友情も裏切りも。ルガルカの言う通りだ。神経を研ぎ澄まし、死を身近に感じながら生きるこの感覚は、平穏な日常では味わえない。自分は生きているのだと、意識するでもなく強烈な実感が齎される。同時に嫌悪もあった。殺人者としての恐怖は恐らく、もう別のものに変換されている。それでも悪夢として残り、自我すら覆い尽くそうとする罪悪感に襲われることもある。ふと正体の判らない焦燥感に駆られることもある。それでいて、それらを味わい理解できる、同じ穴の狢が集まっているという、奇妙な安心感もここにはあるのだ。これが絆というのかは判らない。ただ、人里で親しげによくしてくれる善良な人間にも、自分ではどうにもならない欲を処理してくれる夜の女にも、見出すことができないものだ。
平穏に馴染めなかったり、ひり付くようなこの生に魅せられる者が、一定数いるのも事実だ。ルガルカの元を去ったという男も、そういった質の男だったのかもしれない。だがマドックは、自分は違うと思っている。惰性のように囚われているのであって、自ら留まりたいわけではない。抜け出せるものなら抜け出して、そう、ルガルカのいるあの森の、穏やかな暮らしを望んでいるのだ。
戦場に近い刺激は、力を誇示し役立つことを示せる場は、狩りくらいしかないあの暮らしに、長く耐えられるかは正直判らない。戦いに出なければと、訳もなく血が騒ぐ日もあるかもしれない。狢の集まるこの場所に、戻りたくなる日もあるかもしれない。そうしてもしまた戦に出たとしても、ルガルカが待っているのなら、何がなんでも帰ろうと思えもするのではないか。そういうものが、もうずっと、マドックは欲しかったのだ。恨んでも恨んでも、殺しても殺しても何も満たされず、暗鬱なものが積もってゆくだけの空っぽな心に気付いた日から。
「あいつ上手いことやったな。俺もそろそろかかあの所に帰りたいぜ」
火の番をしている辺りから、ぼそぼそと潜めがちの声が聞こえる。傭兵とも勘違いされかねない粗野な物言いで、平民上がりの騎士だと見当がつく。長引く戦に、遠方からの増援で来ている騎士達は、暫く家族と会えていないようだった。軽傷を大袈裟に申告して後送を目論む者がいて、その成功を羨んでいるようだ。
それまでも故郷や家族を恋しがる者や、死に際に恋人や家族への伝言を口にする者は見てきた。まだ憎悪と怒りに突き動かされていた傭兵になりたての頃、マドックはそれに苛立ちを覚え、女々しい奴らだと見下していた。だが本当に見下していたわけではなかった。自分にないものを持っている者達が、羨ましかったのだ。見下すことで誤魔化していただけの、幼稚な自己防衛だった。
「俺もいい加減帰らないとアイナに振られちまう。手紙の返事が遅れがちで……内容も短くてさ」
マドックは若い騎士の嘆く声を聞きながら、手紙を書くのもいいかもしれないと、穏やかな気持ちで微睡む。届ける手段がないと気付くのは、起きてからだった。
「おい、今日はああいうのないだろうな」
進軍中、ダンカンが監視でもするようにマドックの隣を陣取って確認する。
「もうする理由がない」
勝手な行動は本来、無駄な死を呼ぶものだ。ただ状況を有利にできそうなものがそこにあったから利用したに過ぎない。英雄自身がテゼンを敵と見做した。それが伝われば、テゼンの傭兵の増員は多少鈍るだろう。離脱者が出れば尚良い。マドックは早く仕事を終わらせて帰りたいのだ。
「何笑ってんだ」
「楽しくなってきてな」
帰還に思いを馳せる戦は初めてだった。少し前までは生存本能に従って死を避けていただけだが、待っているものの為に死ねないという感覚は、マドックの中に今まで無かった熱を生んでいる。
