2. 死体は選べない
大陸には、人間が足を踏み入れられない場所がいくつもある。大抵は木々が密集し植生豊かな場所で、妖しの山や妖しの森と言われている。それらは竜の巣であったり、妖精や魔女の住処だったりして、イアチフ王国北部の密林地帯にもそういった地域があった。
広大な密林の奥深く。常人がおいそれと足を踏み入れようと思わない場所に、その家はあった。いつ建てられたものなのか、木造りのその平家の建築様式は素朴で古い。全体的に歪んでいるが、計算された歪みなのか、不思議と倒壊の不安を呼び起こすものではなかった。裏に小ぢんまりとした菜園があるにも拘わらず、小動物が寄り付く気配はなく、日の出を告げる小鳥の囀りは遠くから聞こえる。
住人は寝台でまだ微睡んでいた。壁際の棚に小箱が嵌まる音がしても、薄目を開けただけで二度寝を決め込む。支払いが完了したことを示す、聞き慣れた音だからだ。昨夜の耳を選んだ男のものではない。もっと前、十日ほど前の客のものだろう。客に持たせた小箱に必要な金額が溜まると棚に転送され、完了と同時に当人に掛かった魔法が解ける仕組みになっていた。
家の住人、ルガルカは魔女だった。雷を落としたり岩を砕いたりといった、派手な魔法は使えない。得意魔法が防腐という、とんでもなく地味な魔女である。
木製の家や家具には防腐効果のある薬液があり、干し肉、干物、漬物、乾燥果物と、保存食は誰でも作れる。永久保存できる食糧など、人間には然程有り難みも無い。人里に得意を生かせる場はなく、騒がしさも好まない為、先代から貰い受けたこの土地でのんびりと暮らしていた。ほぼ自給自足できる環境だが、衣類や自作できない細々としたものは人里に求めるから、獣や野盗に襲われたり遭難したりする者を引っ掛けて、小遣い稼ぎをしていた。
重大な予言をして救国したり、魔物退治に同行して活躍したりしない、実に大人しい魔女なのである。
その日は陽が高く昇ってから起床した。背の中程まである黒髪を無造作に一つに纏め、顔を洗い、肉感的な身体には飾り気のない膝下丈のワンピースを着用する。朝食を、と乾き物の棚を開けると、魚の干物の場所が空だった。キシシと笑い声がして振り返ると、食卓の上に小さな老婆が居る。
「ばぁば」
「奥の部屋に埃が溜まってた。綺麗にしといたよ」
勝手に掃除をして、対価を持っていく小人だ。ルガルカがこの家に来た時には既にいたから、かれこれ二十数年の付き合いになる。先代の子供の頃から出入りしているというから、ルガルカよりもこの家に愛着があるのかもしれない。この辺りで干物を入手できる場所が、此処しかないからかもしれないが。
「魚ばっかりで飽きないのかい」
「今日のは旨味が足りない」
「……魔法で乾燥したからだろうか」
「足りない。手抜き。足りない。横着」
小人は言うだけ言って、くるりと身を翻し消えた。干物の出来が悪い時はこうして非難もするが、次も魚の干物を持っていくので、おそらく飽きないのだ。手のつけられていない猪の干し肉を一切れ齧りながら、釣竿と木桶を持って裏手の川へと向かう。
ルガルカは魚を釣りに行きたかったのだ。決してそれを発見する為ではなかった。
「どういうこと」
ひょこり、と口の干し肉が呟きに合わせて揺れる。人一人が通れるだけの、踏みならされた細い一本道に、人間がうつ伏せに倒れていた。その巨躯で脇の茂みが倒され、そこだけ道が太くなってしまっている。ざっと周囲を見渡すが、人除けの魔法が綻びている様子はない。不思議を起こす魔女が、不思議現象に出会う。望まぬ事態だ。
オリーブ色をした長旅用のマントの下から、革の籠手をした前腕と剣の鞘が覗いている。暗い赤毛は短く、浅黒い肌の首は太い。戦闘職の男だ。
「ちょっとあんた」
ルガルカは、干し肉を十分に咀嚼し飲み下す時間の分たっぷり待って、声を掛けた。反応はない。少し近寄り、釣竿でつむじを突いてみる。微動だにしない。更にそっと近寄り、頭の傍に慎重に屈む。固く目が閉じられた無防備な横顔は、精悍だが生気がなかった。鼻先に手をやり呼吸を確かめ、首筋に指をあてがい脈を確かめる。血臭はないが生命反応もない。ルガルカは眉を顰めた。
「何してくれてんの」
敷地内で不審死など、気持ちの良いものではない。ただでさえ獣除けも施してあるから、処理してくれる者が虫しかいないのだ。毎日のように使う道だから、放置もできない。何れにしても、何があったか突き止めて、ルガルカにも危険が及ぶようなことが起こっているのなら対処しなければならない。
人体は意識がないだけで重くなるのに、筋肉量が多い巨躯なので、仰向けにするだけでも苦労した。まだ少し体温が残っていて、死後硬直が始まっていないから、死してそれ程経っていないだろうと目する。革鎧には擦れた跡はあるが大きく破損している箇所はなく、衣服は何かに引っ掛けたのか小さな破れはあるものの、嗅覚が示す通り、外傷は見られなかった。髪を掻き分け頭部の挫傷を確かめるが、それも見当たらない。
それにしてもどこかで見た顔だと、じっくりと観察する。意志の強そうな太い眉に、彫りの深い目元、しっかりした鼻骨に薄い唇、頑丈そうな下顎。知り合いではない。どこかで見た絵姿に似ていると思い出して、はっとして腰の物を確認する。飛龍の鱗で出来た鞘。鍔の中央には赤い宝玉が嵌っており、柄頭が竜の拳の形をしていた。イアチフ王が下賜したという宝剣だ。
「狂竜殺しの英雄…!」
先の大戦で戦局を左右するような活躍をし、下賜された宝剣で狂って手の付けられなくなった竜を葬り、近隣諸国に平穏を齎した、今最も名の知れた英雄だ。小さな戦なら、英雄が姿を現しただけで戦況が変わるという。ずっと傭兵契約を貫いていて、イアチフ王があの手この手で国に取り込みたがっており、宝剣の下賜も叙爵を断った代わりと言われている。
行方不明となれば、大騒ぎになるだろう。死体になっていようとも探し出され、荘厳な葬式が行われなければ、人々は納得すまい。今代最強とも言える英雄が、魔女の庭で不審死。魔女に嫌疑がかかるのは必至だ。恨まれて悪い魔女と認定された挙句、討伐に来られても困る。物理的には防げるが、そんな騒がしさは迷惑極まりない。
「人んちの庭で死ぬんじゃないよ…」
ルガルカは急に重石を乗せられたかのように地面に両手と膝をつき、項垂れた。