23. 言葉よりも明確な理
その日、ゲイン・カイオンは、商会の仕事を終えても代々引き継いでいる豪華な執務室にいた。良質な木材を腕の良い職人に加工させた執務机で、高貴な身分の人間に使う、上質な便箋にペンを走らせる。ゲインの代になってから向上した硝子加工技術を結集した、美しいシャンデリアの灯りの下、良い知らせを綴るのはなんとも気分の良い時間だった。
目的のものを絡めとる下地がいとも簡単に出来上がっていくのだから、無礼を働かれたことなど気にならない。彼の女が魔女だというのは眉唾物だ。態度が悪いだけで、奇抜な格好でも言動でもなかった。魔法を行使した噂の一つも上がってこなければ、唯一魔女を匂わす道具も女の用意したものではない。不思議と住処が割れないが、それも直に判明するだろう。交友関係も、あの経営状況の悪いパン屋とセスという商人くらいで、身なりも質素、裕福な気配はなかった。ひとたび贅沢の味を覚えさせれば意のままになろう。此方の話を詳しく聞かずに断ったのは、魔女ではないからどのみち受けられないと思ったからではないか。
ゲインは書き上げた内容を見直しながら、年代物の葡萄酒を口に運ぶ。芳醇な銘酒は飲み慣れていて特別な感慨は呼び起こさないが、富裕の嗜みとして手放せないそれを気分良く堪能していると、風もないのに灯りが消え、室内に闇が下りた。
「いやに機嫌が良いじゃないか」
何事かと訝しむ前に低い女の声がして、グラスを手放し、浮かしかけた腰が中途で止まる。
「な、なんだね君は。どうやってここに……誰か! 侵入者だ!」
視界がきかない状態では下手に動けず、ゲインは手探りで机の引き出しから短剣を取り出し、警備を呼ぶ。扉の直ぐ向こう側に待機している筈の警備から応答はない。その静寂は、近辺に侵入者以外の人気がないことを示していた。
「惚け老人虐めるのが、そんなに楽しいかい」
背後からじわりと女の声が近付いた。ゲインは振り向き様に短剣を振るおうとして、為せなかった。言い知れぬ恐怖に心臓を鷲掴みにされて、脳が手足に指令を出せなかったのだ。にも拘わらず、女の発する言葉は正確に脳に届く。聞き覚えのある声だと気付いて、更に狼狽した。
「き、君は……ルガルカ君、かね」
女の指がゆっくりとゲインの側頭部を這った。
「あんたからは、何を奪ってやろうかね」
「まっ、待ってくれ!」
女の指は愛撫でもするように優しいのに、触れた先からぞわぞわと怖気が広がり、ゲインの声は上ずった。恐怖の正体も、身体が言うことを聞かない理由も解らない。ただただ本能が脅かされ、萎縮しきっていた。何かよくないことが起きている。ゲインの問いも事情もお構いなしに、事態が進もうとしている。焦燥を飛び越えて恐慌一歩手前だった。老舗の商会を維持してきた交渉術を発揮する平常心を、奪われていた。
「待ってくれ何が気に障った!」
「おや判らない?」
漸く会話が成った。だが内容は息をつけるようなものではない。
「あんたは直接手を下していないから、逃れられるとでも思った?」
「パ、パン屋の件かね。確かに私が指示した。だがやり方は一任してある!」
「そうだろうね。すべきことを多く抱えていて、視野を広く持たなきゃいけない偉い人間は、細かいことまで関わっていられないんだろう。知ってるよ」
ゲインはここだ、と思った。矢張りルガルカは話の通じる魔女なのだ。このか細い糸口を掴んで、ゲインの舞台に引き摺り込みさえすれば、最悪を回避できる。相変わらず心臓を細く引き絞られるような感覚に苛まれ、指一本動かせないが、使い慣れた口を開こうとした。
「けど。私が面識あるのはあんただけだからね」
だから標的はゲインだとばかりの単純な理に、ゲインは出端を挫かれた。女の両手で頭を柔らかに包まれて、開いたゲインの口から悲鳴が上がる。理解力があっても、理屈が違う。魔女とはそういうものだ。知っていた筈のことを改めて理解して、否、植え付けられて、ゲインは逃げ道を見失った。この時少しでも平常心をかき集められていたら、組織の頭を押さえるという、もっと合理的なことに気付けていたかもしれない。だがそれに気付ける機会を、自らの言葉で手放した。
「待て! 何が望みだ!」
「何故? まさか、叶えられると思ってるのかい。魔女の望みを」
女の指先がゲインの蟀谷を、頬骨を、顎の輪郭を辿り、襟ぐりをなぞって首の血管を弄ぶように愛撫する。
「かかか叶える! なんでも叶える! 私にできることならなんでも!」
心の底から慈悲を乞う声に、魔女はうっとりと吐息を落とすように微笑んだ。
「嗚呼、あんたは良い男だね」
耳殻に触れそうな程近づいた唇から流し込まれる艶のある声は、愛を囁かれているかのように甘美でありながら、本能の芯を直接撫でられたような怖気をゲインに齎した。
ゲインは早急にペニナを無罪放免にする手続きをし、転送箱の権利を返した。そして全てを話す。
ゲインはルゥという女を探し出し、取り込むよう、イアチフ王から直々に依頼されたのだ。交友関係から絡め取り、ゆくゆくは王侯貴族と紐付けようという腹だった。それらは全て、英雄を手中に収めるためである。