実際には待たれているわけではないのは解っている。ある程度物事を見通せる者は、情動だけでは動けないものだ。あれもおそらく、感情を理知で制御できる女だ。だからこそ感情だけ揺さぶっても崩せない。だから証明する。一度で駄目なら何度でも。戦をそんな風に使う程気軽に考える程度には、自分の感覚が常人からはかけ離れていることも解っていた。これを麻痺というのか、壊れているというのかは判らない。ただ、あの頑なな魔女を突き崩すには都合が良い感覚であるから、これでいいのだ。マドックの口元が一層歪んだ。あの冷ややかで温かい魔女には、きっと自分くらいが丁度良い。
「……お前もとうとうヤられたか」
「ヤられてない。これを片付ければ欲しいものに近づく。それが楽しいだけだ」
迫る軍勢を相手に、マドックの目は爛々としていた。
「うっわぁ………なんかに目覚めちゃってる? ルゥちゃんこれ早めに認めたげた方がいいかもお…やばぁ」
引き払われた野営地に一人残っていたガリンダは、遠見の魔法で知覚を拡張し、前線を見ていた。木の枝に腹這いになり、暫くは楽しげにも見えるマドックの戦いぶりを見ていたが、ふと近場に知覚を切り替えて上体を起こした。
「でぇ? そこの君はどうしちゃったのかなあ、始まっちゃってるけどぉ、加わらなくていいのー?」
片頬杖をつき下方に向けて声を投げると、一拍の後、三白眼の男がおどおどした様子で木陰から姿を現した。
「なあにー? あたしに一目惚れしちゃったー?」
「いやあ、英雄と随分仲がいいみたいなんで、気になっちゃいまして」
揶揄うガリンダに対して、ユスフは気まずそうに身を縮めている。
「マドックは自分殺した相手は嫌いみたいよー」
ガリンダは楽しそうに目を細めた。まるで共通認識があると知っているかのようなその言葉に、ユスフは恐々とした様子を霧散させた。英雄暗殺は秘密裏に行われたことで、計画に関わった者しか知らない筈のことなのだ。
「陛下を謀りましたね?」
ユスフは感情のない目で直接的に問うた。魔女を相手に素性を隠すのは、時間の無駄と判断したのだ。ガリンダはあからさまにがっかりした顔をした。急にやる気をなくしたように頬杖を外し、元の寝そべる形に戻る。
「もー君切り替え早すぎー」
「鎌かけておいてなんですか」
ガリンダが不平を零しても、ユスフの平坦な態度は崩れない。
「張り合いってもんがあるじゃない」
「遊ばれて喜ぶ趣味はないので」
「つっまんない奴うー」
ガリンダは口を尖らせた。
「ちゃんと殺したってば。王サマ自分の目で確認したよー?」
「ですが生きています」
「生き返っちゃっただけだからあたしは知らなーい」
ユスフは真実を見極めようと、目を細めてガリンダを見据えたまま黙った。ガリンダは拗ねたような顔でユスフの鎧の鋲の数を数えている。会話に飽きたのだ。
「………再度の依頼は受け付けていますか」
「え~一回殺ったらもーいーかなー」
「そうですか」
如何にも訊いてみただけといった風情でユスフは淡白に頷いて、もう用は済んだとばかりに一歩足を引いた。
「もう行っちゃうの? まあ君じゃ殺せないから別にいいんだけどさあ」
ガリンダは薄らとした笑みに口角を上げ、三日月型に目を細めた。ユスフはその目に射竦められて全身から血の気が引き、脊髄反射で剣の柄を握った。が、引き抜けない。何をされたのかは判らない。したのかも判らない。ただ、心臓を鷲掴みにされたような感覚に喘いだ。
「あたしの邪魔、しないでね☆」
ガリンダの姿が消えたと認識した時には耳元で軽薄な声がして、次の瞬間、心臓への圧迫感が消え、呪縛が解けたかのように剣が鞘走った。抜けた剣がテゼン兵の剣を弾いたのは、偶然に過ぎない。ユスフは前線に飛ばされたと気付くより早く、応戦しなければならなかった。